つくよみつくよ
[短編] [ミディアム] [ファンタジー度★★☆]
①
月が丸く大きくこうこうと照る、秋の夜風にざわめくすすきの原。
その中を酔いどれの男が一人、すすきを掻き分け掻き分け千鳥足で歩いていく。手には飲みかけの酒瓶。草履が脱げかけているのを気にも留めずに、鼻歌と悪態とを交互に零しながら。
その男の足は、すすきの原の只中にぽつりと建つ荒れ寺へと向かう。崩れかけた門をくぐる前、男はふとその足を止めた。
(何だ? 何か音が……)
男は酔いの回った赤ら顔に訝しげな表情を浮かべ、じっと耳を澄ます。琴の音と低く唸るような声とが男の耳に聞こえた。その声は「さあらば、さあらば」と繰り返している。
(ちくしょう、飲み過ぎたか? それとも――)
男は酔ってぐらつく頭で考える。
(――それとも、この荒れ寺には誰もいないと踏んでどこかの誰かが忍び込んだのか)
頭に浮かんだそれはその実、この男当人の実態でもあった。三十路半ばのこの男、ほんの昼間にふらりとこの荒れ寺を見つけ、これ幸いと棲みつくことにしたばかりなのである。
男は髪の伸びはじめた坊主頭をぞりりと撫で上げると、ふぅむと鼻から息を吐いた。そうして何やら考えが至ったのか、いかにも人の良さそうな穏やかな笑顔を作り浮かべ、縁もゆかりも無い荒れ寺の中へと帰っていった。
「もし、どなたか其方においでで?」
そう声をかけながら建付けの悪い引き戸を開ける。途端、男は思わずひゅっと息を飲んだ。
そこにいたのは一人の侍。それが、いつでも刀を抜ける片膝立ての姿勢を取っていた。しかしそれよりも真に恐ろしいのはその眼光だった。差し込む月の光の影になったうつむき加減の顔。結い髷の崩れて垂れ落ちた髪の間から鋭い視線が覗く。刀を抜くまでもなく、その一瞥で以てたちどころに斬られてしまうような気すら覚えた。
硬直した男の背に、冷たい汗が伝う。
(もしや、麓の町から来た岡っ引きか何かか)遅まきながら男の頭にそう考えが及んだ。
しかしそこで男は、侍の着いた片膝の先に小さな琴があることに気がついた。容易に持ち運びができそうなほどの大きさだ。先ほど男が耳にしたのはこの音だろう。
(いや、まさか追手の類が、その任の最中で手慰みに琴を弾きなどはしまい)
またよくよく目を凝らすと、侍の着物は薄汚れたぼろであることが分かった。
(それに、こうしてこの荒れ寺に忍び込んでいるのも鑑みると、何やら事情持ちの輩か……)
一度肝を冷やしはしたが未だ酔いの冷めきらないままの男は、その多少ならずとも気の大きくなった頭で考えを巡らせる。
(ならばやはり、この寺の坊主のフリを続けておこう。そしてこの寺の者であるなら、ここは変に追い返すよりもいっそ、こう言った方が自然だろう――)
そうして男は、伸びかけた坊主頭をぞりりと撫でた。
「これはこれはお侍さま。いや、このように酔っぱらった見苦しい姿で失礼つかまつります。寄合がありましてね。……さて、ところで何やらお困りのご様子。もう夜も遅い時分です。斯様な荒れ寺ですが、よろしければ夜露をしのいでいかれませんか?」
侍の目元がピクリと動いた。男は柔和な笑みを浮かべたまま、しかしその顔をこわばらせる。(これは、念仏でも唱えておいた方が良いだろうか)そう頭をよぎったその瞬間。
「御坊様。お申し出、痛み入る」
侍は、男に向けて深々と頭を下げ謝意を述べた。
(……ふう。首と胴とが今生の別れをするかと思ったが、何とかなったな)
そう男は胸を撫で下ろす代わりに、また頭をぞりりと撫でたのだった。
②
男は一度、寺の炊事場へと引っ込んだ。持っていた酒の瓶をそこに置きつつそれはそれとて、腹の減っているであろう侍に何かを出してやるつもりでだ。
その“何か”とは。当てはあった。
男は月の薄明かりの中で、炊事場にぽつり置かれた平たい木桶の蓋を開ける。その中には、水に浸かった豆腐が白く白く浮かんでいる。男は黙ってそれを見下ろす。
