日和
市バスに揺られながら、車内アナウンスをぼんやりと聞いていた。
「小学生と六十歳以上は、バスの運賃が無料になります」
へえ。小学生と六十歳以上、ね。
どうしてそんな括り、そんな言い回しにしたんだろう、と僅かばかりの不満を胸に窓の外を見た。曇天、今にも降り出しそうだ。弾かれている、そう感じる。天気からも、この人間社会からも。
自分勝手な妄想だってのは、分かってるけどさ。
「次は、黄泉峠アウトレット前、黄泉峠アウトレット前――」
目的の停車場の名前がバスの中に充満する。椅子から腰を浮かせて降車ボタンを押した。ボタンにぼおっと臙脂色の光が灯る。それはまるで僕の良く知る眼のようだった。闇夜に浮かぶあいつらの瞳だ。
「次、停まります」
そろそろ降りる準備しないと。
僕は膝にのせていたトートバッグから財布を取り出した。銀色の硬貨、それも穴の開いていないやつを選んで、二枚、左手にしっかり握り込んだ。刹那、紙幣の隙間からひらりと抜け出た紙舞と目が合った。
紙舞。文字通り紙がふらっと舞い飛ぶだけの妖怪だ。
何?
勿論、こんな人間だらけの場所で声を発して話しかけたりはしない。
通路を挟んで反対側の席の女の子がこちらを振り向いた。次の瞬間、カードサイズ、とある席の予約番号を背負っている紙舞は、するりと財布の中へ戻っていた。女の子の目的はどうやら外の景色を確かめることだったらしい。彼女は直ぐに視線を元のスマホ画面へ落とした。僕はふうと小さく息を吐いた。
紙舞のやつ、僕の監視のつもりか? それともバスを降りる前に、何か伝えたいことがあったとか。
どちらにせよ、今の僕に用意された選択肢は一つ。予約されたその席にたどり着くことだ。
降車のドアが開く。同時に、騒々しい音楽と人間たちの笑い声が車内を侵食した。
黄泉峠アウトレットは、この辺りでは有名なショッピングスポットだ。百五十以上のブランド店や飲食店が立ち並び、平日でもこうして若者を中心に賑わいを見せる。この中の一施設、映画館に目指すべき席がある。
「小学生は無料だよ」
突き出した僕の手を制して、運転手は首を傾げた。運賃の二百円が握られていることに気が付いたらしい。
面倒だな。
「小学生じゃない、です」
「ええ? そうなの、ごめんね。あんまり小柄なもんだから、おじさん間違えちゃったよ。中学生?」
返事はしない。頭をぺこりと下げて二百円を集金箱へ落し、そそくさとバスを後にした。非常に面倒くさいこのやり取りを、今まで何度繰り返して来たことか。
見てくれは人間で言うところの十歳前後の男児。背伸びをしたとて、とても中学生には見えぬ童顔だ。生まれ出てからの年月を数えたことはなかった。しかし無論、六十年は優に超えている訳だから、運賃無料対象に入らなくもない。
ただ、この身体は貰ってから、ええっと、三十三……いや四……。
数多の妖怪が人間社会、この市の中に溶け込んでいた。狐狸の類は己の能力で人間に化けることができるものが多い。しかし変化の術を心得ないものは、人間に見える身体を手に入れるために契約を結ぶ必要があった。“人間に決して嘘を吐かない”という、たった一つにして、あらゆる事柄を内包した契りを。
小学校へ通ってない僕は小学生じゃないし、肉体はまだ六十年も使ってないし。
人間の設けた規則や基準、投げかけられる言葉、求められる行動。そのどれにも嘘を吐くことができない。全ての法律を守り全ての義務を果たし、全ての答えは正直で全ての約束に忠実である。それはここで生きることを選んだ妖怪たちを律する楔だ。
やっぱり弾かれてるよな。
厚い上空の黒雲が、憂鬱な気分に追い打ちをかけるようだった。
「予定がなければ来なさい」
