-エピローグ- 明日へ生きる
朝日も昇りはじめ、あたりが明るくなり始めたころ、男は無機質な病棟の廊下を一人、歩いていた。今日でようやく退院することが決まっており、そのためか多少は機嫌がよさそうにも見える。
ビル転落から早数か月。その間には薬が一切効かないだとか、自然治癒力が異常だとか、病院内を度々混乱させてきた。それを気に追っているのだ。
男はもう、足を引きずるそぶりも見せず、軽快に院内を散歩している。ここを出たら、まず家族に謝ろうか。次はどこで働こうか。男の思考は以前のものとは比べ物にならないほど回復していた。
それはまぶしい朝日のおかげか、それとも退院がそれほどにうれしいのか。それは男にとてわからない。それでも、以前に比べればずいぶんと明るい思考ができるようになっている。
男はあの日を思い起こす。あの頃は、その日を生きることに精いっぱいであった。明日のことを考える余裕などどこにもなかった。だが、今になってみれば、そういうときだからこそ、明日のことを考えるべきだったのだ。いつでも希望とは貴重な行動力の源となりうる。
そんな男とすぐ横を、忙しそうに看護師が数人駆け抜けた。
「あの刑事さんたちの事件遭ったじゃない?あれ以来この二人、目を覚まさないのよ」
「あれ?女の子の方、前もこの病院にいなかった?」
「男の方も精神異常とかでここに入れられてたらしいわよ」
噂話が好きな人間というものは、どこにでもいるものだと、男はため息をつく。
それでも、大きな窓から望む朝日が、他人のことなど気にしなくてよいと励ましてくれる。男にとって、ここは唯一病院の中で安らげる場所であった。
ふと朝日に照らされた病室に視線がとまる。そこには二人の男女の氏名がかかれていた。どうして興味を惹かれたのか、男はそのネームプレートへ手を伸ばす。途端に慌てたようにそこから手を放すと、しきりに指を凝視する。
しばらくして、男は再び何事もなかったかのように歩き始めた。真っ白なネームプレートには、わずかな血痕と、薄く小さな十字架だけが、ひっそりと残されていた。
以上で本作「円い十字架」は完結となります。今まで応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。
なお、本日21時に、あとがきを公開します。それを持って本作は完結設定にさせていただきます。