木の桶には棒に引っ掛けられるよう紐がついていた。それをくくる先の棒は、この寺の中にはない。もう片一方に提げるはずの木の桶も。……これは、男が昼間に麓の町で、棒手振りが脇見をしている隙に掠めてきたもの。つまりは盗品だ。盗ってきて蓋を開け、(何だ、ここに来てまでも豆腐か)と手をつけなかった代物である。
男は桶の中から豆腐を一つ、ざぶ、と取り出した。顔を歪めたかのような笑みが薄く薄く浮かぶ。
(……ま、寺の坊主が豆腐を出すのは、何らおかしくないことだしな)
男は侍の元へと戻り、豆腐の入った椀と匙とをついと差し出した。侍は頭を下げ、それを受け取る。
匙に乗り口に運ばれ、喉が上下して豆腐は侍の腹に収まる。こけた頬に骨の浮いた首筋。さぞや空腹のほども甚だしいだろうに、恭しいほど丁寧に侍は豆腐を腹に収めていく。そうして最後の一匙を嚥下すると、侍は満たされたかのように目を瞑り深い息を吐いた。それを横目に眺めて男は思う。骨身に沁みるとは、正にこういうことを言うのだろうか。
「かたじけない……」
侍は空になった椀を男に返した。その折、侍は懐から何かを取り出し、男に向かって差し出す。男はそれを受け取った。半紙に包まれたものが男の手のひらの上に乗る。小さいがずしりと重い。男がわずか手を動かすと、チャリ……と、金属同士のぶつかり擦れる微かな音がした。
(御布施か)
男は手のひらの重さの感覚を探る。相当な枚数だ。すぐにおいそれと出せる額ではなかろう。この侍はやはり、事情持ちの中でも飛び抜けての事情持ちと見える。
(……まぁ、それならそれで。貰えるものは貰っておこうか。せっかくのご厚意だ)
「いやはや、有り難いことで」
そうそっと口にして、男は神妙な面持ちでその包みを静かにしまった。(さて、いつ中を開けてみようか)と、そう黒い腹の底から浮き上がってくるかのような笑いを、涼し気な凪いだ顔つきの下に押しとどめながら。
③
もう夜も随分と深い。未だ冷めぬ酔いが眠気に変わっていく頃合いだ。侍にはそのまま表の部屋を貸し与えることにして、男は奥の部屋へと引っ込んだ。
寝付く前に一度、半紙の包みを開いてどれどれ……と中を確認しようとする。その折、男はふと目を上げた。
今日はやたらめったら月の明るい夜だとは思っていたが、どうにも辺りの空気の様子がおかしい。夜はめっきり冷えるようになってきた時分だったが、その比ではないほどに底冷えがする。凍みるような冷気が荒れ寺のそこかしこに忍び込んできていた。
その中で何やら物音がした。思わず音の方、侍のいる表の部屋へと顔を出す。
すると、地の底から響いてくるような低く恐ろしい声が男の耳を突いた。
「ここだ」「いたぞ」「逃がすな」「殺せェ!」
男はサッと青ざめた。今度こそ、盗人の自分を捕えに岡っ引きの連中が来た、と。
「あの、や、これは……」と、片膝を着いて座す侍の方を見やり狼狽えつつそう口にするが、侍は男の方を見もせずに、刀に手をかけ、外に繋がる戸を険しい顔で睨んでいる。男もその視線につられるように戸の方に目を向けた。
途端。ズブリ、と戸の外から刃の切っ先が刺し込まれた。男はヒッと悲鳴を上げる。しかしその次の瞬間、それとは比べものにならないもっと大きく情けない悲鳴を上げることとなった。
髑髏頭に甲冑を身に着けた武者。それが戸をすり抜け押し入って来たのだ。武者は全身にぼぅと青白い光を帯びている。辺りの底冷えがぐっと酷くなる。男の身体がガタガタと震えるのは寒さのせいか、それとも。
「きえぇぇいっ!」
侍の鬨の声。見ると侍は刀を抜き払っていた。すらりと伸び月光を弾く刀身。見えない太刀筋。亡霊の武者は斬り伏せられたように倒れ、消えた。しかしまた次の亡霊が現れる。次、そしてまた次。
侍の声が叫ぶ。
「逃げられよ! 彼奴らの狙いは此方だが、気づかれたのなら話は別だ。日が昇るまでは、どうかこの寺の外へ!」
