トリスタン・フォーレ
娘は父の半生を知る。
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「シ……ビル……?」
「…………っ」
星明かりの海は、まるでこの世の光を全て喰らうかのように揺れ動き、真っ黒い闇の中でただ波音だけを立てている。黒い波を背にこちらを睨みつけるシビルの瞳だけが爛々と輝いていた。だがそれが不思議といつもより美しく感じられ、その体には闇の眷属とされる魔族の血が流れていることを否が応でも再認識させられた。
一体どのタイミングで俺とシビルの関係を知ったのだろう?肌の色の違いから、血が繋がっていないかもしれない事までは、あるいは想像していたかもしれない。だがまだ話していない以上、俺が拾った経緯までわかるはずがない。オウルベアの爪に魔王の力が宿っていたことと関係があるのか?
……いや、そんなことは今は問題ではない。それは後でも確認できる。とにかく今は、娘の疑問に答えなくてはならない。真実を話すべき時が来てしまったのだ。俺が思っていたよりもずっと早く。俺が思っていたよりもずっと残酷なタイミングで。
「……わかった。すべて話そう。だがここでは波が足をさらって体が冷える。……あの岩がいい。座って話そう」
「……うん」
岩の上に並んで座ったシビルはほんの少しだけ警戒を緩めていたが、しかし俺と密着することはない。拳二つ分の隙間が、今のシビルとの距離に思えた。これがどこまでも遠く、深く広がるかもしれない不安と予感が、魔王城にいた時以上の緊張と恐怖を与えてきた。
「……どこから聞きたい?」
「全部。……パパの子供の時から、今日までのことを教えて」
「わかった。長い話になるから、これを羽織っておきなさい」
俺はシビルが薄着であるのを見て思わず掴み取っていた、女の子向けのジャケットを手渡した。リシャールが王都で買ってきてくれたものだ。多分すぐに成長することを見越したのだろう、ちょっとだけ大きめなジャケットだった。無言でそれを羽織るシビルの顔は、どこか少し大人びて見えた。
「さて、俺の子供の頃の話だが……まず俺には最初から両親がいなかった。生まれてきた以上は居たはずだが、全く会った記憶がない。もちろん名前もなかったし、いつ生まれたのかもわからないから本当の年齢もわからない」
「えっ……?」
「物心付いたときから王都のスラム……ああ、貧民街っていう、お金も仕事も無いところがあってな。ここは狩りをすれば肉も結構食べられるけど、スラムでは狩りもできないんだ。そんなところで生まれ育った俺は、まだ人を愛するってのがよくわからなくてな。うんと小さいときだけ俺に生ゴミの欠片を譲ってくれてた爺さんはいたが、それもすぐに死んでしまった」
今でもスラムの匂いは鮮明に思い出される。生ゴミと、血と、死体の匂い。そんな吐き気を催す匂いにも人は慣れ、思い出に出来てしまう。だがシビルにそんな思い出は必要ないだろう。
「誰も頼れないから、何でもやった。人の金を盗み、人の食い物を奪った。奪えない時は誰かの食べ残しやゴミを探して食った。死体からでも服や荷物を奪った。その時の俺は狩りをして生き残る発想も力も無い。生きるためにはそうするしかないと思ってた。まさに魔獣と同じだな。いや、金を奪ったりしない分魔獣の方がマシかもしれない」
シビルに果たしてどこまで伝わっているのかはわからないが、青白い肌が透明になるんじゃないかというほど白くしているのを見ると、少なくとも今のよりも厳しい環境にいたことは想像できたようだ。もっとも、あの頃の俺がここに来たとしてもまず生き残れないだろうが。
「俺が10歳くらいの時……だと思う。生まれた年も月日もわからないからおおよそになるが、つまり今のシビルくらいの時だな。スラム街を少し身なりのいい男が通ったんだ。ガタイはかなり良かったが剣は持っていなかった。だから油断した俺は財布をかすめ盗ろうと近付いたんだが……男は、見た目に違わぬ素早さで財布を掴んだ俺の腕を握りしめ、そのまま投げ飛ばしたんだ。……それが、小隊長殿だった」
「小隊長殿……もしかして、今日来てたおっきいおじいちゃん……?」
