鼓動する陰謀 2/予期せぬ別れ
山道を走る黒塗りの車は、木々の緑が作る天然のトンネルを抜け、やがて視界が開けた。
目の前に現れたのは、陽光を浴びて白亜の壁が眩しく輝く洋館だった。建物を覆う若草色の蔦植物は朝露を宿し、瑞々しく煌めいている。
重厚な造りに歴史を感じさせながらも、細やかに手入れが施されたその建物は、調和の守護者の拠点のひとつ――
領域マネージャー、エヴァン・モリスが滞在する場所であり、デルグレーネとカタリーナの目的地だった。
見事に整備された広大な庭園から少し離れた、白い砂利が敷かれた駐車場に車を停めると、二人は同時に車を降りた。
カタリーナは、伸びをするように両手を組み、手のひらを裏返すと、全身を心地よく空へと伸ばす。
長時間の運転で凝り固まった体をほぐしているのだろう。
一方、デルグレーネは車のドアを静かに閉めると、庭園に咲き誇る花々へ目を向け、ゆっくりと深い呼吸をした。
花の甘い香りが、彼女の疲れた心をわずかに癒していく。
流石に調律者である彼女たちにとっても、翡翠島から始まった怒涛の二日間は、心身ともに大きな負担だった。
「やっと着いたわね〜。あ〜、お尻が痛い……」
「だから違う車にしようって言ったのに……」
カタリーナが大袈裟に腰をさすりながら言うと、デルグレーネは呆れたようにため息をついた。
「何よ! 手頃な車がなかったんだから、しょうがないじゃない。それに、出発を急かしたのは貴女でしょ!」
「……知らない」
デルグレーネはそっぽを向いて、小さく呟く。
二人は互いにお尻をさすりながら、洋館のエントランスへと歩き出した。
表面上は平然としていたが、実際は普通の乗用車で未舗装の山道を突っ走ったため、想像以上に身体にこたえていたようだ。
特にお尻には、その代償が如実に現れていた。
「相変わらず、ここのガーデンは綺麗ね。本当に、隅々まで手入れが行き届いて……あら?」
洋館に近づくにつれて、カタリーナがふと首を傾げる。
その様子に気づいたデルグレーネが、不思議そうに彼女の透き通った水色の瞳を覗き込んだ。
「いつもなら、この庭園を丹精込めて手入れしてる協力者のお婆さんがいるはずなんだけど……今日は見当たらないのよね」
カタリーナは、辺りを見回しながら言った。
彼女の言うその老婦人は、長年にわたり調和の守護者を支えてきた人物であり、この庭園を美しく保ち続けてきた人でもある。
「もしかしたら、今日は買い出しか何かに出てるのかも」
「そうかもしれないわね」
カタリーナは、デルグレーネの言葉に納得し、軽く肩をすくめ頷いた。
しかし、心のどこかに、小さな違和感を覚えていた。
二人は、洋館のエントランスへと続く石畳の道を進み、重厚な屋根と同じ鮮やかな赤の庇の下にたどり着く。
玄関の重い木製ドアには、真鍮製のライオンの顔を模したノッカーが取り付けられている。
いつもなら、形式的にノックをするだけで、返事も待たずに入室するのが常だった。だが、今日の空気は違っていた。
ピーンと張り詰めた、異様な緊張感。
肌を刺すような冷たい気配が、二人の間を走る。
デルグレーネからは、微かだが確かな殺気が立ち上っていた。
カタリーナもまた、周囲を警戒するように鋭い視線を走らせる。
この洋館で何かが起きている――。
ふたりは、異常事態の兆しを直感で察知していた。
静謐な庭園とは裏腹に、洋館全体を包む重苦しい沈黙が、ただならぬ事態の到来を告げていた。
「……血の匂いがする」
デルグレーネが低く呟く。
カタリーナも再び鋭い視線を放ち、静かに頷いた。
彼女は警戒しながら一歩ドアへ近づき、ゆっくりと、重い木扉を押し開けた。
隙間から流れ出したのは、むせ返るような生臭さと、淀んだ魔力の奔流。
空気は重く澱み、鉄錆のような血の匂いが鼻腔をついた。
その異様な気配に、カタリーナの表情が険しさを増していく。
目で合図を送ると、デルグレーネはまるで放たれた矢のように、洋館の廊下へと駆け出した。
翡翠島からの脱出で軍服はボロボロになっていたが、彼女は船内で急遽拝借した大日帝国の一般軍服に着替えている。その服の下では、すでに戦闘態勢に入っていた。
彼女は両腕を魔人本来の姿に変化させる。
濡れたカラスの羽のように黒く、美しくも禍々しい鱗が肘から先を覆い、鋭い輝きを放つ。
十本の指先からは、硬質化した四十センチの爪が伸び、鋭利な刃と化していた。
疾風のごとく廊下を駆け抜けると、やがて、大きく開かれた扉が眼前に現れた――エヴァン・モリスの執務室だ。
デルグレーネは中の気配を探りつつ、迷いなく室内へと飛び込んだ。そして、その瞬間――。
「――うっ⁉︎」
喉の奥で小さく呻き、デルグレーネは言葉を失った。
すぐ後ろを追ってきたカタリーナも、その場に立ち尽くす。
彼女の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが見て取れた。
窓のない室内は薄暗く、重厚な執務机の上に置かれたランプだけが、わずかな光を灯していた。
その微かな灯りが、かえって部屋の陰影を濃くし、不気味な雰囲気を際立たせている。