男は炊事場の裏口から荒れ寺の外へと大慌てで転がり出た。持っていた旅道具の一式を携え、もちろん半紙に包まれたものもしっかと懐に収めて。……もうこの荒れ寺に戻るつもりなど毛頭なかった。
すすきを掻き分け掻き分け走って逃げる。男の頭の上では月が丸く大きくこうこうと照る。それはまるでこの世ならざるものが冷たく嗤っているかのように。
草鞋が脱げかけるのを気に留める余裕は男にない。その口から悪態と切れた息とが零れる。
「ああ、ちくしょうめ。ああ、ちくしょうめ……!」
あの荒れ寺、出るのか。どうりで荒れ果てたままで誰も寄り付かないわけだ、とようやく男は合点がいった。
(亡霊だなんて初めて見た。ああ、嫌なのを見てしまったもんだ)
その荒れ寺ももう随分と遠い。未だ駆ける足を止めないながらも、男は頭の片隅でぼんやりと取り留めもなく思った。
(やはり、もう寺になんぞ近づくんじゃなかった。……とっくのとうに捨てたもののところになど)
男の、酔いと疲れとが回り、朦朧として無防備になった頭の中に思考が流れ始める。あるいは、己の奥底に押し込めて蓋をしていたつもりの記憶が。
山間の小さな集落、そこの寺。男の以前居た場所だった。
飢饉に病、積み上がる屍の山。男の以前見た光景だった。
経を上げる声は曇天の空へ焼香と共に昇り、誰の耳に届くでも無く空しく消える。
村の者、寺の者、誰も残らずみな死んだ。男一人だけをぽつり残して、みな死んだ。
(……この有様だ。他所様も多分に苦労をなされていることだろう。おめおめと生き残ってしまった自分にせめてできることは、その慰めか――)と。経を上げ終えた後で、男はなけなしの金を持って無人となった寺を発った。
だがいざ都にまで来てみれば、これはいったいどうしたことか。
享楽。飽食。そこに広がっていたのは煌びやかな様相を呈する人々の暮らし。飢えの気配も病の臭いもまるで無い。それは喜ばしいことだ。そう、喜ばしいこと。そのはずだが――
その無神経なほどまでの煌びやかさは、坊主頭の男の痩せ細った胸の内を大いに搔き乱した。そう思ってはいけないと解りつつも、都の人々らの成す暮らしが醜悪なものにすら男の目には映った。
そして千々に乱れた男の胸中にある思いがふっと、言葉となり浮き上がる。
(……では、あの故郷の惨事は何だったのか)
その思い、その言葉、その事実は、男の心を無残にも一息に貫き、男は声なき慟哭を上げた。腹の奥底から湧く名状しがたい衝動。それに飲み込まれるままに身を委ね、そうして気がついてみれば男は、荒れ寺にて豆腐を見下ろし薄い嗤いのようなものを浮かべていた。
その頃には男は、こう考えるようになっていた。
(もともと自分は悪人だったのだ。それがあの田舎で坊主の猿真似をしていた、ただそれだけのこと。だから何にもならなかった。だから誰も救われることはなかった。そうだ。ただそれだけのこと――)
そうして男は蓋をした。白い豆腐に、あるいは、これまでの自分に。
男の足は未だに逃げ続けている。同じ言葉を己に刻みつけるように繰り返しながら。
(そういうことだ。そういうことなのだ。だから仕方がない。だから当然の理だ。はは、残念だったな。こんな偽坊主に祈りの真似事などをされて。ああなんて無意味な! そうだ、ただそれだけのことだったのだ。そう、どうしようもなく、無意味な……!)
足がもつれ、脱げかけていた草鞋がどこかへ飛んで行き失せる。そのまま男は体勢を崩し、転んで手を着いた。その拍子にえずいてそのまま地面に突っ伏す。渦を巻くようせり上がってくる胃の中身は、なけなしの持ち金を全て叩いて買い漁った、食べつけない贅沢品たちばかり。文字通り、反吐が出て仕方がなかった。
胃の中身を吐ききってぜいぜいと息を吐く。その時になってようやく男は、あの侍に渡された包みが、懐から出て地面に転げ落ちてしまっていることに気がついた。それに、光の灯らない目を力なく向けて。
(……待てよ)
ふと、男の胸に疑問が宿る。
(いったい、あの侍は何者だったんだ……?)
