トモダチ
「あ」
我ながら間抜けな声が出た。それと同時に急速に心臓の鼓動が速くなっていくのを感じた。
「あ、境さんだ。何してるの?」
橘遥は気兼ねなくそう言って教室に入ってくる。廊下側の後ろから三番目にある自分の席に向かう。
私は、おしゃべりは得意ではない。それでも普段の学校生活ではそれなりに喋る努力をしている。舐められない、いじめられない為にはそれも必要だ。ただ、橘遥を前にすると、得意でないお喋りが、更に、尚更出来なくなる。私は内心必死で言葉を探る。
「あー、星、見てた。金星」
私は何故カタコトなんだ!
「へー、星好きなんだ。なんか良いね」
橘遥は笑顔でそう言って、自分の席に着く。窓際の私の席の方を向いて。
良く笑う子だな。と思った。嫌味で無いその笑顔は相変わらず美しかった。橘遥を見ていると何か胸をギュッと掴まれるような感覚を覚える。
「詳しいの?」
橘遥は完全に私と会話をする体制だ。あんなに望んでいた事のはずなのに、言葉をうまく紡ぎ出せない。話しかける事ばかり気にして、話す内容については考えていなかった自分の甘さを呪った。ただ、幸いなことに話題は橘遥のほうが振ってくれている。
「いや、詳しくはー…無い…かな? でも好き」
「へ〜、そうなんだ…」
まずい…会話が終わってしまう。落ち着くんだ私。この17年生きてきてそれなりの対人スキルは身に付けているはず。いつもと同じようにやれば良いんだ。私は一呼吸置くと橘遥を見る。
「部活? もう帰るの?」
そう、自然に…だ。普段通りに話を振る。
「うん。ちょっとだけ気分が悪くて、先にあがらせてもらったんだ」
「大丈夫?!」
「うん。薬も飲んだから」
私はいつものネガティブが出て、橘遥が何やら重い病気なのでは無いかと要らぬ想像をしてしまった。
「何か、病気…なの?」
「いやいや、そんなんじゃないよ。ただ偏頭痛持ちで」
「はぁ…そっか…よかった…」
私は心の底から安堵した。
「ふふふ」
何故か橘遥は笑っていた。
「え、何? なんか変なこと言った?」
「ううん。ただ、境さんて優しいんだなって思って。ふふ」
「え!? そうかな? そんな事ないよ?」
「ううん、そうだよ」
橘遥はクスクスと小さく笑っている。私の胸はさっきよりも、もっとギュッと掴まれた。だが、苦しくはない。何か暖かくて、それでいて少し寂しいような感覚。それは生まれて初めて味わうもので、私にはこれの名前が分からなかった。ただただ、この時間が永遠に続けば良いと本気で思った。
「ごめんね。笑っちゃって。ありがとね。心配してくれて」
「…ううん。何もないなら良かったよ」
「ふふ。ありがと」
その時、5時のチャイムが鳴った。辺りはすっかり暗くなっていた。
「あ、もうこんな時間だ。そろそろ帰るね」
「え! ああ…そっか。具合良くないんだもんね」
私の願いも虚しく、橘遥はそう言った。カバンに荷物をまとめ、立ち上がる。
「それじゃあね」
「うん…じゃあ…」
私の勘違いかもしれない。見間違いかも知れない。ただの願望からかも知れない。でも私にはそう言って教室から出て行こうとする橘遥の横顔が酷く淋しそうに見えてならなかった。誰かが、あの淋しそうな顔を変えてあげなきゃならないと思った。
「送ってくよ!」
私は立ち上がって、考える事なく口にしていた。橘遥は振り向く。目があってドキリとする。
「…具合良くないんでしょ?」
私は何を言っているんだ…。段々声が小さくなる。
「………もし嫌なら…良いんだけど……」
私は多分、顔が真っ赤だったと思う。気付かれていないだろうか…教室内が暗くて本当に良かった。
教室の外から差す、グラウンドの照明に照らされて橘遥の顔が良く見えた。それはとても驚いている様子だった。そして
「うん。じゃあ、お願いしようかな」
聞いたところによると、橘遥の家は私の家とは同じ川沿いではあるものの、結構な距離があった。学校を中心に考えると、帰る方向もほぼ逆になる。それを知って、橘遥は一度、私の誘いを断ろうとしたが、「心配だから」と私が言うと、受け入れてくれた。
内心、私は自分の中に眠っていた大胆さに驚いていた。でもよくよく考えれば、クラスメイトが並んで帰るのはごく当たり前の風景であるとも思い、自分を納得させた。ただ、少し遠回りをするだけのことだ。
「前にモモの散歩の時に会ったよね」
「モモ? ああ、あの犬の名前だっけ。吠えられたね」
「ふふふ、なんでだろう。普段は大人しいんだよ?」
「嫌われちゃったかな」
「なんでかなぁ」
「否定はしないんだね…」
「あはは」
私は未だに少し緊張している節はあるものの、自然と会話が出来ている。橘遥にも気まずい様子は無かった。
二人、普段からそうしているように、並んで会話をしながら歩いた。心地よかった。多少の沈黙もしばらくすると苦にならなくなっていた。それぐらい自然に、私は橘遥と一緒にいる。少しでも長く、こうしていたい。
「そういえばなんであの時あそこにいたの? 私毎日散歩してるけど、会ったのはあの一回だけだよね」
橘遥に会うまではコースは決まっていなかったが…今はそれを言う必要はないだろう。
「ああ、あそこまで歩いたのは初めて。なんかモモがなかなか帰りたがらなくてさ」
「そうだったんだ」
いつか会えるんじゃないかと毎日同じ時間に散歩していたのは無駄だったか…。少し残念に思うが、それももういい。今こうしているのだから。
「でもうれしかったな」
「? 何が?」
「境さん、『橘』って呼んでくれたでしょ」
「うん。それが?」
「…みんな『さん』付けでしか私のこと呼ばないからさ」
私は驚いて橘遥の顔を見た。今度こそ間違いなく、そこには橘遥の淋しい横顔があった。
私は愕然とした。私の杞憂では無かった。橘遥は確かに孤独を感じていた。そんなもの、私の妄想の中だけ良かった。彼女の孤独を目の当たりにして出てきたのは、彼女との共通性を感じて起こる喜びなどでは無かった。何故この子が孤独なんだ! という激しい怒りと悲しみだった。
私は涙ぐんでしまって、堪えるのに必死になった。涙をなんとか引っ込める。深呼吸して、かける言葉を探した。が、無かった。今度こそ、言葉は何一つ浮かんで来なかった。慰めの言葉など私には言えない。私は言葉を発せないまま歩き続けた。
「それじゃあ、ここだから。ありがとね。送ってくれて」
橘遥の家は少し古いが大きな二階建ての庭付き一軒家だった。庭には木や花が植えられ、犬小屋もある。橘遥は外扉を開け、振り返る。
私はあのまま、何も言えずにここまで付いてきてしまった。もはや自分の不甲斐なさを責める気持ちにもなれない。橘遥の顔を見ると、少し困った様子だった。
「ごめんね。変なこと言っちゃって。気にしないで」
「…ううん」
橘遥は外扉をソッと閉じる。
「それじゃあ…バイバイ」
橘遥は玄関に向かい、鍵を開ける。
私は咄嗟に思った。このまま彼女を返してはいけない。彼女の孤独をなんとかしたい。傲慢だと分かっていても、そう思った。
「橘!」
橘遥はハッとして振り返る。
「友達になってください!!!」
私はそう叫んでいた。
読んで頂きありがとうございます! とても嬉しいです。本当に。
これからも読んでいただけたら幸いです。