ダンディライオンワールド
「こんにちは、たんぽぽさん!」
そう声を掛けられると、わたしはその女の子を見た。
わたしよりも数十倍も大きい、でも幼い女の子。
「あたしは、まき! 小学二年生! よろしくね!」
元気の良い女の子は笑顔でつぼみのわたしに話し掛ける。
「あなたはいつ黄色いお花になるの?」
真ん丸な目で首を傾げながら「んー」と唸る女の子。
「あ、わかった! 明日だね! じゃ明日また来るね! じゃあね!」
突如一人で納得した女の子は、しゃがむのをやめて足早に立ち去った。
風のような女の子。わたしは、そんな小さな背中を見て、そう感じた。
わたしは、たんぽぽ。野に咲くただの花。
お店とお店の間にある路地にポツンと咲く、花。
風通しもよく、日も当たる。
季節は、春。小雨が温かくて、過ごしやすい日が続く。
本当に恵まれた場所に、生まれてきた。
でも今のわたしはまだつぼみ。
あの女の子、まきちゃんが言っていた明日も、わたしはまだ咲けない。
今はまだ、蓄えが足りない。
もうしばらく、眠ろう。
また会いに来てくれたら、嬉しい……かな。
次の日。
「しょうた! こっちだってば! どっちだったかなー?」
まきちゃんの声がした。
「……待てって。はぁはぁ、お前、足早すぎ……はぁはあ」
知らない男の子の声がした。
「あはは! しょうた足おっそい!」
「うっせぇ! かけっこぐらいでいい気になんなっ……はあはあ」
姿が見えないのに声と足音がだんだん近づいてくる。
と、思ったのも束の間だった。
「こっこだあー!」
まきちゃんがお店とお店の路地に入った瞬間、しゃがみながら滑り込んできた。
土埃と風が一緒くたにわたしを揺らす。
「こんにちは、たんぽぽさん!」
まだ揺れ動く途中で挨拶されても、反応に困る。
それでも。
無邪気に笑うその顔を見ると、少しホッとした。
本当に、来てくれたんだ。
嬉、しい……。
「まき、待てって! ……って、止まんなよ!」
勢いよく男の子も路地に入り、まきちゃんとぶつかった。
咄嗟にまきちゃんは地面に両手を着いて、わたしを守ってくれた。
まきちゃんは振り返りながら立ち上がり、男の子と対峙した。
「もぉ、いったーいしょうた!」
「じゃあ急に止まんなよブス」
「ブス関係ないじゃん。ぶつかったのにごめんなさいしないのぉー?」
憤ったまきちゃんは腰に手を当てて男の子、しょうたくんを見た。
しょうたくんはバツの悪そうな顔で、チラチラとまきちゃんを見ながら、
「……ぅぅ、…………悪かった」
不貞腐れるように謝った。その意図が伝わったのか、まきちゃんは笑顔で、
「じゃあ許す!」
と嬉しそうに返した。
二人は笑顔になり、わたしを見るためにしゃがみ込んだ。
「これがまきが言ってたたんぽぽ?」
「そうだよ! かわいいでしょ?」
「まだ咲いてないじゃん」
「今日だと思ったんだけどなぁー。じゃあ明日咲くよ!」
「本当か?」
「咲くよ咲く! 頑張って祈ったら咲くよ!」
「祈って咲いたら、面白いかもな!」
「じゃあしょうたも祈ってよ! ………………」
まきちゃんは手を二回叩いてわたしに祈った。
「神社じゃないんだから。………………」
しょうたくんも手を合わせてわたしに祈った。
………………。
祈られる身としては、二人の真剣な表情に応えてあげたい。
わたしも、わたしに祈った。『明日、咲きますように』と。
しばらくすると、痺れを切らしたしょうたくんはまきちゃんの顔を見た。
「………………なみあみだぶつ」
「………………ぅっ」
しょうたくんはまきちゃんの少し笑った反応を見て、面白くなったらしく
「なーむー」
まきちゃんに聞こえるかすかな声で、緩やかに囁いた。
笑いに耐え切れなくなったまきちゃんは合掌を止め、しょうたくんを見た。
「ぶっ! もう、しょうた。笑わせないでよ」
「おしゃかしゃかしゃかー」
「あははは。なにそれひっどーい。あははは!」
その場で二人は笑いながら、立ち上がって去った。
路地を曲がり二人の声も次第に聞こえなくなった。
あの二人は、本当に風の子のような、印象だった。
もし本当に風なら、もう一度わたしに会いに来てくれるだろうか。
また次の日。
今日は快晴で気温も高い。葉から伝わる栄養が昨日より多いとわかる。
周りの雑草たちもこの日とばかりに葉を広げ、日を浴びた。
たまに通る猫もここでお昼寝をするくらい、気持ちがよかった。
だから、自然と、わたしは咲けた。
祈りが、天に届いた。
夕方頃。
「しょうた! 早く早く!」
「まき、焦んなくても、いいだろっ……はぁっはぁ」
「焦んないと散っちゃうよ!」
「……桜じゃないんだし、散らねぇー……って、はあ」
また二人の声が近づく頃には、お昼寝する猫もいなくなり、夕日がわたしを照らす。
路地から現れた二人は、目を丸くして私を見つめる。
「しょうた! しょうた!」
「なんだよまき!」
二人は笑顔になり、わたしを見るためにしゃがみ込んだ。
「咲いたね! 咲いたでしょ!」
「ああ! 祈って咲くとか奇跡じゃね?」
「わーい! 咲いた咲いた!」
二人はハイタッチして、勢い良すぎてバランスを崩して、地べたに座った。
「「あははははは!」」
二人にはわたしがどう映ったのかわからないが、
この喜びはわたしも嬉しい。
嬉しい……。
まきちゃんと出会ってから、わたしは嬉しいことだらけだ。
余韻が冷めぬまま、まきちゃんはしょうたくんの手を取って、お互いに引っ張り合い、立ち上がった。
まきちゃんは「そうだ!」と手を打ち、何かを閃いた。
「これ、あたしとしょうたのひみつにしない?」
「ひみつ?」
まきちゃんは人差し指を口に当てて、笑った。
「そ、ひみつ。にひひ」
満面の笑みのまきちゃんにしょうたくんも、笑った。
「いいよひみつ。まきこそ誰にも絶対言うなよ?」
「絶対言わないよ。だって言いだしっぺだもん♪」
二人はお尻の土を払うと、仲良く手を繋いで立ち去った。
明日もまた来てくれそうで、わたしは安心感があった。
また、明日。
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わたしが咲いて、2日目の夕方。
そろそろ二人が来る頃だ。
わたしはそわそわしていた。
今日も日当たりが良く元気でいたからだ。
次の準備の蓄えも、順調に集まりつつある。
昨日も良い日だったから、今日も良い日に決まっている。
すると、地面を擦るような音を立てながら、しょうたくんが現れた。
今日は、まきちゃんと一緒じゃない……。
しょうたくんの顔色も、なんだか、暗い。
俯き立ったまま、わたしを見下ろす。
「昨日、クラスの連中に手、繋いでるとこ見られた……」
わたしに話しかける、とは何か違うものを感じた。
「そしたら、なんて言った……。『付き合ってるのか』って……」