男の脳裏によぎる侍の様子。あの侍、亡霊にちっとも驚きやしなかった。否むしろ、まるで亡霊が出て襲って来ることを初めから分かっていたかのような……。
男はその地面に転げた包みにそろそろと手を伸ばして拾い上げ、答えを求めるかのように、そっと開いて中身を検めた。
月光の下、明々と照らされる。中に包まれていたものは古い古い昔の時代の貨幣。そして半紙の内側には文字がしたためられていた。
『親切な御方へ
こちらを受け取っていただける方が現れるのを、永い間ずっと待っておりました。
どうか私からの願いを一つ、聞き届け、引き受けてはくださらぬだろうか。
お頼み申し上げるのは、我が琴の師にして私が武士としてお仕えする主への弔い。
あの月が沈んでこの夜が明けたら、御坊様を呼んで経を上げていただけまいか。
墓標にはこの句を刻んでいただきたく候。誠、勝手な願いで恐縮つかまつる。
残った御金はお納めくだされ。これしか無く申し訳ないが、せめてもの御礼にて。
――ひめたるをわすることなくきょうのひもつくよみつくよわれはさぶらう―― 』
ぽたり、と次に地面に落ちたのは透明な塩辛い水の粒だった。そこで男は己が落涙していることに気がついた。なぜ……と男は思ったが、その理由は男の頭よりも先に心が解っているようだった。
(ああ、ちくしょうめ。ああ、ちくしょうめ……!)
祈りが何になる、悼みが何になる。それをする意味など、それをする自分の存在など、何になる。……そう思っていた。そう思おうとしていた。そのはずなのに、今自分はそれを成したいと望んでいる。祈りを、弔いを、永い永い間待っている者がいたのだ。そのことを知ったから、その願いを叶えてやりたいと男は心底望んだ。そのために、戻りたい。寺に、元の自分に。
だが――、己の心に蓋をするべく積み重ねてきた思いがかさばって重い。起こした面が再びうなだれかける。
しかし。頭を動かした時の感覚に、いつもと違うものを覚える。一手遅れつつも軽く、ふわりふわりと浮くかのような……。
(ああ、そうか)男は思った。(俺は今、酒に酔っているのだ)
その酔いの感覚に任せるように、男は再度顔を上げた。その視界はフッと揺れる。
(ならばちょうど良い。そうだ。自分は今、酔っている。馬鹿なことをするのも道理だ)
男は月を見上げる。青白く輝く、この世のものならざるような月を。
酔いのついでに、もう一つ。……きっとあの侍も、もうこの世の者ではとうにない。それは渡された古い貨幣や、襲い来る亡霊に眉一つ動かさないことが物語っている。あの侍もまた、すでに亡者なのであろう。
何もかもが馬鹿げている、と、冷静にあるいは冷淡に考えれば判った。堕ちた自分が元に戻るのを望むこと。それも生者のためではなく亡者のために。だが、だが――
「ああ、ちくしょうめ。ああ、ちくしょうめ……!」
男は勢いつけて、這いつくばっていた地べたから起き上がる。そして生い茂るすすきの中から草鞋を探し出し己の足にしっかとその紐を結わえると、再び走り出した。今度は荒れ寺の方へと向かって。
◇
空恐ろしいほどまでにこうこうと照る月が嗤って見下ろす中。誰もいないはずの荒れ寺に、刀の音が響く。
侍は寺の庭先に出ていた。その周りに武者の亡霊どもはわらわらと群がって壁を成す。青白くちろちろと燃える冷気すらを纏った炎。それに取り囲まれた中で独り猛然と刀を振るう侍。だが亡霊どもは斬り伏せても斬り伏せても際限なく湧いて出てくる。侍の額にはとうに脂汗が浮かんでいた。
しかしこれも最早慣れたもの。何十、何百と繰り返した同じ月の下での夜、そのうちの一つでしかない。
(唯一つ、違うところがあるとすれば――)
侍は月を見上げる。青白く輝く、この世のものならざるような月を。
(きっとあの者は、必ずやここに戻ってくる)侍にはそう確信めいたものがあった。
(あの者はなにやら悪人を装っているようだったが、それも故あってのことだろう。突如現れた身なりの崩れた不審な侍を、きっと恐ろしく思いつつももてなしてくれた。そういう善良な男だ。だから願いを託すことに決めたのだ。……己の身勝手に巻き込んだ覚えはある。だから、どうかこの夜を逃げ延びてくれ。この夜が全て夢となった頃にふっと戻ってきてくれればそれだけで十分、否、十二分だ)
そうして侍は、半紙に書き付け託した言葉を思い返す。
(この尽きぬ夜がいつか明けるその時まで。我が主の首を久遠に付け狙う亡霊どもよ、今宵もまたいざいざ、さあさ根比べと参ろうぞ……!)
