「カレン・アン・クインラン事件」を考える
今回は、私が以前から興味を持っていた倫理学の話題について少し触れてみたいと思う。ここで紹介する「カレン・アン・クインラン事件」は、生命倫理学が登場した20世紀後半にアメリカで起きた事件で、生命倫理について考えるうえできわめて重要な事例の一つである。有名な事件なので知っているという方も多いと思うが、一応事件の概要から紹介していきたい。
事件が起きたのは、1975年の4月15日、米国ニュージャージー州のとあるパーティー会場であった。カレン・アン・クインランはこの日、友人のパーティーに参加し、会場で多量のアルコールと精神安定剤ヴァリアムを飲んだ後に意識を失い、呼吸不全に陥った状態で病院へと搬送された。彼女が意識を失った原因に関しては、アルコールとヴァリアムの複合的影響であると考えられている。長時間、呼吸不全状態が続いたことで彼女の脳は回復不能の障害を受け、肺炎も起こしていたため、人工呼吸器がつけられることとなった。その後の懸命の治療もむなしく、事件からおよそ半年後にカレンは「持続的植物状態」であると診断された。
彼女の両親、ジョゼフとジューリアが「人工呼吸器の停止」の許可を求めてモリスタウン上級裁判所に訴えを起こしたのは、同年の9月12日のことである。この提訴の背景には、両親が担当医に対し、「娘の人工呼吸器を外してほしい」と頼んだが、拒否されたという事情があった。ただ、11月10日、上級裁判所は「カレン本人には意思決定の能力がないため、人工呼吸器の取り外しを決定する権限はあくまでも医師にある」との理由から両親の訴えを棄却した。
この決定に納得のいかなかった両親はニュージャージー州の最高裁判所に上訴し、翌1976年の1月6日にこれが受理された。そして同年の3月31日に最高裁によって画期的な判決が出された。カレンの父ジョゼフを彼女の後見人として認め、娘の治療の決定を委ねたのである。これは、「持続的植物状態」にある患者からの生命維持装置の取り外しを認めた世界で最初の判決として、今日まで語り継がれることとなる。
この判決の後、5月22日にカレンの人工呼吸器が取り外されたが、その後、カレンは自力呼吸を再開し、6月10日にモリス・ブレーンズのモリス・ビュー・ナーシング・ホームに転院した。そして、カレンは1985年の6月11日、このナーシング・ホームにおいて、9年間一度も意識を取り戻すことのないまま肺炎のため亡くなった。享年31であった。これが「カレン・アン・クインラン事件」の簡単な経緯である。
この事件が社会にもたらした影響は大きい。最高裁判決が出された1976年に、カリフォルニア州で「Natural Death Act(自然死法)」が成立し、その後アメリカ国内において、6年間に15州で同様の法律がつくられている。
この事件で最も考えるべきポイントは、「カレンの両親はなぜ娘の人工呼吸器停止を求めたのか」という点である。実を言うと、カレンは彼らの実の娘というわけではなく、養女なのだった。血のつながりがなかったのである。当時、日本でもこの事件の報道がなされた。そのなかで、自らも植物状態の子どもを世話している親が、カレンの両親が介護の負担から逃れるために人工呼吸器の取り外しを求めたといって憤りを見せたニュースなどもあったようだ。
だが実際には、両親が娘の人工呼吸器停止を求めたのにはもっと別の理由があったのである。
ではその理由とは何だったのか。考えうる理由としては、まず両親がカレンの「尊厳死」を望んだから、というものが挙げられるだろう。果たしてこの見方は正しいだろうか。
たしかに、この事件は「尊厳死」が社会的に認められる一つのきっかけになったとも言われている。「尊厳死」は「安楽死」とは微妙に意味が異なり、「人間としての尊厳」を保ったまま死ぬ(尊厳を失った状態では生きるに値しない)という考え方だ。つまり、この見方が正しいとすれば、カレンの両親は、「持続的植物状態」に陥った娘が「人間の尊厳」を失ったと考えたことになる。
しかし私は、二つの理由からこの考えには反対である。それは、一つには裁判における議論に明らかであり、もう一つには両親がローマ・カトリック教会の敬虔な信者であったことから読み取ることができる。
まず、裁判について。この事件における上級裁判所、州最高裁判所の判決文を見てみると、いずれにおいても「持続的植物状態」と「人間の尊厳」の関係性については全く言及されていないのである。もし、「尊厳死」が裁判の争点になっていたとしたら、判決文でそれに関して一言も触れられていないというのはどう考えてもおかしい。つまり、少なくとも法廷では「尊厳死」に関しての議論は為されなかったし、当然ながら提訴の理由にもならなかったのだ。