手を拳に変えて、力いっぱい握った。
「まきは、『付き合う』って言葉も知らないアホだからっ……。おれが違うっつっても周り、聞いてくれないし、どうしたらいいかわかんないから、言ったやつ殴って、けんかになって、そしたら、なぜかまきも参加して、もうわけわかんないことになって……っ」
力いっぱい握ったから、肩も顔も震わせて、今にも泣きそう。
けど、わたしにできることはわたしを見てもらうことだけ。
しょうたくんにも、元気になってほしいって。
「なんでこうなったんだよ!」
頭を掻き毟りながら、しょうたくんは、目に涙を溜めた。
「なんで! なんで! なんで!」
力いっぱい足を踏み鳴らした。振動が伝わるほどに。
わたしは怖くなった。昨日まで優しかったしょうたくんが、怖い。
「おれのせい? おれは違うって何度も何十回も言った! でも誰も聞いてくれなかった! じゃあまきがわからなかったせいか? 違うだろ。あいつは悪くない。おれがわかってる。だから、だから、先生は一度頭冷やせっておれだけ帰らせたけど、なんでまきとほかの連中は残ってんだよって。どいつもこいつも間違ってる!」
情緒不安定なしょうたくんの行動を、ただ見守るしかできなかった。
わたしもお話ができれば、まきちゃんみたいに聞いて上げられるのに。
ふと、突然、しょうたくんは、足踏みを止めた。
まるで、何かの解決策を閃いたように、わたしを見下ろした。
いや、見下した。
「そうだよ。そもそもの原因は、おまえのせい、じゃないのか?」
わたしの、せい……。
「ああ、そうさ。ここでお前を見つけなければ、昨日ここから手を繋いで帰ることもなかった。もっと別の場所で咲いていればよかったんだ」
その結論に達して、しょうたくんの目が、納得したような目になる。
「悪いのは、お前だ!」
すると、しょうたくんの足がわたし目掛けて、踏み込んだ。
しかし、わたしの真横に踏み外した。
前後ろ、また横と、怒り狂ったしょうたくんの足はわたしからずれる。
「なんで当たんないだよ! なんで避けるんだよ!」
わたしは何もしていない。どこにも逃げる足を持たないから。
しょうたくんの目には涙が溢れ返り、流しても次々と、流れ落ちる。
視界がぼやけて狙いが定まらないようだった。
それに気付いたのか、拳で涙を拭い、狙いを定めた。
今度は、外さない。そう、感じた。
「お前の、せいだ!」
しょうたくんの足から伝わる怒りを、わたしは受け止めた。
1回。茎が折れ、花びらが地に着いた。
「お前のせいだ!」
2回。茎が何か所も折れた。
「お前が悪いんだ!」
3回。根にある葉も花びらも数枚千切れた。
「お前がいなければ!」
4。
「しょうた…………?」
しょうたくんは振り下ろす足を、止めた。
振り返ると、しょうたくんはわたしを隠すように、足を揃えた。
「ねぇ、『誰のせい』なの……?」
しょうたくんの足で見えないけれど、この声はまきちゃんだった。
「だ、誰のせいでもねぇよ」
「うそ。しょうた、顔に出るもん」
「う、そじゃねーし。お前のせい、じゃねーし」
「じゃあ、なんで……しょうた。なにかくしてるの?」
「かくしてねーし! 先生に言われたろ、家に真っ直ぐ帰れって」
「うん。言われた。家、この近くだから寄ってから帰ろうって」
「じゃ帰れよ……」
「しょうたは? しょうたも言われたでしょ?」
「ん、ああ、言われた……。今から帰るとこだよ」
「しょうたん家、反対だよね?」
「んなことわかって! ……るし」
「しょうた。なんで片足、そんなに……ねぇ、しょうた。まさか」
まきちゃんが何かに気づいて、こっちに近づいてくる。
「たんぽぽさんのせいって、思って踏んだの?」
「………………」
しょうたくんは何も答えなかった。それが、答えだと顔を、背けた。
バチン!
しょうたくんの足がよろけた。上で何があったのか、ここではわからない。けれど、まきちゃんの息の粗さで感情が伝わってくる。
「しょうたのバカ! 関係ないじゃん! なのに踏んだの!?」
今までで一番大きな声を聞いた。
「悪いのはあいつらじゃん! それをたんぽぽさんのせいにして、カッコ悪いって思わないの!」
「………………関係ねぇし」
「関係あるよ! 悪者ってわかってるじゃん。しょうたまで悪者にならないでよ。男子なら悪者倒してよ」
「だから関係ないってっつってんだろ! この分からず屋!」
「分かんないよしょうたの考えてること! なんで目を背けるの!?」
「おれが知るか!」
しょうたくんはそう言って、まきちゃんを残して走り去る。
「しょうたなんか、嫌い! 大っ嫌い!」
しょうたくんの背中にまきちゃんはそう言い放った。
しかししょうたくんの足は止まらず、路地を曲がった。
取り残されたまきちゃんは、肩を震わせる。
「あたしアホだから、言われなきゃわからないよぉ……」
まきちゃんはその場で座り込み、両手で顔を隠した。
啜り泣く。泣くのを我慢してるようにも見えた。
しばらくして、わたしを見ると、溜めていた涙と声を吐き出した。
「うわぁぁっ……んっ。ぅわああああああ!」
鼻水まで垂らしながら、わたしを見つめる。
ぼたぼたと、涙を流しながら壊れたわたしを元に戻そうとしてくれた。
けれど、一度千切れた葉や花びらを元に戻ることは、ない。
「ごめんな、さいっ。ごめ、んね。痛かった、よねぇ……」
まきちゃん……。
まきちゃんのほうが、『痛かった』はずなのに。
わたしを抱きしめるように、まきちゃんは顔を近づけた。
「どうしたら、いいの。カラシみたいに……おばあちゃんなら」
まきちゃんは、土がついたまますぐに起き上がり、
「待っててね! たんぽぽさん! あたしが助けるから!」
言葉を発せないわたしに声をかけ、路地を曲がり走り去った。
わたしは待つことしかできない。
待ってる……。
……待ってる。
………………。
わたしは、どうしてしまったのだろう。
自然の中では、どう生き延びるかを考えるのに、わたしはまきちゃんに頼って生きている。本当にこれでいいのだろうか。
わたしを見つけてくれて、わたしの咲いた姿を見て、喜んだり泣いてくれたり、人は忙しい生き物だ。中には感謝する動植物もいる。わたしのように。
全ての生き物が恵まれているわけじゃない。自然の中で平等なんてない。
それでも不平等だからこそ、生き延びる手段を模索する。
生きるために、自分の種を残そうとする。
わたしのように。
いや、わたしだけじゃない。
他の種も同じだ。
わたしだけが特別じゃない。
自然の中で、わたしが死んでも、他の『わたし』がいる。
わたし以外の『わたし』が、種を残してくれる。
でもまだ、わたしは生きいてる。
痛覚や味覚はないけれど、喜怒哀楽のあるわたしは生きている。
瀕死の状態で、生きている。
今は助けてほしいって、願うわたしがいる。
助けてほしい?