「――つくよみつくよ、我は、侍う……!」
そうして侍は、再び刀を握り直した。
④
冴える太刀筋。しかしそれを見る者は誰もいない。この夜に称賛など無い。この夜に喝采など無い。そうしてまた、この夜も終わる。それに変わりは無い。そのはずだ、そのはずだった。
だがそこへ、一陣の風が吹いた。
その風は、晩秋の夜のはらむ冷気ではないものを侍の元へと運んできた。帯びる熱。その風は連れてくる。足音。荒い息。ぱち、ぱちと燃える音。そして最後にその風は――
「お侍さまーっ!」
そう叫ぶ声を侍の元へと届けた。
侍は目を見張った。その瞳にこれまで繰り返されてきた光景とは異なるものが映る。坊主頭の男が、提灯に火を灯しこちらに向かって駆けてくるのが。
侍は久方ぶりに破顔した。
(見誤ったな。この目も永きの間に鈍ったか。あれは、もっと善良でもっと馬鹿な男であった……!)
男は侍の横に迷いなくつくと、その口を開いた。
「坊主をお呼びとのことで。不肖ながらこの拙僧、馳せ参じましたよ、お侍さま!」
冷めきらぬ酒の酔いの勢いに任せたかのような、おどけた口調でそう男は告げる。だがその目は、侍の手にする磨かれた刀の切っ先が如く真剣だった。そこに、この男の持つ本来の崇高さがありありと見て取れる。
「ええ、よくぞ来てくださいました。御坊様!」
それに侍は、そう晴れがましく言葉を返したのだった。
◇
ここに向かって駆けてくる時、遠目に見えた独り立つ侍の険しい横顔。それは崇高そのものだったが、同時に男には、それがたいそう物淋しいものにも思えた。故に、男は一切の迷いも無く侍の横に駆け寄って、冗談めかしてこう告げたのだ。
「坊主をお呼びとのことで。不肖ながらこの拙僧、馳せ参じましたよ、お侍さま!」
それに侍は、実に晴れ晴れしく言葉を返す。
「ええ、よくぞ来てくださいました。御坊様!」
そうして二人は互いに背中を預け、ゆらゆらと湧く亡霊どもに相対する。
だが不思議なことに、亡霊どもは二人を遠巻きに囲ったまま、いずれもその場に止まり向かってこない。先ほどまであれほど激しく侍とやりあっていたのに、だ。
男は訝しんだが、その理由にハッと思い当たった。
己の手元。そこには揺れる灯り、温かな熱を放つ赤い火がある。男はそれを頭上に高くかざしてみた。やはり思った通り、亡霊どもはその光を恐れるようにたじろぐ。
「御坊様」
背中越しに侍が声をかけてくる。何を言わんとしているのか、男にはすぐに知れた。
「ええ、お侍さま」
男は提灯を高く放った。宙に舞うそれを侍の刀が捉え、その刀身に赤き火が宿る。その一振りで以て、侍は群がる亡霊どもを一息に薙ぎ払った。炎の斬撃を受け、亡霊武者の姿が瞬時に消え去る。刀の届く範囲から外れて残った亡霊どもは、おろおろと後退った。
放たれた炎はすすきに燃え広がり、火の粉が金粉の如く舞う。その只中で侍の剣は止まることを知らない。枯草のぱちぱち、ごうごうと燃え盛る音は、まるで喝采のようだった。
侍が炎の刀を振るう横で、男は自らの懐に手を差し入れた。そうして男は取り出だす。奥深く深くへと仕舞い込み二度と手にするつもりはなかった、長い黒数珠を。
男は手早く両手を結ぶ。その口から経が紡ぎ出される。とうに忘れたはずの経が。途端、態勢を立て直し再び侍への攻撃に転じた亡霊武者どもは、その耳を塞いで身をよじりだした。そこに侍が華麗に斬りかかり、一網打尽に薙ぎ払う。
月の下、並び立ち。念仏の声と斬撃の音。青い炎に押し勝つ、冷たい夜を照らす赤。喝采によく似た音が辺りに満ちる。そうして夜は過ぎていった。
⑤
どのくらいの時が経っただろうか。果て無き永遠とも思えたし、僅か一瞬のようでもあった。そうして、いずれ東の空が白み始める。夜明けの手前だ。
いつの間にか亡霊武者たちは消え去り、苛烈に燃え盛っていたすすきもまるで嘘か夢だったかのように元通り、穏やかな風にその金色の穂をそよがせていた。
