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チョコレート、一輪

[短編] [ライト] [ファンタジー度☆☆☆]

 照明で照らされた舞台に、割れんばかりの拍手と共に幕が下りる。ステージの真ん中で私は、その降りそそぐ光と音とを一身に浴びていた。

 深い赤色のドレス。片手でそのひだを持ち上げてもう片手を胸の前に、腰から曲げてゆっくりとお辞儀を。

 舞台と客席。こちらとあちら。とばりが下りて、きらめいていた世界が閉じられていく。

 でも、ああ。幕が下り切った後もその光と音が私のこの目と耳に残っていた。何度でも経験してきたいつものこと……だけれど、こんなに自分のすべてが満たされることは他にない。


 舞台女優アン・フラウ。本名ジューン・フラウ。〝舞台に花咲く一輪花〟と称された私の十八番(おはこ)の演目。その、いつだったかの公演でのことだった。




 楽屋へと向かう廊下は片付けやら何やらで人の行き来が多くありつつも、始まる前に比べるとどこか緩やかで静かなもの。付き人にこの後のスケジュールを読み上げさせながら、私はその緩慢な空気の中を突っ切るように先へ先へと歩いていく。


 すると、楽屋前に守衛さんに連れられた親子二人の姿が見えた。

「すみませんすみません、この子がどうしても直接渡したいって聞かなくって……」

 母親は萎縮しきったように頭を下げる。その横で、まだまだ小さな――五歳くらいかしら?――の男の子が母親に手を握られ、両足をめいっぱい踏ん張るようにして立っていた。

 パリッと糊の効いた白いシャツに一丁前にタイを結んで。半ズボンと揃いの柄のジャケット。黒い小さな革靴はこの日のために!と言わんばかりにぴかぴかだ。やわらかそうなくせっ毛にそばかす顔。そのぎゅっと口を結んだ顔からは、緊張しきっているのが分かる。

 あらあら、珍しいお客様だこと。私はふふ、と微笑んだ。

「ええ、構いませんよ」

 それを聞いて母親はなおさら萎縮したように頭を深々と下げて「ありがとうございます、ありがとうございます」と繰り返した後、手を握っている男の子に「ほら」と促す。

 男の子はコクンとうなずいて母親の手を離すと、一歩、二歩と私の前に出た。私を見上げるその瞳はキラキラと輝いて。……数十分前にもう舞台は終わったのだけれど、未だ舞台の中で照明が灯されているかのようだわ。そう私は思った。


「これ、どーぞ!」

 そうして差し出される、真っ赤なバラ一輪、そして同じく真っ赤な包みの小さな箱。

「ま、おませさんね」

 赤いバラ一輪の花言葉は知っていて? そう続けて口にしながら、私はふわりと屈んで贈り物を受け取った。もちろんこれは冗談。この小さなムッシューがそれを知っているわけないとは分かっている。多分、一生懸命貯めたお小遣いから買ったものなのでしょうね。

 受け取るとチョコレートの香りがふわりと漂った。あんまり一生懸命持っていたものだからか、箱の包みは少しよれてしまっている。でも一方で、この男の子はよほど気をつけていたようで、一輪の花の方はしゃんとして美しい姿のままだった。


「贈り物とっても嬉しいわ、ぼうや。私、チョコレートが一番好きなの」

 くせっ毛に、そばかす顔。男の子ははにかんだようなやわらかな笑みを浮かべた。




 親子を帰し、付き人に温かい飲み物を買ってくるように頼んで、私は楽屋の扉を閉めた。鏡台前の椅子に腰かけ体を伸ばして息をつく。そうした後、改めて楽屋の中を見渡した。

 楽屋の中には、山のようにうずたかく花々やらチョコレートやらの贈り物の数々が置いてあった。……けれど、切り花は持ちが良くないだろうし、外包みのよれた箱の中のチョコレートは少しやわらかくなってしまっているかもしれない。

 私は立ち上がるとコップに水を汲んで一輪の花を挿した。それを鏡台の前まで持って行き、その花と共に再び鏡台前に腰かける。そうして私は赤い包みに手を伸ばした。

 鏡の中、花のように美しい女が、赤色の包みを開いていく様が映る。……ええ「花のように美しい女」よ。自分でそう思うの。だってそうでなければ務まらない。まばゆいスターダムの真っただ中でスポットライトを浴びて咲き誇る女優アン・フラウ、なのですもの、私。


 ほっそりとした白い指先が一粒つまむ。シンプルな形、素朴な茶色のチョコレートを。

 口に運んだチョコレートは、すぐにじんわりと溶けていく。高いものではないのだけれど、それが妙に懐かしかった。

 鏡の中のすました女の顔が、無邪気な少女のようにほころんだのが一瞬、私の目に映った。その後しばらくの間、私は、鏡の中の女優の顔などには見向きもしなかった。



 ああ、そうそう。この時は地方での公演だった……ように思う。私をスターダムへとのし上げた当たりにあたった演目の巡回公演中のこと。もう、半世紀以上も昔のことね。





 あれから……。私はたくさんの花とチョコレートの中を歩んできた。色も形もとりどりの花の数々は咲いては散って、贅沢なボンボンショコラの数々は甘くも苦く。

 結婚をして離婚して。男手一つで育ててくれた父の早すぎる死を経て。しばらくして新しい恋人ができて。独り立ちした娘とは次第に疎遠になっていって。また違う恋人を作って一緒に暮らして。そのうちに籍を抜いた母親が死去したとの報せを聞いて。それからまた結婚なんてしてみたけれど、その後でまた一人になって。……こうして挙げ連ねてみるとなんて陳腐な。これは到底、良い演目にはならなそうね。