なんてわがままなのだろう。
自然の中にいるモノとして、とても身勝手な考え方なのだろうか。
それでも。
助ける、とまきちゃんは言った。
だからわたしは、信じて待つしかない。
たとえ蓄えていた養分を、すべて使い切ったとしても。
ここで朽ち果てても、待っていたい。
わたしは、祈る。
わがままに。自然に。
わたしが咲くことを祈ったように。
このまま、わたしという存在を、わたしは失いたくない。
種を残さずして、わたしは、死にたくない!
まきちゃん!
お店とお店の間から、荒い息遣いが聞こえてくる。
姿が見えないけれど、わたしは安堵した。
まきちゃんが走って、わたしを見つける。
「はあはあ、んっ、はああはああ。たんぽぽさん!」
わたしのそばまで来て、手に持った小さなバケツを置き、
両手で持ったスコップを、地面に突き立てる。
「助ける! 助けるから! だから死なないで!」
必死にわたしの周りの土を掘り返してはバケツに入れた。
「だから、だからお願い! カラシみたいに死なないで!」
手や足や顔に土がついてもお構いなく、掘り続ける。
特に顔は、涙で土が固まり泥だらけになっていた。
その後もまきちゃんは、言葉を発せないわたしに何度も呼びかけた。
『死なないで』と。
『助ける』と。
『お願い』を繰り返し、繰り返し。
わたしはそれだけで、十分に『ああ、生まれてきてよかった』と思えた。
最後にわたしを優しく掬い上げて、バケツの中に入れた。
「家っ、はあはあ、すぐそこだからっ! おばあちゃんがいるから!」
バケツの取っ手を持ち、走り出した。
わたしは、これ以上蓄えた栄養を消費させないためも、眠りについた。
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わたしが目を覚ましたのは、まきちゃんの家に着いた頃だった。
玄関ではなく庭に連れてこられ、縁側で日向ごっこしている老女と対面した。
まきちゃんはバケツに入ったわたしを腕を上げて、見せた。
「おばあちゃん! これ!」
おばあちゃんと呼ばれた人は、丸メガネをくいっと上げて、丸い背中を伸ばした。
「はいはい。まきちゃん、これかね」
「うん! そう! どうするの!」
「まずは鉢に植え替えないとね」
「はち? うちにハチなんていないよ!」
「はて、おばあちゃんが使ってた鉢あったろ? 小さい鉢だよ」
「ブンブン飛ぶハチなんていないって! この前父ちゃんが巣ごと取ったよ!」
「鉢は飛ばないよ。……ああ、壺って言えばわかるかい?」
「つぼ! わかる! おばあちゃんが使ってたつぼ!」
「そうそう、外にある壺さ。あれを取ってきてくれんかねぇ」
「わかった!」
わたしが入ったバケツを縁側に置いて、まきちゃんは再び走り始めた。
おばあちゃんは正座のまま、バケツを引き寄せて覗き込んだ。
「おやおや、これまた。なるほどねぇ、踏まれたのかい」
おばあちゃんはわたしの葉や茎、花の付け根を触り、色んな角度から診てくれた。
「けど死んじゃいないね。茎は折れても葉と花は繋がってる。すぐにでも治りそうさね。あんたは良い子に拾われたねぇ。あんたのために泣いてくれるんだから」
おばあちゃんはにっこりと笑いかけてくれた。
ええ、本当に。わたしはまきちゃんと出会えて、本当に良かった。
まきちゃんが戻ってきて小さな鉢をおばあちゃんに見せた。
「おばあちゃん! これ!」
「うんうん、そうそうそれそれ。それが鉢って言うんだよ」
「はち? 飛ばないよ?」
「飛ばない壺で、花とかを入れる器のことを、鉢って言うんだ」
「じゃあこのはちに入れたらたんぽぽさん治る?」
「治るさぁ。おばあちゃん足悪いからまきちゃんがするんだよ?」
「うん! どうすればいいの!? 急がなきゃ!」
「おばあちゃんが見たところ、見た目はひどいけど大丈夫だから安心しな」
「本当!」
「ああ、本当さ」
「嘘ついたらハリセンボンだかんね!」
「ああいいよ。孫のためなら針千本飲んでも痛くもなんともないさ」
「嘘! 今おばあちゃん嘘ついた! ハリセンボンいたいもん!」
「本当さ。でも今針千本飲んだら、おばあちゃん死んじゃって、たんぽぽさん助からないよ? どうするね?」
「え!? ハリセンボン飲んだらおばあちゃん死んじゃうの? そんなの嫌だよぉお! あたしまたカラシみたいになるの嫌だぁあ!」
「じゃあおばあちゃんの言うこと聞けるね?」
「聞いたら誰も死なない?」
「死なないさぁ。たんぽぽさんはまきちゃんが助けるんだ」
「助ける! どうするの!」
「その鉢に最初に小石、次に枯葉を順番に入れないとね」
「これに、小石と、枯葉……。次は!」
「まずはそこまでしてから持ってきな。次も教えるから」
「うん! わかった!」
「小石は近くの川で、枯葉は木下にある茶色のそれを砕いて入れなさい。できるだけ小さめにするんだよ。さ、お行き」
「うん! わかった!」
まきちゃんはおばあちゃんの言うことを聞いて、走り出した。
わたしとおばあちゃんの二人だけとなった。