むせ返るような生臭い血の匂いと、鼻を突く腐臭が入り混じり、吐き気を催すほどだ。
壁一面に貼られた世界地図は、夥しい血飛沫でドス黒く染まり、まるで世界全体が塗りつぶされたかのように見えた。
床には無数の書物が散乱し、この部屋で何が起きたかを雄弁に物語っている。
かつては、多くの物がありながらも整然としていたシックな執務室。
その面影はすでになく、見るも無惨な状態へと変わり果てていた。
そして――。
荒れ果てた部屋の中心で、目を背けたくなるような光景が広がっていた。
何かが、蠢いている。
「まさか……オーク⁉︎」
デルグレーネの口から、驚愕の声が漏れた。
豚のような醜い頭部に、筋骨隆々とした人型の身体――。
魔物、オークが三体、床に屈み込んで何かを咀嚼している。
その隙間から見えたのは、人間と思しき下半身。
床に倒れ、デスクに背を預けたその人物に、三体のオークが覆いかぶさるようにしていた。
彼女たちの気配に気づいた一体のオークが、食事を邪魔された怒りを爆発させ、獣じみた咆哮を上げながら襲いかかってくる。
血走った赤い眼が、凶悪な殺意と憎悪に染まっていた。
一閃――。
デルグレーネの右腕が、残像を残すように薙ぎ払われた。
突進してきたオークの首が、あっけなく刎ね飛ぶ。
豚のような頭部が重い音を立てて床に転がり、切断面からはドス黒い血が噴き出した。
首を失った胴体は、そのままの勢いでデルグレーネの横をすり抜け、背後の壁に激突。
壁一面に、血飛沫が派手に飛び散った。
残る二体のオークも、仲間の異変に気づき、怒り狂って突進してくる。
血走った眼を剥き、咆哮を上げながら――。
だが、デルグレーネは表情ひとつ変えなかった。
彼女の両腕が、まるで風そのもののように走る。
次の瞬間には、二体のオークは細切れにされ、肉片と臓腑が部屋中に飛び散っていた。
薄暗い室内は、血と肉の飛沫でさらに陰惨な光景へと変貌した。
「なんで…… こんな所に……」
冷静に血を振り払ったデルグレーネの爪先からは、なおも鮮血が滴り落ちる。
戦闘の手際は完璧だったが、その心は静かならぬ動揺に満ちていた。
「オーク……私のいた〈魔世界〉には多くいたけど、この〈人間界〉で見るなんて……しかも三体も……」
呆然としたデルグレーネの傍らで、カタリーナは震える手でオークが貪っていた“それ”を調べ始めた。
やがて、言葉を失う。
そして――。
「……エヴァン……」
掠れるような声が空間に響いた。
オークたちに喰われていたのは、デルグレーネとカタリーナの上官であり、仲間でもあった、エヴァン・モリスその人だった。
特徴的な浅黒い肌と、かろうじて残ったスラリとした脚。彼が愛用していた薄色のサングラスが、血だまりの中に沈んでいる。
上半身は原型をとどめておらず、見るに耐えないほどの状態だった。
カタリーナは静かに唇を噛み締め、感情を押し殺した。
「ありえないわね……」
沈黙の中、彼女は今度は倒れたオークの遺体を検分する。
そして、眉をひそめながら、オークについている傷跡を指でなぞるように言った。
「頭頂部と胸部に……これは、手術の跡?」
縫合痕のような醜いミミズ腫れが、脳と心臓を貫くように刻まれている。
「翡翠島で見たキメラ、あれも人間界では珍しい魔世界〉の魔物だったわよね?」
カタリーナの問いに、デルグレーネは静かに頷いた。
その目には、何かを悟り始めたような、暗く深い思索の色が浮かんでいる。
「エヴァンが、こんなオークに殺されるなんて、到底考えられない。このオークが何かをされていたとしても……」
「ええ、そうね」
そう口にするデルグレーネに、カタリーナも同意を示した。
二人の脳裏には、強く優しかったエヴァンの姿がよぎる。
静かに微笑む彼の表情。寡黙な振る舞いの裏に隠されたユーモア。――そのすべてが、今はもう、記憶の中でしか見ることは叶わない。
調和の守護者の領域マネージャーである彼が、こんなオークにやすやすと殺されるなど考えられない。
(オークの手術痕、魔界の魔物……すべてが繋がっている。これは、偶然じゃない)
カタリーナは、部屋の隅に目をやり、粉々に砕けた通信用の水晶玉を見つけた。
「管理者達への連絡も…… 無理みたいね……」
それは、天界にいる管理者、フォルセティ、ザイオン、アフロディアと通信を行うための、重要な魔道具。
この水晶玉が壊れたことで、管理者や、他の調律者と連絡を取るための有効な手段は、今の彼女たちには残されていない。
今の段階でデルグレーネの規律違反を報告しないで良くなったのは僥倖だが、通信手段を絶たれたという事実は、彼女たちをさらに不安にさせた。
カタリーナは、しばらくの間、目を瞑り、静かに考え込んだ。
「大日帝国の…… 御堂司令。彼に会いに行きましょう」
カタリーナが静かに決断を口にした時、デルグレーネもまた小さく頷いた。
そして、エヴァンの元へ膝をつき、そっとサングラスを拾い上げる。
「……さよなら、エヴァン……」
静かな声とともに、デルグレーネの掌から黒炎が灯る。
それはやがて、エヴァンの亡骸を包み、部屋全体に静かに広がっていった――。