 舞台の上はいつもいつだって輝かしくて、足を進める度にたくさんの賞が私を飾っていった。そんなだからか〝舞台でしか咲けない徒花〟なんて揶揄されたりもしたかしらね。


 今はこうして色々なものを手放して、別荘の中から一番小さく一番ひっそりとしたところにあるものだけを残して独りで住んでいる。律儀に毎日様子を見に来てくれる何代目かの付き人と、週に一回往診に来てくださるお医者の先生の他には、ここまで訪ねてくる人もいない。




 夕間暮れ。揺れるロッキングチェアの小さく軋む音。部屋の大きな窓からは、麓の街明かりが遠くに見えた。

 赤色のひざ掛け。そのしわに片方の手をかけて、ずり落ちたのを直すように引っ張り上げる。もう片方の手はひざ掛けを落とさないよう掻き抱いて胸の前へ。ゆっくりと腰を曲げ、椅子を揺らして立ち上がろうとする。そろそろカーテンを閉めなくては、ね。

「私がやりますよ、奥様」

 付き人の声が部屋の戸口からして、そのまま付き人は窓辺に歩み寄るとカーテンを引いた。

 室内と屋外。こちらとあちら。とばりが下りて、きらめいていた世界が閉じられていく。

 付き人は私のすぐ脇の丸テーブルに目を向け、その上の手付かずの昼餉の盆を見て言った。

「奥様、今日もあまり食は進みませんでしたか」

 私は「ええ」とうなずく。最近はもうあまり何かを口にする気もなくなってきていた。引退間際の折に病気をして胃を切った上、もう私すっかりお年を召したおばあちゃんですもの。


 ……そう言えば私、どうして今日、あの時のことを思い出したのでしょう?




 日が暮れて一日が終わるゆったりとした空気の中、付き人は椅子に掛けたままの私にこの後の予定を伝えてくれる。

「今日は主治医の先生が来られる日ですね。もうその辺りまでおいでになっているはず……」

 そこでちょうどノックの音がした。「どうぞ」と付き人が返す。するといつもはそのまま扉を開け会釈をして入ってくる先生が、扉を開けたきりその場で立ち止まったまま声をかけてきた。

「奥様。こちらの方がお見舞いに、と……。ちょうど麓で会ったのです。よろしいですかな?」

 私は首を回して戸口の方に目を向けた。先生の丸い頭越しに、背の高い人物の影が見える。

 まぁ珍しいこと、お客様だなんて。私はふふ、と微笑んだ。

「ええ、構いませんよ」

 それを聞いて先生は、奥の人物にうなずいた。


 一歩、二歩。私の前にその人物は進み出る。

 やわらかに仕上げたワイシャツに小洒落たタイを巻いて。揃いの柄のベストとパンツ。その足元から覗く、風合いの増した革靴。わずかに白髪の交じり始めたウェーブのかかった髪に、どこか見覚えのあるそばかす顔。軽く結ばれた口元は、少し緊張を覚えながらも、それすらも心地良く感じているように微笑んでいる。

 私を見るその瞳はキラキラと輝いて。在りし日の舞台の中で灯されていた照明のようだった。


「こちら、どうぞ」

 そうして彼が腰をふわりと屈めるようにして丸テーブルに置いたのは一輪挿しに入った花。シンプルな形の小さな花びら。その色は素朴な茶色。チョコレートの香りがふわりと漂った。一輪のチョコレートコスモスの花。

「あらあら、まあまあ、おませさん」

 チョコレートコスモスの花言葉、私、知っているのよ? そう口にはしなかったけれど、私はにっこりと笑って、素敵なムッシューからの贈り物を受け取った。ちょっと珍しい花なの。もしかして、一生懸命探してくれたのかしら。


 くせっ毛に、そばかす顔。はにかんだような、やわらかな笑み。その彼に私はこう言った。

「チョコレートが一番好きなの、私。贈り物とっても嬉しいわ、ぼうや」




 それ以上の言葉は交わさなかった。背の高いムッシューは主治医の先生にお礼を言ってそのまま屋敷を後にした。マナーの良い観劇客のように。

 先生も帰られた後。付き人に温かいお茶を淹れて欲しいわと頼んで、私は部屋に一人になる。


 椅子に掛けたまま少し体を伸ばして、しみすら浮かんだ節々の目立つ指先で、一枚の花びらにそっと触れる。

 ガラス瓶の側面、鏡のようになったその中に映るおばあちゃんの顔。かつて大女優であったジューン・フラウ。私は鏡面に映ったしわやしみなんて気にも留めなかった。その微笑みはまるで無邪気な少女みたい、と、そう一瞬だけ思った。

 鼻を近づけると、ふわりと広がるチョコレートの香り。高いものではないのだけれど、それが妙に懐かしかった。




 そう言えば。舞台の終わりにいつもいつだってうずたかく積まれていた花の中。あの時以来から、ずっとどこかに一輪だけの花はあったのかもしれない。そう取り留めのない、くすぐったくなるような、でもどこか自信めいたもののある思いが胸によぎった。

 心の中、チョコレートの香りがじんわりと溶けていって。私は、自分のすべてが満たされていく懐かしい感覚を覚えて微笑むのだった。



お題:花・花言葉にまつわる短編 (+バレンタインデーに初公表した作品でした)


チョコレートコスモスの花言葉…「恋の思い出」「恋の終わり」「移り変わらぬ気持ち」

赤いバラの花言葉…「あなたを愛しています」

バラ一輪の意味 …「一目惚れ」「あなたしかいない」

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