-第二十九章- 安寧を捨てて(1)
-前回のあらすじ-
渡辺刑事との戦闘を開始した陸斗たちであったが、敵の本拠地での戦闘は不利だと考え、一度地上を目指すこととする。
気付くととそこは、ビルに囲まれたアスファルトの上だった。私は病衣をまとっていて、靴も履いていない。
どうしてこんな場所にいるのだろう。それに、服はどうしてしまったのだろう。
この何もわからないという感覚。そして孤独感。懐かしい。私の記憶の始まりだ。
だが、これは私の記憶とはちがう。あのときトオルはあんな遠くに立ってはいなかった。もっと私のそばにいて、そして話しかけてくれたはずだ。
私は思わず立ち上がると、はだしのまま駆けだした。ビルの合間を縫うように、必死で走り続けた。
けれど、どうしてもトオルに追いつくことができない。ただ彼は立っているだけなのに、全くその距離が縮まらない。
「おーい、●●●」
大きな声でトオルを呼ぼうとする。でも、名前が口に出せない。突然声が出なくなってしまう。どうしてだろう。
しばらく走り続けていると、あたりは暗くなってきてしまった。トオルも見失った上、ここがどこかすらわからない。唯一見えるのは、疲れ切った一人の男の、片足を引きずりながら歩いている姿だけだ。
切れかかった街灯の下で、男はため息をついている。何か思いつめたような表情をしていた。そのまま近くの公園に入ると、一人寂しくベンチに腰掛ける。怪我でもしているのだろうか、男は足を何度も触ってはため息を繰り返す。そのまま目をつぶると、暫し眠りについたようだった。
が、そう長くたたないうちに、再び男がもぞもぞと動き始めた。足首をひたすらに掻いている。気が狂ったのではないかと思うほどに。
そしてそこに、気付けばトオルが立っていた。
凍り付くような目と、何の表情もない顔。能力を使っているのだ。私の脳裏に、過去の記憶が押し寄せる。
『サラリーマンがビルから転落した事件』
私はそれを知っている。凛さんから聞かされたのだ。そのときトオルもいたはずだ。どんな思いでそれを聞いていたのか。
しばらくトオルは男を見つめた後、ゆっくりと向きを変えて向かいのビルへ入っていった。男は慌てたように立ち上がると、そのままトオルの跡を追ってビルの中へと消えた。
私も負けじとトオルを追う。けれどやはり追いつくことはかなわないようだ。ビルの入口はぴったりと閉じられていて、中に入れそうにはない。
どうしてなのか。なんでトオルにたどり着けないのか。
悔しくて、切なくて、私は空を見上げる。どんよりと曇った空。星一つ見えない空。
そこに、一つの大きな影が降って落ちる。そうだ、私はこの事件の結末を知っている。男が転落するのだ。
けれど、そこに見えたのはもっと小柄で若い男だった。トオルだ。口から血を流し、顔は青ざめている。あの時の顔と同じだ。
トオルは死んでしまったのだ。この事実は変わらない。つい先ほどまでそれをすっかり忘れてしまっていたかのように、私の心に重くのしかかった。
『ええ、間違いありません。対象は指定された建造物の屋上から転落しました』
頭の中でトオルの声が反響する。
対象、指定された建造物、転落――。このセリフに、私の頭の鍵が外れたように、おびただしい記憶が降り注いできた。
頭が割れるように痛い。何かに頭をたたきつけて正気を保ちたい衝動に駆られる。けれど、突然私という実態が消えてしまったかのように、体が言うことを聞かない。
徐々に意識が遠のいていく。視界は白濁し、遠くで耳鳴りのようなものがうなりを上げる。それはどんどんと近づいてきて、聴覚もかき消されていく。
私はその苦痛から逃れるかのように、ゆっくりと瞼を閉じた。