彼女の美しい世界が完璧になった日
穴の開いた天井から幾筋もの光の柱がさす。
うららかな春の陽光だった。
陽だまりの匂いがする干したての服を着て、メロはたった一人階段を登っていく。
城下から木々が激しく揺さぶられ、葉が身を寄せ合って騒ぐのが聞こえる。メロはうつむいて城の最奥にある王座を目指し、無限かと思われるほど続く段差に足をかけた。
「どうせ、ひとりだ」
もうすぐ、ひとりだ。
春とともに終わりがやってきて、完全な調和は頂点に達し、永い停滞がやってくる。
完全に整備された都市は住みよいが、人間が住む場所でなくなる。
全てが管理され、統一された場所では、ひとらしい機微など許されない。
メロを作った博士はそういって、メロに永遠のお留守番を命じた。それが半年前のことだ。
あらがいようのない時間の流れに、逆らう気もとうに失せた。
彼女の世界は完璧になり、崩壊を始める。人を失えば、人のために整えられた理想が倒れることもない。ただ、積み上げられたものが壊れていくだけだ。
エフェスは在り様そのものが統一された美しい都市だった。
エフェスの人々がいる光景を見られるのもこれで最後かもしれないと振り返る。最奥の城、その長大な階段の上部からは白い家々が一望できた。
滑らかな石を使われた都市は光を反射してつるりと輝いている。
同じ素材でできた入口には大量の人々がごった返し、何グループかに別れて他の街への避難を始めている。
城を中心に形成されたシンメトリーな道は幾何学的な美しさを備えていた。中央部には噴水があり、慈悲深い微笑を浮かべた女神が甕を掲げて清い水を惜しみなく流している。
道の傍には鮮やかな緑色の街路樹が立ち並び、家のベランダには色とりどりの花が咲き乱れ、蝶が蜜を吸っている。
だが、かつて愛と夢をもって育んだすべて――足元の道も華やかな植物も荘厳な城も、誰も何も振り返らない。
「本当に誰もこちらを見ないんだな。いつか帰ってこれると信じているのか」
――それとも、帰ってくる気などないのかもしれませんね。
メロの遊び相手であり世話係だった少年の幻聴をきく。
高所からは城の中庭も見えた。メロのための庭。彼とともに世話をした手作りの花壇も見えた。パンジーの花は可憐に花弁を開き、ゆらゆらと儚い身を揺らす。
己の弱さに自嘲する。言葉は名残だ。一人になれば、語ることに意味は無くなるだろう。
玉座は管理者のために非常に頑健な守りが施されている。せいぜい片手の指で足りる程度しか守れない分、これ以上安全な場所はない。メロはそこで地震を耐え、人々を待つ。
エフェスが楽園と呼ばれたのは地震が頻発するようになる、数年前までの話だ。
それも春に大地震が起きるという予測に際し、完全に捨て去られることになった。
だが、いずれ自然が猛威を振るうのをやめ、息苦しい理想も薄まれば、戻りたい人間も出てくるだろう。その時まで都市を管理し、守るために用意されたのがメロだった。
人々のために造られ、人々を失う都市に残る。メロは戦慄した。ノーということは叶わない。冬の冷たい風がメロの心にも雪を降らせたかのようだった。
新しい春を迎えても、まだ雪解けを迎えていない。
メロが造られたのは一年前の春。あの頃は暖かさしか知らず、芽吹きの季節しか知らなかった。
最初の半年は、本当に幸せだった。
この世を謳歌せよといわれ、その通りに都市を愛した。
「あれも全部、このためだったのかな……サン」
その日々を支えにしようと、遠い目で過去を眺める。視線の先にあるのはパンジーだ。
メロはこの日の為であったとしても、とても大切にされてきた人形だった。
エフェスは地震を予測したのち、余所の街の協力をあおいでアンドロイド制作に乗り出した。しかし予算と材料に問題があり、作れるのは一体きりと最初からわかっていた。
機械人形ならばもう何体も作っていたが、人間そっくりのアンドロイドとなると事情が違う。