「本当ならおじいちゃんと言えるほどの年寄でも無いんだ。俺がいなくなってから苦労したらしくてな……まあ、そこは後で話そう。とにかく、小隊長殿はガハハと笑いながら、俺の胸倉を踏みつけた。そして堂々と言ってのけたんだ。『俺から財布を奪おうとするとは大したものだ!明日も通るから、その気があるならまた奪いにきてみろ!』とな」
苦く痛い思い出だ。あの時、小隊長殿は本気で踏みつけていた。履いていたのが厚めのレザーブーツではなくプレートブーツであったなら、胸骨を砕かれていてもおかしくなかった。もしかしたらあの日もヒビくらいは入っていたかもしれない。
「次の日も、そのまた次の日も小隊長殿はやってきた。そしてあの手この手で財布を奪おうとする俺を全部真正面から返り討ちにした。そして何故か決まって、目を回す俺の口にパンをねじ込んできてアドバイスしてきたんだ。"フェイントを混ぜろ"、"考えることをやめるな"、"身軽さを活かせ"。俺はその通りにした。そして……季節が巡って、もうすぐ雪が降るかなって時に、俺はついに財布を掴むだけじゃなくて、引き抜くことに成功したんだ。ところがだ」
『思ったよりも早く取られちまったな!ガハハハハ!良いだろう、その財布はくれてやる!』
「…………中に金なんて一枚も入ってなくてさ」
「パパ騙されてたの!?」
「それは違うな。取られるってわかってる財布に金なんか入れてるわけが無い。俺もその時は騙されたかと思ったんだが、よく見るとくしゃくしゃに丸められた紙が入ってたんだ。俺はその時、シビルと違ってまだ字が読めなくてなあ。目の前の男に何が書いてあるのか聞いたんだ」
『我が騎士団への入団推薦状だ。お前は弱いが、野良犬にしておくのは惜しい。そこにお前の名前を書け。今すぐ騎士団へ向かうぞ』
「夢みたいな話だったよ。何せ俺は、盗み奪っていく以外に生きていく方法なんて無いと思ってたのに、財布を盗まれかけた人が俺を騎士にしてくれるって言うんだ。もちろん疑った。そしたら『騙されたと思え!俺に腹芸を求めるな!』ってあの人、聞かなくてさ。笑っちまったよ。生まれてはじめて、腹が痛くなるほど笑った。空腹と食中毒以外でも腹が痛くなることも、笑い過ぎると腹が痛くなることも、その日初めて知ったんだ」
そしてこんなにも自分の事を話したのも初めてだ。それを聞いてくれるのがシビル……愛する娘であることを神に……いや、シビルに感謝した。俺に対する不信感を持ちつつ、それでも俺を父と慕い、父の話を漏らさず聞こうとしてくれるシビルの事が愛おしかった。
何故だ。何故俺はこの娘と血の繋がりが無いのだ。何故この娘は俺の娘としてでなく魔王の娘として生まれてしまったんだ。俺の娘として生まれてきてくれたなら、こんな酷いところで貧しい生活を送ることなく、王都で今もリシャールとその息子とともに笑って暮らせたかも知れないのに。それとも、そのシビルはあの日に消えてしまったのだろうか。
「でも、名前が無かったんだよね……?それまではなんて呼ばれてたの?」
「そうだな、"おい"とか"そこの"とか"お前"とかかな。一番それらしかったのは"ドブネズミ"だった」
「…………ひどい」
「それが普通だったし、今でも珍しくない話だ。でも、名前欄に"ドブネズミ"と書きたくてどう書くのか聞いたら渋い顔されてな。急にウンウン悩んだと思ったらニカッと笑ったんだ。で、俺の手を掴んで推薦状に無理矢理新しい名前を書かされた。そこに書いてあったのはドブネズミじゃなかった」
書かれていた名前は、トリスタン・フォーレ。
小隊長殿と同じ、フォーレを姓に持つ騎士はその日に生まれたんだ。
「フォーレ……?フォーレって、私と同じ……?」
「ああ。トリスタン・フォーレの娘だから、シビル・フォーレ。つまり、小隊長殿はお前のお祖父ちゃんに当たるわけだ」
「……っ!」
言われたシビルは何度も小さく、「お祖父ちゃん……私にお祖父ちゃん……」と口の中で呟いている。自分で言ってても少し照れくさいが、もし可能ならちゃんと小隊長殿に孫娘を紹介してやりたいな。騎士団の皆、俺の娘のこと、憎まないでくれるかな……。
