ぽんぽこが描き出したもの ~『平成狸合戦ぽんぽこ』~
『平成狸合戦ぽんぽこ』が公開されたのは1994年である。
この作品について語る前に、ジブリの歴史について簡単に触れておきたい。高畑勲監督の本作が公開された翌年、スタジオジブリは『耳をすませば』を発表している。『耳すま』の監督は、かつて『赤毛のアン』などの制作に参加していた近藤喜文であったが、脚本は宮崎駿が担当していた。実質的には高畑監督から宮崎駿へとリレーがなされた形だ。とはいえ、『ぽんぽこ』は人間の手によるニュータウン開発を狸の視点から描いた作品であり、一方で『耳すま』は多摩ニュータウンを舞台として中学生の男女が繰り広げる瑞々しい恋愛模様を映し出した作品である。この似ても似つかない二作品が、実は深く関係していたのだと言えばどうだろう。
もしかすると、もう知っているという人もいるかもしれないが、『耳すま』の舞台である多摩ニュータウンは、『ぽんぽこ』ではもともと狸たちのふるさとであり、人間による宅地造成によって出来上がった土地なのである。たとえば『耳すま』の作中にはこんな歌が登場する。
コンクリート・ロード どこまでも 森を切り 谷を埋め ウェスト東京 マウント多摩 ふるさとは コンクリート・ロード
作中で、主人公の雫はジョン・デンバーの『Take Me Home Country Roads』(いわゆる「カントリー・ロード)の和訳に挑戦している。その過程で、戯れて作ったのが上記の「コンクリート・ロード」という歌である(「カントリー・ロード」のメロディに合わせて歌ってみてください)。
ここではあまり深くは話さないが、雫は自分の故郷が、生きものたちの住処を奪い、元からあった緑豊かな土地を切り崩して作られた街であることを知っている。それは雫自身にはどうすることもできないけれど、自分はそんな故郷を否定するわけでもなく、一方で全くの無関心でいるわけでもなく、そうした事実を全て理解し、受け入れたうえで故郷で生きてゆくことをやや自嘲も込めて歌ったのが「コンクリート・ロード」なのである。
さて、それではそんな『耳をすませば』へとつながりゆく『平成狸合戦ぽんぽこ』はどのような映画であったのか。ここでは、クローズアップされがちなエコロジカルな問題としてだけでなく、高畑勲監督のアニメーションに対する姿勢とともに大まかにこの映画の主題を振り返ってみたいと思う。
『平成狸合戦ぽんぽこ』はどのような映画か。これに簡単に答えようとすると、「人間と自然との共生の在り方を、人間ではなく狸の視点から描いた(訴えた)映画だ」というくらいがいちばんシンプルな答えだろうか。たしかに「表面的には」そうである。私としても、その見方に別に何か異論を唱えようとするつもりはない。
ただし、そうしたわかりやすいエコロジカルな側面は、あくまでこの映画の一つの見方であって主題ではない。この映画を慎重に見ていくと、多くの部分で高畑監督が真に描こうとしたものが見えてくる。高畑監督がこの映画でやろうとしたこと、それは「ファンタジーというメルヘンを徹底的に打ち砕く」ことではないだろうか。
そもそも、高畑勲という人物はどのようなクリエイターであったのか。少し乱暴な言い方ではあるが、宮崎駿が「ファンタジーのなかにリアルを見出す」タイプのクリエイターであるとするならば、彼の盟友にして「戦友」でもあった高畑勲は「あくまでもリアリズムを追求する」クリエイターであったと言っていい。彼が『ぽんぽこ』以前にジブリで作った映画を見ればそれが見てとれる。まず『火垂るの墓』(1988年)では、第二次世界大戦が終わった後、神戸の街で名も知れず死にゆく兄妹の姿を描いた。この映画と同時上映された宮崎の『となりのトトロ』に登場するサツキとメイの姿と比較すれば、両監督の姿勢の違いは一目瞭然ではないか。また、『おもひでぽろぽろ』(1991年)も、27歳のヒロインが小学五年生当時の自分を回顧するという極めて現実的なストーリーであっただけでなく、ヒロインが笑ったときの顔に出る頬骨のラインをアニメーションの線で表現するという徹底ぶりである。宮崎駿が描く快活としたファンタジーにあえて一石を投じる形で高畑はリアリズムを追い求めてきた。
では『ぽんぽこ』では、高畑によるリアリズムの追求はどのようにしてなされたのか。ここで誤解のないように言っておきたいのが、しばしば『ぽんぽこ』は高畑作品で唯一のファンタジーであると言われるが、それは適切な解釈ではないと思う。『ぽんぽこ』はファンタジーではない。たしかに、「化け学」と呼ばれる狸の変化が描かれたり、狸たちの百鬼夜行のくだりも存在する。こうした部分を見れば、たしかに高畑作品においては例外的にファンタジーが描かれたように見えなくもない。しかし、ここで重要なのは、こうしたファンタジーが作中でことごとく否定されているという事実である。