一度のチャンスに都市の博士は全霊をかけ、都市に相応しい理想の人形を目指した。
人々の心を癒し、円滑なコミュニケーションを行うための感情と自我。
ネイヴィブルーの髪とトパーズの瞳。瑞々しくしみひとつない白い柔肌、それに隠された強力な機構。不老と頑丈さを除けば、恐ろしいまでに人間にそっくりな人形だ。
自分が造りものとわかっていても、メロは愛と希望を一身に受けて望まれることに幸せと誇りを持っている。
なかでもメロを自己愛で満たしてくれたのは、サンという世話係の少年だった。
メロの情操教育のために連れてこられた孤児で、学はないがエフェスの人々に漏れず礼儀正しい。見た目は同い年で、メロが造りものだと知ったときは大層驚いた。
しかしメロを作った博士たちの人格を見抜く――あるいはつくる――ちからは確かだった。
「つくられて生まれたからといってなんですか」
「人間は血と肉から生まれるんだよ」
「しかし心は心です」
彼はメロの世話をするにあたって正体を教えられても、メロを一人の人間であるかのように扱い、微笑み、叱り、導いてくれた。
一番思い入れが深い経験は、なんといっても花壇である。
あの花壇は、博士たちに赤いレンガを強請って、何度も位置を直しながら作ったものだ。
円状にしたくて、形を遠くから確かめるため何度も階段と中庭を行き来したものだ。レンガは重く、望む位置に運ぶだけで一苦労だった。
日が暮れても完成しなくて、全身泥まみれなのにも気づかず、迎えに来た博士たちに二人揃って怒られた。
博士が機械人形につくらせようかというと、二人は必死に首を横に振った。
「美しいものを造らねばならないのではなくて、美しいものを目指したいのです」
もっと効率的に無駄なくできるのに、といぶかしむ博士にメロも続けた。
「せっかく夢中でつくっているのに、誰かの手に任せたら楽しみを奪われてしまう」
はっきりした理屈があるわけではなかった。
ただ思うままに怒ると、博士たちは満足そうに頷いた。
以降は口出しをしなくなったから、手間暇とアイデアを思いきりぶつけ合って大好きな花壇を作り上げた。理想とは程遠い、思い出があふれるほど詰まった場所を。
形だけは整った花壇の前で、二人腰かけて笑った。
庭いじりが終わると、彼はひまずいてメロの爪に挟まった砂利を丁寧にとってくれたものだ。
「手直しできるのはわかるのに、どうすればいいかわからない。サンはわかる?」
「いいえ。ですがあとになれば、もっといい方法が浮かぶかもしれません」
「時間がかかる」
「そうですね……大丈夫です。この花壇が満足いく出来になるまでは、僕も一緒にいられるよう努力します」
「本当? じゃあ、ずっと一緒にいられるね」
「ずっとですか?」
「ええ、ずっと」
「わかりました。完成の日まで、喜んでおともします」
彼がメロと一緒にいるのは博士たちの判断によるものだ。
だから始まりはサンの意思ではないし、博士の判断によって容易くひきはなされてしまう。
断言はできないが努力する――その真摯な約束に、どれほどメロが感動したか、彼は知らないだろう。
以降は夏に生まれ、秋を過ごした。
花壇の細部を整え、苗を植えて、蕾を見守り。
冬に入る直前に、自身の役目を知らされた。
地震は全てを奪い去る。建物は倒壊し、人々を襲う。シェルター計画も持ち上がったが、そもそも作れる場所がなかった。問題は大地そのものに起こるのだ。
博士もサンもいなくなる。都市に残るのは、メロと機械人形たちだけ。
「……だめだ。思い出すのは、いなくなってからにしよう。この都市を守り続けるにはそれで十分だ」
人々と花壇から目を逸らし、再び階段を登り始める。
声がどんどん遠のき、メロの目頭が熱くなった。
「人が、感情が理想を壊してしまうなら、どうして対応パターンのプログラミングにとどめなかった。何故自我を与えた。都市とともに死なせるためにわたしをつくったのか」