また、両親がカトリックを信仰していたことも理由の一つである。不勉強なことに私も最近になって初めて知ったのだが、カトリック教会が特に重視する原則の一つに「生命の尊厳」があるのだという。これは、生命に対して広く適用されるため、もちろん植物状態とて例外ではない。つまり、もし両親が「娘は植物状態だから尊厳を持たない=生きるに値しない」と考えたとすると、カトリック教会が掲げる「生命の尊厳」という原則と真っ向から対立することになってしまう。このように見ていくと、両親がカレンの「尊厳死」を望んでいたという仮説には無理があることがわかる。
では、両親が人工呼吸器停止の訴えを起こした理由は何だったのか。これについて考える前に、そもそもの人工呼吸器の性質について少し触れておきたい。
人工呼吸器は知っての通り、自力での呼吸が難しい場合に取り付けられ、自力呼吸が回復すれば役目を失って取り外されることになっている。しかし、今回の事例のように、自力呼吸が回復する可能性がほとんど残されていない状態で人工呼吸器を装着し続けることは、本来の人工呼吸器の用途からは外れた行為となる。最高裁の判決文から引用すれば、この場合人工呼吸器は「postpone death(死を繰り延べする)」装置と化す。
このことからカレンの両親は、あえてキリスト教的表現を借りれば「神の摂理」に従って娘の「自然な死」を求めたのだと考えられる。ここで問題とされたのは、「尊厳死」ではなく、自然な死=「自然死」が人間の義務であり権利でもあるということだったと思う。
こんな話も伝わっている。既に書いた通り、カレンは人工呼吸器を取り外された後に自力呼吸を回復し、意識は戻らなかったものの、その後9年間にわたって生き続けた。その間、両親は娘の介護を献身的に続けたのだという。このことからも、両親が娘の介護の負担から逃れるためであるとか、「植物状態は生きるに値しない」から「尊厳死」を求めたのだという指摘は的を外れていることがうかがえる。逆に、両親がカレンの「自然死」を願っていたのだと考えれば、9年間にも及ぶ彼らの献身的な介護とも辻褄が合うのである。
「カレン・アン・クインラン事件」をめぐる一連の裁判において、最終的に「人工呼吸器の停止」が認められたということは、死を招くかもしれない極めて重大な決定であっても、患者の意思が最大限に尊重されるということにつながる。それは、それまで主流であった「医の倫理」(医師中心医療やパターナリズム)とは異なり、患者の「プライバシーの権利」(この事例で考えれば、人工呼吸器を停止するか否かの選択は、カレンのプライバシーの権利である)を認めた点で画期的な判決であった。現在はその内容の変化とともにこの「プライバシーの権利」は呼び方を変え、「死ぬ権利」として提唱されている。
ただ、私がこの「死ぬ権利」を絶対的に尊重すべきだと考えているかというと、そうではない。もちろん自律は大切な原則の一つではあるが、それとて絶対的なものではないということを考慮しなければならない。「死ぬ権利」もまた、その簡潔な名称とは裏腹に非常に複雑な内容を抱えており(例を挙げれば「治療を拒む権利」、「安楽死する権利」、「尊厳死する権利」、「自殺の権利」……など)、簡単に認めたり、かといって否定したりすることができない問題なのである。
この事件の後、「リビング・ウィル」の制度が生まれることになった。それは、カレンの人工呼吸器を停止することが本人の意思であるということを確認するために、家族や友人の証言を使わざるを得なかったという反省から来ている。「リビング・ウィル」とは、自分に意思決定の能力があるうちに末期医療の内容に関する自身の希望を述べることである。参考までに書いておくと、日本尊厳死協会の入会誓約書「リビング・ウィル」においては、「一切の延命措置を拒否すること」、「苦痛を和らげるための処置は最大限施してもよく、薬の副作用で死期が早まってもかまわないこと」、「植物状態が数か月以上にわたって続いたときには、一切の生命維持装置を停止すること」といった要望が宣言される形になっている。
日本でも近年、「尊厳死」や「安楽死」に関する議論がたびたび話題になっており、患者の「死ぬ権利」をどう取り扱うべきかについて、議論していく必要があるだろう。