「……あの子は真っ直ぐな性格で素直で良い子なんだ。ちょっと御転婆が過ぎるけどねぇ、そこがまたいいのさ。泣いたり喜んだり怒ったり、忙しいくらいが丁度良いんだ。自ら行動して失敗して学んで、成功して喜んで、時にどうしようもなかったら周りに頼っていかなくちゃいけない。生きるってのは大変だねぇ」
おばあちゃんはわたしを見ず、去ったまきちゃんの跡を遠い目で見ていた。
誰に語るでもなく、でもわたしに語りかけるように、続ける。
「先々月くらいまで、飼っていた柴犬のカラシって言う母犬がいてね。老衰だった。あの子が物心つく前からいたからあの子にとっては当たり前の存在だったろうねぇ。居なくなって初めて気づく悲しさってのはあの子が一番わかってる。もしかしたらあの子は、自分のせいで死なせたのではないかって責任を感じてるのかもねぇ」
バケツに入ったわたしを、おばあちゃんは手で、優しく触れた。
「お前さんを気に入ってここまでするんだ。なんとか生きなきゃ損だよ。生きるのは辛い。辛くても死ぬよりマシさ。おじいさんを失ってもあの子ために生きなきゃって思うと、辛くても生きようって思えてくる。不思議だよ人ってのはぁ」
……なんとなく、植物のわたしでもわかる気がする。
生きることは、大変だ。
それこそ、一生懸命に生きている。
もし昨日踏まれたなら、生きていなかったかもしれない。
もし今日栄養を蓄えなかったら、生きていなかったかもしれない。
でも出会わなければよかったとは、思わない。
もし出会わなければ辛い目に遭わなかったかもしれない。
けど出会わなければ嬉しいって思わなかった。
頼りにしなかった。
信じもしなかった。
自然の中で生きる上で『頼る』ことは、必要だと教えてくれた。
「こらワサビ! じゃーまっ! 今はたんぽぽさんが先!」
まきちゃんが再び庭からやってくると、足元に子犬がじゃれあっていた。
「はいおばあちゃん! こんな感じ?」
小さな鉢を持ってきたまきちゃんはおばあちゃんに見せた。
そこには、小さな鉢いっぱいに敷き詰められた枯葉が溢れ返っていた。
「あらあら、こんなにたっくさん。それじゃあたんぽぽさん入れられないよ」
「あ、そっか! お布団は多すぎても重いもんね!」
「そうだよぉ。暑すぎるから少し減らしておいで。あ、縁側でいいからね」
「はーい!」
まきちゃんは近くの縁側で少しずつ減らしてはおばあちゃんに見せ、減らしてはおばあちゃんに見せを繰り返した。その間、子犬はまきちゃんの足元でべったりと引っ付いて回る。まきちゃんが何をしているのか興味津々の様子だった。
「……うん、そんなもんでしょ」
「じゃあ次は!」
「針金持ってきな」
「はり、がね??」
「おばあちゃんのお裁縫道具箱にある銀色の小さな棒だよ」
「うん! わかった!」
小さな鉢を縁側に置いたまきちゃんは靴を脱いで縁側から上がろうとすると、
「こらこら! 行儀悪い! 靴は玄関に、玄関先で体の土埃を落としてきな」
やや大きな声でおばあちゃんがまきちゃんを叱った。
まきちゃんは素直に言うことを聞いて、玄関へと向かった。
子犬も一緒について行った。
「あの子犬が母犬カラシの子どもワサビだよ。好奇心旺盛なのはまきちゃんと変わりないねぇ。でもまぁ、まきちゃんがしっかり面倒見てるから大丈夫だがね」
そういうとおばあちゃんは微笑んだ。
「ワサビ! 入ったらダメ! 庭から回って! いい!」
家の中からまきちゃんの声が木霊すると、庭から再び子犬のワサビが現れ尻尾を振った。待ちきれないのか、庭を駆け回り始める。
ほどなくして、まきちゃんがおばあちゃんのお裁縫道具箱を持ってきて、「どれ!」と聞きながら傍に置いた。
するとおばあちゃんは再び丸メガネを持ち上げて、覗き込みながら片手で箱を開いた。無数の針と各色揃えた糸をチョイチョイ触り、一本の細い銀の棒を取り出した。
「まきちゃん、これが針金って言うんだ。柔らかい鉄さ」
「はりがね……何するの?」
「折れた茎に絡ませて支えるために使うのさ。でもおばあちゃんは目が悪くてねぇ」
「やる!」
「いいよやってごらん。先っちょ気を付けないと指に穴があくよ」
「ええ?! あくの!?」
「だから気を付けて少しずつ力を加えて曲げるのさ」
まきちゃんは恐る恐る針金をもらい、力を加えてみると、曲がった。
「おお。固いのに曲がる! ふしぎ!」
「そうだね。じゃあ、用意した小さな鉢にバケツの土をスコップで少ぉしずつたんぽぽさんの葉の部分まで入れて上げて、針金をたんぽぽさんの根を傷つけないように土に入れて上げるんだ。針金持っててあげるからやってみな」
おばあちゃんが再び針金を受け取り、まきちゃんは口の中で復唱する。
「土入れて、たんぽぽぉ、んではりがね……わかった!」
スコップを手にしたまきちゃんはおばあちゃんの手順通りに、わたしをバケツから鉢に入れ替えた。
「そうそう上手じょうずだねぇまきちゃん。最後に針金だね」
「うん! ……っ!」
褒められて上機嫌だったまきちゃんが針金を握りしめると、手を放した。
「~~~~~~~っぅぅっ」
まきちゃんは右親指を左手で押えると、床に血が落ちた。
まきちゃん!