うめく声が廊下に淡々と反響する。
頂上にたどり着いたメロはよろよろと玉座にしなだれかかった。初めて見る玉座はすぐにそれとわかった。銀白の椅子には絶えず青白い波紋状の光沢が波打っていたからだ。
身体は全く痛くないのに、手足を動かすのが億劫でたまらない。
ここの管理者の証である玉座には白衣が掛けられていた。博士のものと思われるそれを羽織り、よじのぼる。
玉座は浅く清い川に手をつけたかのように冷たい。
白衣ごと細い腕で自らを抱く。膝を曲げて丸まる。
「美しいものを愛せるのは完成するまでだと知っていたら、理想など愛さなかったのに」
暖まるには熱も力強さも足りなかった。
空を見上げても、ぽっかりと空いた穴からそそがれる陽光ぐらいしか触れられるものがない。
必死で手を伸ばしても実体はない。しかも、春の金砂の光は意外なほど冷やかだ。
「無理だよ、一人じゃ、無理だ……」
それでも待たねばならない。愛された記憶が役目を放棄することを責めたてる。
いつか誰かがもどってきて、そこに誰もいない光景を思うと人々を追うことができない。
泣いて愚痴をこぼす間にも時間は過ぎて、後悔しても遅くなる。
今にも飛び出しそうな体を抑えるために、メロはひたすら迷いの痛みを涙に変えた。
「一人はやだぁ!」
子どものようにわめいた瞬間、一際大きな地震が襲う。
人々の叫びは聞こえてこない。避難は既に終わっていたのだ。
安堵と絶望をないまぜに、頭を抱えて絶叫する。瓦礫が小さな頭に直撃しても破壊されることはない。ないが、人間に寄りそうために生命損失の恐怖はしっかり再現されていた。
しかし、待てども衝撃はいつまでもやってこなかった。
揺れはいまだ続いている。おそるおそる瞳を開くと、自分を巨大な影が覆っているのを知る。
手をつむじに乗せたまま、上目使いで影の正体を見やった。
「……機械人形……」
メロより二回り以上大きい白銀のボディに金のあしらい。エフェスらしい、高貴で清廉な鋼の騎士。
陽光を背に受けて、まるで日輪を背に負っているかのようだ。
そういえば博士が、都市を管理するにあたり、メロの指示に従うようプログラムを変えておいたといっていた。
これもその恩恵なのだろうか。
不思議な感覚で人形を見つめていると、急に鎧からノイズが放たれた。
無言で与えられた仕事をこなすだけの人形から、スピーカーらしき音がする。
それに驚いて、思わず座った体勢のままピョンと飛び上がった。
クス、とノイズ混じりの苦笑が聞こえた。
《メロさま、大丈夫ですか》
「……サン?」
《はい》
声は違っても間違えるはずがない。頭と心の認識が一致せず、混乱に涙が引っ込む。
「なんで? どうして?」
《ずっと一緒にいると約束しましたから。博士に頼んで、機械人形に人格をインストールしてもらったんです》
「……馬鹿なの?」
《最初は正直怖かったですけれど、これはこれで便利ですよ。重いものも持ち上げられますしね》
今すぐいけといいたかったが、もう大地震は始まっている。
第一こんな姿では人間社会に混ざれまい。
どうしたらいいかわからなかった。仕方がないから、その胸をぽかぽかと叩く。
「ああ、手が痛い、冷たい、硬い! 馬鹿!」
《すみません》
熱い涙がこぼれてとまらない。
地震で床が動くたび、涙が軽く宙に浮く。
《とりあえず、あなたを守りますから。じっと坐っていてください》
「……うん……」
改まって縮こまるメロを、サンが後ろから抱きしめる。
命令をだし、玉座の防壁を作動させた。ギリギリ二人を囲える大きさの青い壁に、身を寄せ合って収まった。
都市が崩れる音がする。
壁が容赦なく割れ、がらがらと壊れていく。木々と花は押しつぶされ、岩と泥のなかに消えるだろう。
理想の先には、なにもない。人々が喝采した無垢な美は、閉じた世界で失われる。
それでもメロは、幸せだった。