「……騎士団に入ってからは、毎日教練と鍛錬、そして任務の日々だった。俺はそこで剣を学び、魔法を覚えた。スラムにいたときの方がマシだったかもと思えるくらいに過酷な毎日だったが、騎士専用の宿舎で毎日ご飯とお風呂に入れて、初めて仲間と呼べる奴等ができた。幸せな日々だったと思う。そして、騎士団に入って10年経って、任務先で知り合ったポーラと出会って結婚したんだ。二人で買った家に移り住んで間もなく息子も生まれた。ニコラという名前で、お前の義兄に当たるな。その後ニコラの妹も生まれる予定になっていた」
ポーラ。ニコラ……生まれてこれなかった娘のシビル。死んだお前たちの仇を討つこともせず、こうして魔族の血を引く女の子を娘として育てている俺を、やはり恨んでいるだろうか。あの日の最期の顔が、消し炭になる直前の顔が思い浮かび、かさぶたになっていた心の傷から血がにじみ出る。
「そっか……私のママとお兄ちゃん……あとお姉ちゃんだね」
「ああ。だが残念ながら三人に会わせることはできない」
言うのが辛い。正面から認めるのが辛い。
果たしてシビルに言っていいかどうかもわからない。
魔族であるシビルに、魔族によって刻まれた心の傷を見せていいのだろうか。
まだ迷いはあった。でも、全部話すと約束したから。
「どうして?私の見た目がパパと違うから?」
「もう、いないんだ」
「…………えっ……」
「ある日、任務から帰る途中、王都に魔族の群れが襲ってきた。ちょうど魔王による宣戦布告がされた日でもあった。俺とは違う青い肌と2つの角を持った連中が、突如城下町に何十人と押し寄せてきて、手当たり次第に強力な破壊魔法を放った。多くの家屋と住民たちが巻き込まれた」
「青い肌……?つ、角……?まさか……!?」
その言葉にショックを受けたのか、シビルの全身が小刻みに震え出した。自分に備われた小さな一本の角を、震える左手で触れている。まるでそれが、自分自身の罪の証であるかのように。
「……俺は魔族を何人も斬りながら、必死になって家に向かった。到着したとき、息子を抱いた妻が魔族に破壊魔法を放たれる寸前だったんだ」
震えてるのは俺も同じだった。それもシビルどころじゃない。ガタガタと手が震え、脚が震え、あの日の情景が、色が、音が、匂いが、あまりにも生々しく鮮明に思い浮かぶ。11年という歳月は、その傷だけは過去にすることを許してくれなかった。
「……俺に気付いた息子が俺に手を伸ばして泣き出した。たーたーって叫んでた。俺に助けを……っ!求めてた……っ!!」
耐えきれなくなって両手で髪を掴んだ。そうしないと俺は、腰のナイフで自分の喉を掻き切ったかもしれない。憎かった。許せなかった。俺の家族を殺した魔族が、家族を護れなかった自分自身が、今すぐにでも滅ぼしてやりたいほどに。
「な、なのに、俺、間に合わなくて……っ!ポーラは……ちょっとだけ大きくなったお腹と……泣いてる息子をかばってて……っ!なのに、あいつ……っ!俺に言いやがったんだ……っ!!」
妻は俺に叫んだんだ。
「『逃げて』、と……っ!!そう聞こえたと思ったら……っ!!も、もう、全部炭になっちまってたんだ……っ!!」
心から再び流れ出した血が、目から溢れ出した。
妻は俺に助けを求めなかった。自分たちが死ぬかもしれないその時に、俺に生きてほしいと願っていた。
どうしてあの時、俺に助けてって言ってくれなかったんだろう。そうしてくれたら、俺はとっくにお前の後を追いかけて行けたというのに。妻の言葉は楔となって、俺をこの世に縛り付けていた。
これが間に合わなかった俺に対する罰なのだろうか。
「ごめん……なさい……っ!!」
「……シビル?」
「きっと私……っ!魔族なんだね……っ!ママと……お兄ちゃんと……お姉ちゃんを殺した人たちと同じ……っ!!」
「…………ああ。だが、自分を責めるな。お前が悪い訳じゃない。お前は誰も殺してなんかいないじゃないか。それに、この話にはまだ続きがあるんだ。最後まで聞いてくれると、嬉しいな」
俺は一旦、目に見えない傷口から流れる血を強引に無視して微笑みかけると、シビルは話し始めた頃とは違う、何かを決意した顔で俺に頷いた。闇夜が引き立てる美しさはそのままに、いつものシビルが纏う陽の光を思わせる可憐さが備わった。
拳二つ分離れていた距離は、いつの間にか無くなっている。密着するシビルから体温を感じられて、それが俺の気力を復活させてくれた。
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陽はまた昇る。