「あらあらまぁまぁ。痛かったね? 洗面所の水で洗ってきな」
「~~~……ぅ、ん」
まきちゃんは肩をすぼめながら両手を押えて、とぼとぼと家の中に入っていった。
血のついた針金をおばあちゃんが拾い上げ、袖口で拭いた。
まきちゃんが戻ってくると、鉢にいるわたしをじっと見つめた。
「………………」
そのまま無言でわたしを見つめる。それをおばあちゃんは微笑みながら、話す。
「どうしたねまきちゃん。最後に針金で茎を固定したら終わるよ」
「………………」
「そんなに痛かったかい?」
「………………」
まきちゃんは無言のまま、おばあちゃんに頷いた。
するとおばあちゃんは、にっこりと笑顔になった。
「そうね。そうやね。痛かったよね。じゃあ辞めるかい?」
「………………」
まきちゃんは頷かなかった。
「たんぽぽさんはもっと痛かったかもねぇ。踏まれて助けてって願ったかもしれない。そこにまきちゃんが現れて、良かったぁって思ってるよきっと」
このおばあちゃんは、エスパーなのだろうか。
「命あるモノは人一人では生きていけん。だから手を差し伸べる誰かが必要なんだと、おばあちゃん思ってる。このたんぽぽさんにとっては、まきちゃんがそうなんじゃないだろうかねぇ。生きたいって、こんなんになりながらも思ってる」
本当にエスパーなんじゃないだろうか。
「誰かを助けたいって思うだけじゃ誰も救われないよ。今日のまきちゃんは泣きながらたんぽぽさんをどうにかしたいって思って頑張ってきたね。おばあちゃんはそんなまきちゃんを頑張ったねえらいねって言うよ。小さな命を助けたってすごいことだよ。胸を張っていい。だから、今日は、ここまでに、して」
「ゃる…………」
まきちゃんは眉間にシワを寄せて、おばあちゃんを見た。
「やる。最後、まで」
「……そうかい」
おばあちゃんはまきちゃんの声を受け止めて、膝を叩いた。
「こっちに来んしゃい」
まきちゃんはおばあちゃんの膝の上に乗り、小さな鉢を持ち上げた。
「おばあちゃんが鉢を持ってて上げるから、最後までやんなさいな」
「……ぅん」
まきちゃんは恐る恐る針金を手に取り、わたしの茎を持ち上げた。
おばあちゃんとまきちゃんの顔が一緒に並んで、見えた。
「そうそう、ゆっくり、ゆっくり土に入れて、根に当たったら別の場所から入れて、そう、いいよまきちゃん。次に棒に茎を絡ませて、一周でいいよ、そうそう」
わたしの茎を銀の棒に一回り絡ませて、棒の最後の先端をUの字に曲げて、花びらの裏側のふくらみに、乗せた。
「最後までできたねまきちゃん、えらいねぇえらいえらい」
「……うん!」
ようやくまきちゃんが笑顔になってくれた。わたしも楽な姿勢になれた。
本当に、ありがとうまきちゃん。
夕暮れ時、わたしを日の当たる軒先に置いてまきちゃんとおばあちゃんは家の中に入っていった。
その日に見た夜空は、あの狭い路地では見られなかった星空だった。
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わたしが咲いて、3日目の朝。今日も快晴。
ここ最近は日に恵まれている。この分だと明日には茎も治りそうだ。
「おはよぉーおばあちゃん」
縁側からでは見えないけれど、まきちゃんの声がした。
「はい、おはよー。たんぽぽさんにも挨拶してきなさい」
返事をするおばあちゃん。何かをしていて忙しそう。
「はーい」
トトトトっと、床を蹴る音が聞こえると、わたしの入った小さな鉢をまきちゃんが片手で持ち上げた。まきちゃんの顔がよく見えた。
まきちゃんはわたしに顔を近づけた。
鼻息がかかるくらいまでの至近距離。少々怖い。
「おはよ! たんぽぽさん!」
おはようまきちゃん。わたしは声を発せないけれど、まきちゃんは笑顔になった。
いつも見ているまきちゃんとは違い、羽っ返りのある髪の毛と着崩れた服からは肩とおなかが見えた。会って間もないというのに、まきちゃんらしさを感じた。
まきちゃんは何か閃いたのか、私を間近で見るのをやめて、おばあちゃんがいる方向へ頭を向けた。
「あ、そうだ! おばあちゃん! たんぽぽさんと一緒にそっちで食べていい?」
まきちゃんが嬉しい提案をしてくれた。
「ダメさね」
おばあちゃんは即答した。まきちゃんは納得いかなかった。
「えーなんでぇー?」
「たんぽぽさんは太陽の日を浴びて食事するからね。まきちゃんは太陽を浴びてもお腹いっぱいにはならないよね?」
「うん」
「でもたんぽぽさんは治すためにそこで太陽の日を浴び続けないといけん。だからそこからあんまり動かしちゃいかんの」
「……ん~」
まきちゃんはあまり納得していない様子。おばあちゃんはまきちゃんの膨れた頬を見てか、「ふふ」と少し笑った。
「ならまきちゃん。そこで食べるかい?」
「え?」
おばあちゃんの意外な提案に、まきちゃんは驚きながらも納得した表情になった。
「ここで食べていいの? 行儀悪くない?」
「今日だけだよ。昨日はまきちゃん頑張ったから今日だけならいいよ」
「えー今日だけぇ?」
「そう今日だけ。でも今日もまた頑張ったら明日もいいよ」
「え! 本当!」
「本当さ。嘘ついたらまきちゃんから針千本飲まされるからねぇ」
「ううん。ハリセンボンはもういいの。おばあちゃん死んじゃいやだし」
「そうかい。それじゃあ、まきちゃんも手伝っておくれ。お盆を出して」
「はーい!」
まきちゃんはすぐにおばあちゃんの所へ移動した。
まもなくして、慎重に歩くまきちゃんがお盆に朝ご飯を乗せてこっちに来た。
「おまたせーたんぽぽさん」
お盆を縁側に置き、まきちゃんは食べながら外を見た。
わたしも、太陽に向けて残った葉を広げ、栄養を取る。
最初まきちゃんは頬張りおいしそうに食べていたけれど、次第に噛む回数を減らして、庭を見ながら少し悲しそうな表情を浮かべる。
「あたしね。まだしょうたを許せないんだ……」
手を止めて、わたしに語りかける。
「たんぽぽさんならどう答える? 踏まれた本人として、しょうたに文句のひとつやふたつ……ううん、殴っても蹴り飛ばしても足りないくらいだと思うんだけど」
……わたしには殴れる手や蹴る足がないのだけれど。
でもどうだろうか。
確かに傷つけられたけれど、まきちゃんがこうして助けてくれた。
それ以上にしょうたくんも苦しんで涙を流したことが、心配だった。
人の関係についてわたしは無知だけれど、しょうたくんの怒りの矛先がわたしに向けられた理由を、まきちゃんにちゃんと伝えてほしいと思った。
けれどそれを伝える手段を、わたしは持ち合わせていない。
「たぶんあたし、今しょうたに会ったら殴ってる。ううん、学校に行ったら殴ってる。朝の朝礼前に殴るほど、あたしは怒りたい。たんぽぽさんにひどいことしたから」
……わたしのためにまきちゃんが怒ってくれるのは嬉しいけど、人はそれでいいのだろうか。続きがあるみたいで、「けど」と言ってしばらく考えた。
「……けどたんぽぽさんは二人のひみつだから、昨日みたいに悪者殴って先生に怒られて理由を聞かれるのはいやだ。聞かれてもしゃべったらあたしが悪者になる。しょうたを殴りたい、けど学校だと殴れない。でも学校でしょうたと会う……ぅぅ」
頭を抱えて呻り始めたまきちゃん。学校という所はそんなにも悩む場所なのだろうか。まきちゃんが通う学校に行ってみたい欲が出てきた。
結論が出ずにおばあちゃんから、
「まきちゃん、学校に行く時間だよ。寝間着脱いで着替えんとぉ」
お呼び出しがかかった。するとまきちゃんは
「はーい! あ! なんであたしまだパジャマなの!?」
今気づいたかのように急いでお盆をおばあちゃんの所に運んだ。
「なんねまきちゃん、まだ食べ終わってないじゃない」
「もう食べる暇なくなった! しょうたのせいで!」
家中に響くまきちゃんの声に、おばあちゃんは白い袋から何かを取り出した。
