闇に沈む真実 17/沈痛
翡翠島に、天を焦がすほどの巨大な火柱が立ち昇った。
まるで山が噴火したかのような勢いで、周囲一帯を真紅に染め上げる。
海上に展開していた華陽人民共和国の艦隊の砲撃は途絶え、上陸して交戦していた部隊、そしてそれに応戦していた大日帝国の防衛隊も、何が起こったのか理解できぬまま、すべての戦闘が一時停止した。
「倫道……」
燃え盛る火柱を前に、五十鈴は呆然と名前をつぶやくと、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
倫道たちを助けに行くと言い残し、研究所施設内部へと向かったデルグレーネは――彼らを連れて戻ることなく、その建物が吹き飛ばされてしまったのだ。
「マジかよ…… 倫道……」
「まさか……」
項垂れる五十鈴の背後に立つ久重と清十郎もまた、火柱が徐々にその高さを失っていく様を、言葉を失いながら見つめていた。
特務魔道部隊の面々は、デルグレーネの突入後、カタリーナの指示に従い、保護した研究員たちを連れて研究所の敷地からいち早く脱出していた。
柳田は、先に避難していた職員たちが逃げ込んだシェルターの無事を確認し、その場所が被害範囲外であったことに胸を撫で下ろした。さらに、自らの部隊が展開していた区域も損傷がなかったと分かり、ほっと息をついた。
「あ…… あり得ない…… 俺たちは本当に助かったのか?」
足元にいた保護対象の研究所職員が、蒼白な顔で独りごちた。
「どういうことだ?」
そのつぶやきに眉をひそめた柳田が問うと、失神から覚めた研究所所長・笹岡が代わって答えた。
「……爆発の規模が小さい。本来であれば、島の半分が吹き飛ぶはずだった……証拠もろとも、敵も、邪魔者も、すべて排除されているはずじゃ……」
呆然とつぶやく笹岡は、わずか数分の間に、一気に老け込んだように見えた。
彼はふらりと立ち上がると、柳田の目の前まで近づき、取り憑かれたようにその肩を揺すった。
「……まさか、あの魔人が関係しておるのか? そういえば、濃密な魔素があの魔人の周囲に集まっていたような……。あの魔人、いったい何者じゃ? お前ら、特務魔道部隊と言ったな? なぜ魔人が、お前たちを助けた?」
「そんなもん、俺たちにも分かんねーよ……」
柳田は下から覗き込む笹岡を片手で振り払い、そのまま尻もちをつくように座り込んだ。
「なぜ隠す? あの魔人は何じゃ? あの力……凄まじい能力を持っとった。あれを研究できれば……ヒッヒッヒ〜」
笹岡の顔には歪んだ笑みが浮かび、裂けそうなほどに頬が吊り上がる。
まるでオモチャを与えられた子供のように愉快そうに笑うが、その目には狂気の輝きが宿っていた。
苛立ちを隠さず柳田は舌打ちをし、自己陶酔に陥った笹岡から目を逸らす。
そして、彼女の姿が見えないことに気づいた。
(ちくしょう…… いつの間に)
一緒に逃げてきたはずのカタリーナ・ディクスゴードの姿が、そこには無かった。
彼女のおかげで負傷者や研究所の職員たちを安全に避難させることができた――その点には、柳田も素直に感謝していた。
だが、それとは別に、怒りもこみ上げてくる。
(ちっ……なにが「後で説明するから、彼女を、私たちを信じて!」だ。最初から信じてたっつーの。それなのに、碌に話もせず逃げやがって……)
柳田は小石を拾い、勢いよく投げ捨てながら、「くそっ」と小さく悪態をつくと、腕を組み、瞑目する。
事態の進展があまりに急すぎて、まだ頭の整理が追いついていない。
いったん思考を切り替え、次に取るべき最善の行動を、冷静に、迅速に考え始めた。
◇
柳田たちが避難した場所――その研究所を挟んで向かい側に広がる森の中で、デルグレーネは抱えていた倫道をそっと地面に下ろす。
彼女が放った一撃は、地下から研究所すべての階層を貫き、施設を完全に破壊した。
そして、倫道を抱えたまま漆黒の翼を羽ばたかせ飛翔すると、背後からは追いすがるように、凄まじい火柱が立ち昇ったが――
間一髪、デルグレーネと倫道は、最悪の状況からの脱出に成功していた。
