いよいよ研究生活の始まりだ
「おはよう」
「おはようございます」
元気な挨拶が飛び交う、寮にある食堂の入り口。
俺は順番に並んでトレイを手に取り、自分でご飯と味噌汁をよそった。
そして焼き鮭と納豆と、大好きな玉子焼きもトレイの上に載せて席についた。
しかし周りを見回すと皆、まだ眠たそうな目を擦りながら黙々と朝食をとっていた。
俺は大自然の中の空気が旨いせいか食が進んでしまい、ついついお代わりまでしてしまった。
会社の始業時間は八時からではあったのだが、今日は初日という事もありその後、隣にある研究所に張り切って七時に出社してみた。
しかしまだ総務課の部屋の鍵は開いておらず、守衛室で鍵を借りてから入っていった。
そこは俺を入れても四人だけの職員の部屋としては、充分に余裕のある広さであった。
二つどうしの机が向き合い、4つの机で長方形を形造っていた。
俺の机の上には早くもパソコンと、肩書きを記した名前札とが置かれており、そこには総務課課長補佐、小林辰男と書かれてた。
そして俺は不意に、窓越しに見える雄大な八ヶ岳の姿に見入ってしまった。
すると今から二十年ほど前に、会社の仲間たちと登った時のことを思い出した。
「あの時は美濃戸口から最高峰の赤岳まで、随分と長い道のりを歩いて行ったなあ。
それに登山ブームであった事もあり、北アルプスの山々や南アルプスにも何度も足を運んだっけ。
それと富士山にも登ったよなあ。
いま思うと懐かしい思い出だな。
だけど最近は仕事が忙しかったり、家族サービスを優先したりして、なかなか行けなかったからな。
折角こうして大自然の中にある研究所へと来たのだから、また山登りを始めてみるかな?」
そう想いを馳せていると若い男女二人と、恰幅のよい紳士とが部屋へと入ってきた。
そして最初に若い男性が
「おはようございます」と声を掛けてきてくれたのである。
すると俺も「おはようございます、小林辰男と申します。これからお世話になりますが、どうぞ宜しくお願い致します」と言葉を返した。
また、それに応えるようにして恰幅のよい紳士と若い女性の二人も、挨拶を交わしてくれたのであった。
その後、それぞれが自己紹介をし終わり、和やかなムードの中、この研究所での仕事内容や研究所内の見取り図をホワイトボードに書いてもらい説明を受けた。
その話の中で総務課長は、なんと俺と同じ五十二歳であることが分かった。
そのほかの二人の社員は、背が高く三十歳でジャニーズ系の雰囲気を持った男性と、二十五歳でスラーッとしていて切れ長の目をした女性であった。
若い二人は地元採用であり、自宅から車で通っているとの事だった。
その後、総務課での仕事の手解きを受ける事になったのである。
しかし総務での仕事は、もう三十年にも及ぶ経験があるので心配は無かったのだが、午後からの研究室勤務での事がずっと気にはなっていた。
それは書類に書く文字が、震えているのを自分でも分かるほどであった。
「これほどの緊張感は、いつ以来であろうか?
あ、そうだ、思い出した。
二十二年前、婚姻届にサインをした時以来だ」
午前中の勤務は、あっという間に終了し、昼食を総務課員四人揃って食堂でとることになった。
俺はこのあと待ち受けている研究室での勤務の緊張感もあり、うどんを啜るのが精一杯であった。
食事後俺は、ロッカー室へと歩いて行き、白衣に着替えてから研究室へ向かった。
そして始業を知らせるベルが鳴るのと同時に、ノックをしてからその部屋へと入っていった。
すると入った瞬間、ムッとする薬品の匂いが喉の奥まで届き、思わず咳き込みそうになってしまったのである。
「これはきついなあ」
その匂いに、このさき堪えていけるのだろうかと早くも不安になってしまった。
そこの研究室には八名の研究員たちがおり、上司から与えられた課題に対して、それぞれが生薬、鉱物などの成分を分析、分離、合成させて、その結果を報告書にまとめているのだという。
その後、研究室長に号令を掛けてもらい、皆の前で自己紹介をさせてもらう事となった。
「初めまして、東京の本社から異動して参りました小林辰男と申します。
この度、自分勝手な希望を会社に認めていただき、こちらの研究所へと移って参りました。
元々、文系の勉強と仕事しかしてこなかった私でもあり、こちらの職場が場違いであるという事は重々承知しております。
皆さま方には、この素人同然でもある私が御迷惑をお掛けする事が有るかも知れません。
しかし、これから精一杯勉強していきたいと思いますので、是非とも温かい目で見守っていただけると幸いです。
どうぞ宜しくお願い致します」
すると全員が温かい拍手で迎え入れてくれた。
その後、それぞれが自分の研究机に戻り、作業を始めることになった。
そして俺の作業場は皆とは違い、少し離れた二メートル×八メートルほどある大きな作業台の角際に決まった。
椅子は背もたれの無い丸椅子である。
そして誰が用意してくれたのかは分からないが、化学式一覧表や漢方薬入門編なる書物が、俺の作業台の上に置かれていた。
そこで俺はさっそく、その化学式一覧表を開いてみたのである。
しかし俺にしてみると苦手な記号が羅列されており、咄嗟に脳の苦手センサーが働き、直ぐに閉じてしまった。
「やはり文系の俺には、薬品の研究職は向いていないのであろうか?
しかし本社の上司にはこう言われてたな。
他の研究員たちとは、まったく別の発想でやってくれと。
今更、基礎も出来ていない君に研究員としての成果は求めていない。
しかしその素人の君だこらこそ、ベテランの研究員たちが思いもつかないような感覚を現場に持ち込んで欲しい。
そしてその研究員たちの凝り固まってしまっている脳ミソに、風穴を開けてくれと。
ようし、心機一転頑張るぞ」
と意気込みも新たに始めてみようと思い、目の前にフラスコ、ビーカー、試験管と用意してみたのだが、何の発想も出てきやしなかった。
そして暫くの間、俺は途方に暮れていたのだが、それではいけないと思い
「よし、それでは気分転換に医薬専門書庫にでも行ってみるか」
と行動に移してみる事にした。