「はいはい人のせいにしないよーまきちゃん」
再びまきちゃんが現れると、白い箱から飲み物を取り出し、一気に飲んだ。
「……んぐっ、だってしょうたのせいなんだ…もぐぅっ!」
最後まで言い終わらないうちにおばあちゃんは四角い食べ物でまきちゃんの口を閉ざした。
「柔らかくて甘い食パン。走りながらでも食べなきゃいかんよ。後ワサビの餌ぁ」
「わかった! おばあちゃん行ってきまーす!」
玄関先の引き戸の音がここまで響いた。
「わっ! ワサビ! 今から学校! ついて来ちゃめっ!」
そのまま駆け出していくまきちゃんの足音を遠くになるまで聞いた。
色んなことが新鮮で、わたしはここにいるだけで、幸せだ。
「わん!」
玄関から庭に駆けてくる子犬、ワサビが飛び回るチョウを追いかけていた。
「わぉーんわん! っへっへっへ、わん!」
何度もジャンプしながらチョウを捕まえようとした。
見ているこっちまで楽しそうだと思えるほど、チョウに夢中だった。
「ワサビーこっちにおいで。朝ごはんだぁ」
おばあちゃんは縁側からわたしの隣に座り、庭にワサビの朝ご飯を置いた。
するとワサビはチョウを追いかけるのやめて、一目散に朝ご飯にありついた。
「今朝のまきちゃんの残りだけど、おいしいかい?」
「わわん!」
「そうけそうけ」
おばあちゃんは嬉しそうに笑顔で頷いた。
ワサビがご飯を食べておばあちゃんが笑う。それだけでまきちゃんといたときのようにわたしは暖かい気持ちになれた。
その後、おばあちゃんは庭の手入れを少しずつゆっくりと始めた。足が悪いと言っていた通り、しゃがむ時や立ち上がる時に慎重になる。目も枝を切っては丸メガネを押さえたりした。おばあちゃんは自分のペースで庭を整えていった。
たまに縁側にあるわたしを見ては作業に戻った。
わたしのことをおばあちゃんなりに気遣ってくれているようだった。
そんなおばあちゃんの後ろ姿を眺めながら、日の傾きに応じて葉を動かした。
夕方頃になると、折れた茎もまだ柔らかいものの治りつつあった。まきちゃんがしてくれた針金のおかげで2、3日は短縮できた。
「わん!」
わわっ、びっくりした。
いつの間にか家の中にいたワサビがわたしを嗅ぎに来た。
黒い鼻先がわたしのあっちこっちを嗅ぎ回り、たまに
「わん!」
と大きな声で鳴く。鳴くと声の振動が身に染みた。
まきちゃんやおばあちゃんがわたしを見ていたから、ワサビも気になったみたいだ。
「こらワサビ! 土足で上がるなって言ったろ!」
剪定鋏を持ったおばあちゃんが縁側に来て家の中にいるワサビを叱った。
するとワサビは太陽で鈍く光らせるその鋏が怖かったのか、おばあちゃんの横をすり抜け再び庭へと駆け回り始めた。
「たっだいまー!」
ちょうどまきちゃんの声が玄関から聞こえた。
するとワサビも庭から玄関へと走って行った。
ドタドタと床の振動とともに、家の中からまきちゃんが現れた。
「ただいまたんぽぽさん!」
おかえりまきちゃん。
昨日の泣き顔とは違う、明るい表情でわたしに微笑みかけてくれた。
家を一周して来たのか、ワサビは走り去った方向とは別の方向から現れて縁側に前足を引っ掛けて「わん!」と鳴いた。
「ワサビもただいま! 荷物置いてこなくちゃ」
そういうとまきちゃんは家の中にまた戻っていった。
ワサビは尻尾を振るのをやめて、高い声で「くぅ~……」と鳴いた。
まきちゃんに構ってほしくてたまらないといった様子だった。
ふと、わたしとワサビが目が合った。
いやわたしの場合は、芽と目が合ったのだ。
ワサビは、どんな風にわたしを見ているのだろうか。
と、前足を一旦下げて庭へと戻った。
と思いきや、再び前足で縁側を掴みわたしを覗き込んでは地面に戻るという流れを何度か繰り返した。
何をしているのだろうと思ったのも束の間、視界が反転した。
ガシャン!
わたしの入った鉢が縁側から落ちて、壊れる音が木霊した。
成す術もなく、わたしの身体は踏み石の上で横たわった。
ああ、なるほど。わたしは二つのことを理解した。
ひとつは、ワサビの不可解な行動はわたしの入った鉢を落とすための準備運動だったということ。もしかしたらワサビ本人(?)は準備運動ではなく位置把握するためのものだったかもしれない。前足で鉢の下を弾いたら、家に上がらずにわたしを落とせるというもの。
もうひとつは、わたしが遊んでくれないまきちゃんを奪ったということ。昨日今日でまきちゃんとおばあちゃんがわたしばかり見ていたから、遊んでくれる人がいなかったんだ。まきちゃんのそばにいたいという気持ちは、よくわかる。だからちょっかいのつもりでわたしに手をかけたんだと思う。
けれど結果は、大事になってしまった。
「こらワサビ! また鉢を壊しおったな!」
温厚なおばあちゃんが剪定鋏を持ってワサビを追いかけようとした。
それに気づいたワサビは嬉しそうに尻尾を振りながら、おばあちゃんとの距離を置いては振り返った。しかしおばあちゃんは追いかける足がなく、怒鳴るだけだった。
「いま、すごい音したけど……」
着替え終わったまきちゃんがわたしがいた場所から落ちた場所へと目を動かして
「い、いやああああああああ!」
悲鳴を上げながら、裸足で庭に下りてわたしを掬った。
「まきちゃん大丈夫、大丈夫だから」
すかさずおばあちゃんがまきちゃんの肩を持ってあやした。
「……許さなぃ」
まきちゃんは低い声で目に涙を溜めながら、わたしをそっと下ろした。
次の瞬間。
おばあちゃんの手を振りほどき、裸足でワサビ目掛けて走り出した。
ワサビはこれには驚き、急いで振り返り逃げ出した。
けれど一歩遅かったのか、まきちゃんがワサビを拾い上げる方が早かった。
まきちゃんは両手でワサビの脇の下を掴み、息を吸った。
「ごめんなさいは!!!」
距離があるとはいえ、まきちゃんの怒声がここまで聞こえた。
「ねぇえ!!! ワサビ!!! ごめんなさいは!!!」
目と鼻の先で怒鳴られたことはないけれど、ワサビには十分すぎるほど伝わった。
まきちゃんの声と顔を見たワサビは、何も鳴かず、震えていた。
「ねぇえ!!! 聞いてるワサビ!!! ごめんなさいは!!!」
「きゃっぅぅ~~……」
ワサビは耳を内側にたたみ、弱々しい声で鳴いた。
「だめ!!! 聞こえない!!! ごめんなさいは!!!」
けれどまきちゃんは止めなかった。
もう、大丈夫だよまきちゃん。わたしは、大丈夫だから。
「ごめんなさいは!!!」
まきちゃんはワサビに向かって、涙を流しながら続けた。
「まきちゃん、もうワサビも十分に反省したよ」
おばあちゃんが再びまきちゃんの肩を持ち、あやした。
それでもまきちゃんは大きく首を横に振った。
「だめ! 今回ばかりは許さない!! 絶対ごめんなさいって言うまでだめ!」
「ワサビを見てごらん? こんなに震えて丸くなって。もう許してあげよう、ね」
「だめ! だめなの! しょうただって許さなかった! ごめんなさいって言わなかったし、言えなかった! だからだめなの!」
まきちゃん……。朝にわたしに話したことを思い出した。
『あたしね。まだしょうたを許せないんだ……』
まきちゃんは家から学校という場所までにたくさん考えたんだと思う。
『たぶんあたし、今しょうたに会ったら殴ってる。
ううん、学校に行ったら殴ってる』
どうしたらしょうたくんとまた遊べるのかも含めて、仲直りしたいと。
でも昨日はひどいことを言ったと、思ってる。
『しょうたなんか、嫌い! 大っ嫌い!』
どんな顔で学校で会ったのだろうか。口も聞かなかったのだろうか。
『これ、あたしとしょうたのひみつにしない?』
学校では話せない二人だけの秘密が、二人に溝を作った。
ただのたんぽぽのわたしでは、二人を見ているだけしかできない。
誰も望まない結末しか、わたしには見えない。
バチン!