そっと手を離され、解放された倫道は、その場に力なく座り込み、項垂れる。
呆然自失というべきか、その目は焦点が定まっておらず、全身からは深い悲しみが滲み出ていた。
――彼は今、仲間の死を目の当たりにしたのだ。
笑顔のまま業火の中に合成妖魔ヴァリゲーターを道連れにした、氷室龍士の姿を。
(倫道……)
デルグレーネは、震える彼の背中をじっと見つめる。
かけるべき言葉は、喉元まで込み上げていた。けれど、どうしてもそれを声に出すことができない。
どうすれば彼の心を少しでも軽くしてあげられるのか――答えの見えない問いに、彼女はただ立ち尽くすしかなかった。
本当の意味での、三百年ぶりの再会。
それは歓喜と感動に満ちた、奇跡の瞬間であるはずだった。
しかし今、デルグレーネの心は激しい嵐に襲われていた。
抱きしめたいという切なる願いと、それを押しとどめる強大な理性とが、彼女の中で激しくせめぎ合っている。
倫道の温もりを感じたい。失われた時間を取り戻すように、その腕の中で安らぎたい――
だが、今は……。
唇を噛みしめ、喉の奥で押し殺した声が、微かに震える。
彼女は心の中で、倫道へ静かに語りかけた。
ヴィートが魔物アンダーサージに無残に殺された、あの悪夢のような夜からすべてが始まった。
世界の管理者を名乗る者から調和の守護者へと迎え入れられ、自らは調律者として、世界の重責を担うことになった。
失意のなか、唯一自分を支えたのは――ヴィートの魂を、再び見つけ出すという、ただひとつの希望だった。
世界中を巡り、討伐対象の魔物たちと孤独に戦い続けながら、三百年という歳月が過ぎた。
そしてあの夜、ヴィートの生まれ変わりである神室倫道を見つけた。
歓喜に震えた。
そして、ヴィートの記憶を取り戻した倫道が、自分を“ラウラ”と呼んでくれた――。
心の奥底に閉じ込めていた、幾千もの言葉にならない想いが、ついにその封印を解き放った。
抑えきれない激情が、彼女の内で渦巻き、咆哮し、あらゆる感情を呑み込んでいく。
喜び、悲しみ、怒り、諦め、後悔……それらが混然一体となり、彼女の心を激しく揺さぶった。
やがて、その感情の奔流に呼応するように、大粒の涙が、まるで真珠のネックレスが弾け飛ぶかのように、次々と彼女の頬を滑り落ちていった。
「倫道……」
喉の奥がひくつき、込み上げる涙を手の甲で乱暴に拭ったデルグレーネは、深く息を吸い込み、意を決して口を開いた。
震える声で、それでもはっきりと――彼の名を呼ぶ。
その声に、倫道の肩がピクリと震えた。
彼はゆっくりと振り返る。その瞳はまだ虚ろで、深い悲しみに囚われたまま、大粒の涙が溢れている。
デルグレーネは静かに歩み寄り、彼の正面に膝をついた。
座り込む彼としっかり視線を合わせると、ためらうことなく両手を伸ばし、彼の頬を包み込むようにして――強めに叩いた。
「ぶっ⁉︎」
「しっかりして! ここはまだ戦場……」
息がかかるほどの至近距離で、デルグレーネは鋭く彼を見つめ、低く、真剣な声で言い放った。
叩かれた衝撃と、彼女の真っ直ぐな視線に、倫道は一瞬、言葉を失った。
目を見開き、息を呑む。やがて、重い何かに押し潰されるように視線を落とすと、しばしの沈黙の後、かすれる声でつぶやいた。
「そう……だな。俺たちは、龍士の命と引き換えに、生かされたんだ。立ち止まってる暇なんて、ないんだ」
次に彼が顔を上げたとき、その瞳には先ほどまでの虚ろさはなく、強い決意と燃えるような熱が宿っていた。
デルグレーネの荒療治が、傷ついた彼の心に火を灯したのだ。
二人の間に、静かな時間が流れた。互いの存在を確かめ合うように。
――しかし。
遠くから、鈍く響く砲撃音が、静寂を無情に切り裂いた。
地を震わせる重低音は、否応なく彼らを現実へと引き戻す。
まだ、何も終わっていない。むしろこれからが本番なのだと、容赦なく告げているかのようだった。
デルグレーネと倫道は、顔を見合わせる。
そこに浮かんだ表情は、つい先ほどまでのものとは違っていた。
それは――覚悟と、決意の表情だった。




