その日の空気は無くならない
[ショートショート] [ライト] [ファンタジー度☆☆☆]
『ハレー彗星は地球上の空気を奪っていく』
その噂は、山奥の小さな村を大騒ぎさせるには充分すぎるものだった。
「ケンちゃーん、オレん家の自転車、ぜーんぶ盗まれたぁー!」
半べそかきながら、俺たちの中で一番金持ちの家のター坊が走ってきた。
「二人の分もチューブ用意するって、オレ、言ったのにっ。これじゃみんなハレーに、こっ、殺されちゃう……。オレ、オレぇ……」
膝に手をついて息を整えるのもそこそこに、ター坊は本格的に泣き出す。
「お前は悪くねぇよ! それに心配すんなター坊、他に何か方法が……」
ケンちゃんこと俺は、もう一人の仲間ショー吉に目を向けた。
「そうだ! ハレーが通る五分間、息を止められれば良いんだから、みんなで修行しようぜ、修行!」
ター坊の顔がパッと上がる。その様子を見て、俺はうぉおおと叫んで駆け出した。
「そうと決まりゃあ行くぞ、河原に!」
「ま、待ってよケンちゃ~ん」
それから俺たちは毎日、川まで走って行って、水に顔をつけて息を止める修行をしたんだ。
……結局その後、ハレー彗星はなぁんにも悪さをすることなく行っちゃって。
でも、修行の成果が無駄になったわけじゃあない。毎日走ったおかげで体力もついたし、何よりもずいぶんと長いこと息を止められるようになったんだぞ。
その年の夏休みは特にサイコーだった。俺たち、村の子供の誰よりも、何ならいっつもえばっているガキ大将よりも、泳ぎが上手くなっててさぁ! 俺たち三人は、川の王者だった!
山奥の村の夏は、どこもかしこもはち切れんばかりの蝉時雨。それに負けないくらい俺たちは笑い声を上げて。
みぃんなすっかり日に焼けた顔。ニカッと笑った歯が、白くまぶしく輝いていた。
「ター坊!」
「ショー吉!」
「ケンちゃん!」
今。俺は同じ河原にひとり立つ。あれはもう四年前だ。……明日、俺はこの村を出て見知らぬ遠い街へと発つ。
さようなら、少年の日々よ。
山奥の村。その自然豊かな香りたつ空気を胸いっぱいに吸い込んで、グッと止めて堪える。
……大丈夫。俺たち修行、したもんな。
ハレー彗星ではない流れ星が一つ、空に流れていった。それを見て、俺はうぉおおと叫んで駆け出した。
そうと決まりゃあ行くぞ、どこへでも!
お題:文字書きワードパレット・「さようなら、蝉時雨、ハレー彗星」