狸たちは「化け学」を駆使して、ふるさとを壊そうとする人間たちに抵抗を試みるが、人間と機械の圧倒的な力の前にあっけなく敗退してしまう。最後の切り札とばかりに繰り出した百鬼夜行も、最終的には「狸おやじ」のようなテーマパークの社長によってアトラクションの一環であったという説明がなされ、狸たちのファンタジーは商業利用という形で粉砕される。「平成狸合戦」という大げさなタイトルがつけられてはいるが、実際には狸たちがいくら「化け学」で抵抗しようとしたところで人間には勝てないのである。これがたとえば、狸たちの「化け学」によって人間が敗北し、開発が中止に追い込まれるというストーリーになれば、環境保全という形では成功したということになるが、それでは単なるファンタジーに過ぎない。そうではなくて、高畑が描こうとしたのは、狸たちのファンタジーの敗北という形で現れるリアリズムではなかったのか。
作中での狸たちの描かれ方もどこかドキュメンタリー映画のように感じられる。一応、狸のなかの主人公は野々村真が演じる正吉という位置づけなのだろうが、正吉は良い意味で主人公的ではない。大勢いる狸のなかの一人がクローズアップされてしまえば、それもまたファンタジーである。実際には特定の狸だけが何かをしたわけではなく、狸という一つの集団が人間に対抗したのだ。そういう意味で、高畑が集団としての狸の姿を描こうとしたからこそ、ドキュメンタリーのようなカメラワークで狸たちの生活が表現されたのだと思う。
この作品が単なる環境問題を取り上げたものでないという話をもう少しだけしておきたい。それは、決して狸たちが自然の代表なのではなく、人間に抵抗する狸たちにもまた過熱し過ぎたことで現れる問題があったということだ。と言っても何だかよくわからないので詳しくは実際に映画を見てもらいたいのだが、作中にこんなくだりが登場する。人間と同じようなもので狸たちのなかにも穏健派と急進派が存在しており、急進派の一派が工事の中止を狙って工事現場に乱入してくる。その結果、作業車両がひっくり返って作業員が三名「死ぬ」というシーンだ。死ぬのである。オブラートに包んでもしかたのない話であるが、要するに狸の手によって人間が殺されてしまうわけだ。もっと言えば、その後狸たちが集まって追悼の会合を開くわけだが、そこで狸たちはなぜか笑い出す。これは、状況が状況なだけに明らかに不謹慎な笑いである。
なぜこのようなシーンが挿入されたのか。これは想像するしかないのだが、これは行き過ぎた環境保護が招く一つの悲劇を象徴しているのではないだろうか。環境を破壊する側に罪があるというのは至極当然の話だが、その一方で環境保護を訴える側にも、そうした環境保全運動が過熱することによって次第に行動がエスカレートし、強硬手段に訴えかける者が現れてくる可能性がある。そうした可能性を、この後味の悪いシーンは象徴しているのではないか。環境を守らなければならないというのは重要な命題であるが、そのために人を殺していいのかということになると話は別である。環境保護のために殺人が正当化されるということは決してない。環境を破壊する者が悪で、環境を守ろうとする者が全面的に正しいのだという思い込みもまた一つのファンタジーなのであり、このシーンはそうしたファンタジーを破壊するために存在したのだと考えれば一応の納得もいく。そう考えると、やはり『平成狸合戦ぽんぽこ』は、ファンタジーを破壊するリアリズムの映画である、というのが私のこの映画の主題に対する一つの立場である。
私の故郷の街でもたまに狸を見かけることがある。狸の鳴き声を聞いたこともある。多摩丘陵に住む狸たちは開発の前に撤退を余儀なくされたが、彼らの生き残りの一部は人間世界で生きることを選び、残りは狸のままどこかへと移り住んでその地に新たな街を作ることになっただろう。一つの生態系が壊された瞬間だ。狸の鳴き声を遠くに聞くたび、ああ、まだここにも狸が生きているんだなあとしみじみと思うとともに、そうした生きものたちの住処を開発という形で奪ってゆく人間の愚かさと虚しさもまた心を打つ。『平成狸合戦ぽんぽこ』は、主題としてはファンタジーとリアリズムの関係をめぐる物語ではあるが、やはりそこで描かれた一筋縄ではいかない環境問題からも目を背けることはできない。この映画の主題歌である『アジアのこの街で』のサビの一節を紹介して終わりとしよう。
やさしく笑っておくれ この世の悲しい嘘も 遠いアジアのこの街で 願いよ光になれ……
最後に、今日は2019年4月5日、高畑勲監督が亡くなってちょうど一年が経つ。監督の一周忌にあたる今日、『平成狸合戦ぽんぽこ』を放映してくれた金曜ロードショーに感謝したい。