すすきの原、荒れ寺の前には、男と侍の姿のみが立つ。……否。侍の姿は透け始め、その身体越しに山河の景色が見えている。最後の亡霊も今、虚空の中に消え去ろうとしていた。
己のその様子を特に気にする風でもなく、侍は男の方に向き直り口を開いた。
「御坊殿。あの御方の、我が主の弔いを、何卒頼む」
それに坊主たる男は、そっと首を横に振って見せ、言葉を返す。
「いいや、お侍さま。弔いはあなたも一緒に、だ」
侍の案内で寺の裏の古井戸に連れられ、男はそこで両の手を合わせた。
経を上げる声は明方の空へと昇り、誰の耳に届こうと届くまいと揺るぎなく響く。
侍の身体が光に包まれていく。それと時を同じくして、男の耳に琴の音が響いてきた。夜半にこの寺で聞いた、物悲しくたどたどしい音ではない。静かに遥か遠く遠くまで流れゆくかのような、穏やかな音色であった。
侍は天を振り仰ぐ。その目には、身体を包むそれとは異なるものが光っていた。
「ああ、ひいさま。ようやく、ようやく……――」
じきに経が唱え終わる。侍の身体も全て光に包まれ、もうほとんど見えない。侍はそれを悟ってだろう。光の中から男に向かって声を投げかけた。
「御坊様、有り難う。これで我が主、そして私は、安らかな眠りにつくことができる。無念ながらに命を落としたあの月夜の日を、ようやく終わらせることができる……。有り難う。誠に、有り難う。さあらば、我らはこれにて。さあらば、さあらば――」
その言葉を最期に、侍の姿は琴の音と共に消え去った。
後には、男一人だけがぽつり残ったが。不思議と晴れやかで穏やかな心持ちだった。
男は空を見上げる。はやほとんど消えかけた夜の名残の中、月が浮かぶ。それは冷たく妖しい輝きのすっかりと失せた、涙に濡れぼうと滲んだかのような朧月であった。
その後、男は麓の町に下りて行った。朝早くまだ町も眠っている。その中で、目当ての者はすぐに見つかった。
市の茣蓙の上、一つしかない木の桶と長い木の棒。それを傍に置いて眠る棒手振り。見るに、仕事の準備をしている途中でどういうわけか眠りこけてしまったようだ。
その棒手振りの前に、男は持ち運んできた木の桶を置き、次いでその桶の蓋の上へ、懐から何かを取り出して置いた。真新しい半紙に包んだ、小さいがずしりと重たいそれをそっくりそのまま。男は深々と頭を下げ、そうしてその場を離れた。
男は荒れ寺へと戻り、裏口の炊事場から中に入る。その炊事場にて、無造作に置かれた酒瓶が男の目についた。
もう男の中に酒の酔いなどはとっくのとうに無く。それが男にとっては妙に寂しいことのようにも感じられた。まだ、浸ることもできる、が――
男はその酒瓶を手に取り、再び外へと出た。そしてその中身を、建てたばかりの塚の周りにそっと流しかけた。侍への手向け、献杯だ。
木の墓標には、筆で句がしたためてある。そのうちに石を用立てて、そこに句を彫ろう。男はそう決意し手を合わせる。自らの懐の中に大事に収めた、折り皺のついた一枚の半紙、そこにしたためられた手紙と句のことを思いながら。
すすきの原、遠景の山。日は天に昇り、山紫水明。目の前に広がるそれを眺めて息をつく。朝のすがすがしい空気が心と体を満たす。
夜はすっかりと明け、すべては遥か遠き夢の彼方へ。だがこの一夜のことを、男は生涯忘れることは無いだろう。
つくよみつくよ。月夜、美しい月夜。時が経ちたとえ世が尽きても、尽きぬ想いがここには在るのだ、と――
【完】
お題:三題噺
①「月」「別れ」「琴」
②「豆腐」「骨」「半紙」
③「端書き」「根比べ」「インビジブル」
④「喝采」「崇高」「火」
⑤「朧月」「山紫水明」「酒」
他、副次的なお題として“習い事”および“詩を取り入れた短編”。
また、三題噺の副テーマとして落語の『芝浜』をほんのりイメージ。