この張り詰めた場を、一振りの平手打ちがまきちゃんの頬を叩いた。
叩かれたまきちゃんは一瞬何のことだかわからない表情で、ワサビを手放した。
「よくお聞き!!」
おばあちゃんが、怒鳴った。
あんなに優しいおばあちゃんが、まきちゃんの肩を力強く、握って離さない。
「学校で何があったか知らないけどね。犬っころに八つ当たりするなんざ、人間のすることじゃないよ!!」
「っ!」
泣き顔を歪めたまきちゃんは、何かに気がついた。
「人は強い! どんな生き物だって簡単に殺せてしまう! けどね、忘れちゃいけないこともたぁ~っくさん抱えて生きてんだ! ワサビは確かに悪いことをした。けどまきちゃんも今日ワサビの餌忘れて学校行っちまっただろ! ワサビだってお腹空くんだ! だから玄関先でまきちゃんが来るのを待っていたんだろ! それを忘れて誰が世話ぁするんだい! おばあちゃんかえ? 違うだろ! 往生したカラシのときから犬のお世話してきたんだろ! 面倒を見るって言った言いだしっぺが何を偉そうに説教してんだい! たんぽぽさんに気を取られてたなんて言い訳するんじゃないよ! 言い訳していいやつはちゃんと世話ぁできた人間だけだ! 餌ありつけなかったってワサビが餓死したらどう責任取るつもりだい! ええ? 言ってみな!」
「わぁあああああああっ、ごめぇんざぁああい! ああああぁぁぁんっ!」
号泣するまきちゃんをおばあちゃんはしっかりと肩を寄せて抱き合った。
言われた本人(?)のワサビも、まきちゃんの足に擦り寄った。
なんだかすごい話の切り込み方だなっと感じる一方で、おばあちゃんは怒ると怖いんだなということがよく伝わってきた。
二人は縁側に腰を落ち着かせた。おばあちゃんはまきちゃんの頭を撫でる。
「ごめんねぇいきなり怒鳴ったなんかしてぇ」
さっきまでの怒鳴ったおばあちゃんはどこへやら、元の優しいおばあちゃんに戻った。
「でもああでもせんとまきちゃん、ワサビにもっとひどいことするんじゃないかーって思ってねぇ。朝も言ったよね? 人のせいにしないって。人じゃなくても、自分が上手くいかなかったときにモノや動物に怒りをぶつけて解消しても、なぁーんも解決せんから、おばあちゃんが止めたんよ。どうね?」
おばあちゃんは夕焼けを眺めながら、撫でる手を止めなかった。
「……っひく、……ぅん。ワサ、ビに、……悪い、こぉど、しぃーいだっ」
まきちゃんはべそ掻きながら、息を荒くして何度も頷いた。
まきちゃんはわかっていたんだ。
しょうたくんへの苛立ちを子犬のワサビに向けていたことを。
「なんかあった? なんもかんも吐き出しんしゃいな。どうしたんだねぇ?」
まきちゃんは、しょうたくんとのことを話した。
たんぽぽであるわたしを見つけて、二人だけの秘密にして、しょうたくんがわたしを踏んだことを。
二人だけの秘密については、おばあちゃんは秘密にする相手に含まれないとまきちゃんが判断したのだろう。胸のうちに抱えるには少し荷が重たかったんだ。
「二人だけのひみつも、誰にも言わんでねおばあちゃん……」
話していくうちに正気に戻っていくまきちゃんの言葉に、
「そうだねぇ。針千本飲まなくていいって言うなら誰かに話すかもねぇ」
意地悪な返事をするおばあちゃん。これには動揺したまきちゃんが、
「それはだめ! ハリセンボン飲んでも守って!」
と真剣に頼み込んだ。これにはおばあちゃんは、笑わずにはいられなかった。
「言わないよ。まきちゃんの頼みだもの。……はて、今まで何を聞いたかねぇ? もう一度一から説明してくれんかねぇ。この歳になるとぉ、物覚えが悪くてかなわん」
「ええーー!? ……じゃあもう言わない! ……ふふふ」
まきちゃんもようやく笑顔を取り戻せたみたいで、泣き顔の笑顔となった。
さて、そろそろわたしのことも、気にしてくれないかな……。
根についた土も乾いてしまい、洒落にならない。このまま干乾びかねない。
「あ! たんぽぽさん!」
ようやく気づいたまきちゃんはわたしを見て、すぐにおばあちゃんを見た。
「大丈夫だって。たんぽぽさんはそこらへんの育てた草花と違って生命力がずば抜けとるからね。また鉢植えをすれば元気になろうって」
「そうなの!?」
そうなの!? これにはわたし自身も驚いた。
「草むしりして、二、三日そのままにしてても生きてるくらいだから」
「さすがにそれは可愛そう……」
わたしからも流石に申したいくらい切実な問題……。
おばあちゃんは重い腰を上げて、玄関へと足を向かわせた。
「さて、じゃあまきちゃん。昨日教えた通りにやればできるからね。また分かんないことがあれば聞きに来なさい。おばあちゃんはお夕飯の準備しないとだから」
後ろ手に振って、両手を腰に当てて去っていく。
「うん! わかった!」
まきちゃんは元気よく返事をすると、別の小さな鉢を見つけて川へ向かった。
その後もテキパキと昨日教えてもらった順番通りに鉢を作り、わたしを植え直して、針金で固定した。針金はすでに絡まった状態のため、地面に刺すだけだった。
「できた!」
まきちゃんの手が土だらけになりながらも、満足げに鉢を持った。
もう泣き止み目元も落ちついた表情に変わっていた。
「おばあちゃんできた!」
縁側から家にいるおばあちゃんの顔だけが見えた。
「おお、もうできたの? すごいねぇまきちゃんは」
「えへへ~」
まきちゃんは人差し指で鼻をこすると、鼻下と鼻頭に土がついた。
「ご、ごめん! …………くださぃっ」
玄関に聞き知った男の子の声が庭まで響いた。けれど少し弱々しさを感じた。