そう書かれたメモ用紙を見つけたのは今朝のことだった。自宅アパートのドアポストに挟まっていた。映画のチケット然をした紙舞と共に。
紙舞に詳細を尋ねたが彼に口は無いようだった。時折かたつむりのような目が生えては引っ込むの繰り返し。それ以外は本当にただ宙を舞うばかりだった。妖怪にも色々いるもんだと呆れた僕は、財布に紙舞をしまうと直ぐに家を出た。
妖怪を伝達役に遣ったこと、唐突にして意味深な要求。呼び出した当人は恐らく妖怪だろうと考えた。しかしメモの内容に逆らえる気がしなかった。つまりメモ自体は人間が書いたのだ。僕に今日の予定はない。
「ここか」
映画館の自動ドアが左右に分かれる。薄暗い館内には甘くて美味しそうな香りが満ちていた。
チケットの紙舞を取り出して表示を確認する。映画名は『業』、上映開始時間までは十五分程、そして――
「え、これR指定映画じゃん!」
まじか。出発前に確認しとくんだった。
そこにはしっかり年齢制限を示すマークが印字されていた。身体の使用年数から言えば嘘偽りなく条件を満たしているが、小学生の姿形で入場させてもらえるはずがない。係員から「君いくつ?」と尋ねられれば面倒なことになる。
分かってんだよ、分かってんだけど!
それでも踏み出さずにはいられなかった。「予定がなければ来なさい」という呪いが、僕を放してはくれなかった。
「ただいまより、『業』の入場を開始いたします。チケットをお持ちの方は――」
響き渡る館内アナウンスの中、入場ゲートへ向かう。係員に右手を差し出され、目を合わせないように俯きながら紙舞を乗せた。
「『業』のお客様ですね。ごゆっくりどうぞ」
え?
あっさりと係員は半分にもぎった紙舞を僕に返却した。そのままこちらを振り向きもせず、次に並ぶ客の対応に取り掛かる。年齢制限作品だということを失念しているのだろうかと不安になったが、係員のミスまで心配する義理はない。
ラッキー。
そのまま進みかけてふと気付いた。半分になった紙舞の目がいつの間にか伸びていた。その視線の先をたどって振り向くと、先程の係員の後頭部、そこに口がある。
二口女。後頭部に第二の口を持つ妖怪だ。
入場ゲートに立つ係員まで妖怪と来た。彼女は正面の顔を他の客へ向けたまま、その背後の口を動かしていた。ゆっくりとはっきりと、音のない言葉を紡いでいる。
「おきをつけて、ひよりさま」
お気を付けて、日和様、だ。
雨が降る日は外を出歩かない、晴れに愛されているはずの妖怪、日和坊。安直にそこから流用した“日和”という人間としての名を、この係員は知っていた。
誰だ、僕を呼んでるやつってのは。
もう雨は降りだしただろうか。窓の無い劇場の中で、外の様子を想像する。今朝からずっと弾かれている、天気に。
日和坊だってのにさ。
三十数年ずっと弾かれている、人間社会に。
上演開始のブザーが鳴り、辺りが漆黒に包まれる。
「今のお主が背負っておるものは何じゃ。今のお主を縛っておるものは何じゃ」
厳かな女の声だった。
これは……?
嫌な予感がした。あのメモを発見した時から、どうも調子が優れなかった。
嘘を吐けないという決まりが重荷になることはある。それでも人間の友人が沢山いる。人間として楽しんでいる妖怪の仲間も大勢いる。正直者である自分を案外気に入っていた。幸せではなかったか? 僕の日常は充実していたのではなかったか?
「妖の世の理と、人の世の理は、決して――」
まずい、やつら僕をはめやがったな!
思えど、既に声は出なかった。
人間社会からの縁切りを促す、あの党のプロパガンダ。それがこの『業』か。
常闇に浮かぶ臙脂色の瞳をした、やつらの気配がした。