「はいはい、どちら様でー」
おばあちゃんが台所から離れる。
「……しょぅた」
わたしの入った小さな鉢を持つまきちゃんは足早に外周して、玄関へ向かった。
玄関先には、帽子を目深く被る男の子がおばあちゃんと話していた。
「まきちゃんに用事ね。……まきちゃん、お客さんだよ」
帽子の男の子はおばあちゃんが声をかけた方向へ体ごと向けた。
「………………ぁっ……」
男の子は体を強張らせ、手には拳を作り震わせていた。けれど、その拳は地面に向けたまま、誰に向かわせるものでもないことがわかった。振り絞った声は、まきちゃんに向けられたものの、言葉にならなかった。
まきちゃんも、どう話しかけたらいいのかわからないみたいで、手の振動が鉢に伝わり、わたしに教えてくれる。
「……玄関で立ち話もなんだし、座っていかんね」
「………………」
おばあちゃんは男の子の腕をとり引き入れた。まきちゃんもその後をついていくようにして、玄関の中の段差に二人とも腰を下ろした。おばあちゃんは先に家の中に入り、飲み物を持ってきてくれた。
「今日の日差しは暑かったろ? これ麦茶、二人で飲みんしゃい」
そういうとおばあちゃんは再び家の中に入ろうとした。
「おばあちゃん!」
まきちゃんはおばあちゃんを呼び止めた。おばあちゃんは振り返り、
「なんだねぇまきちゃん」
丸メガネを押し上げた。光って瞳は見えなかった。その様は少し怖いと感じたのか、まきちゃんの声が少し弱まる。
「その……いて、くれないの?」
まきちゃんは小さな鉢を抱きしめ、上目使いでおばあちゃんを見た。
するとおばあちゃんは、少し口角を上げた。
「おばあちゃん、お夕飯作らないとだから、台所に戻るよ」
おばあちゃんの声は男の子がいるからか、心なしかいつもより優しい口調だった。
「それにまきちゃん。おばあちゃんがいたらしょうたくんが話し辛くなるじゃないか。ここは一対一で話しなさいな」
おばあちゃんの言葉に納得したのか、まきちゃんは帽子の男の子、しょうたくんに目線を送った。しょうたくんは帽子の境目からまきちゃんを見ては、目線を下にそらした。
「そうさね。ひとつふたつだけ、助言するなら」
その様子を見たおばあちゃんは、少しだけ上を向いてから二人に声をかける。
「しょうたくんは帽子を取んな。玄関先とはいえここは家の中さね。人様の家に入るときは帽子を取るのが礼儀ってもんさ。まきちゃんは鉢を二人の間に置きな。物を持ったまま話すと注意がそっちに移りがちだからね。お互いちゃんと話すなら、何も持たず面と向き合って話しな。なんでも口にしないと伝わらんよ。後麦茶も飲みな」
ふたつどころか、みっつよっつ言い終えると、おばあちゃんは台所へ向かった。
二人はおばあちゃんの後ろ姿を見終えると、おばあちゃんの言う通り、しょうたくんは帽子を取り、まきちゃんは二人の間にわたしを置いた。その後、用意されたふたつのコップを手に取り、二人とも、よほど喉が渇いたのか、一気に干した。
「………………」
「………………」
二人とも俯きながら、わたしに焦点を合わせた。
しばらく続く無言から「ぁ、あの、さ……」としょうたくんが話し始める。
「……ご、……ん……」
唇をあまり動かしていないせいか、口の中で響いた言葉が、吐き出されない。
「……え?」
まきちゃんは聞き逃さないように耳を傾けたけれど、しょうたくんの言葉が聞き取れなかった。弱々しく「なんて?」と聞き返した。
しょうたくんは目をぎゅっと閉じ、かっと見開いて、まきちゃんを見た。
「ごめん! 悪かった! 許してくれ!」
大きい声とはいかないものの、一息で早口に言った。
するとまきちゃんは
「だめ、許さない」
と一蹴した。これに驚いたのは、しょうたくんだった。
「……なんで?」
「あたしにひどいことしてないから、謝られても意味ないもん」
「???」
しょうたくんは、まきちゃんの言っている意味がわからなかったのか、眉を寄せた。
「じゃあ許して、もらえたのか??」
「違う、許さないよ」
「どういうことだよ」
「だからあたしに謝ってどうするのってこと」
「どうするって……前みたいに、遊んだり」
「ちがう。そうじゃなくって、別にごめんなさいする人がいるんじゃないのってこと」
「え? ごめんなさい、する人?? ……クラスの連中は許さないぞ?」
「人、というか……ここにいる『誰か』、だよ」
「……『誰か』? おれとまきとおばあちゃん……」
「まだ、いるでしょ?」
「……!」
しょうたくんは、気がついた。
「『たんぽぽ』……」
「そう、『たんぽぽ』さん」
まきちゃんはしょうたくんに『わたし』に謝って欲しかったんだ。
「あたしね。しょうたがなんでたんぽぽさんを踏んだのか、ほとんどわからないの。でもしょうたはむやみに誰かを傷つけないってよく知ってるよ。小さいときから一緒だったんだもん。あたしはいっぱい考えてもアホだから、言わないとわかんないの。言ってもわかんないこともあるけど、分かりたいって思ってる」
「まき……」
「だから、教えてよしょうた。なんで二人のひみつのたんぽぽさんを傷つけたの?」
まきちゃんも、しょうたくんを見た。その目には涙で潤んでいた。
しょうたくんは、拳を胸において苦い顔をした。
それでも意を決した瞳には、覚悟を感じた。
「おれがバカだったんだ。あん時、クラスの連中も先生も誰もおれの言うこと聞いてくれないから、だからかっとなった」
「かぁーっとなったから、たんぽぽさんを踏んだの?」
「……うん。たんぽぽの、せいにしたかったんだ」
「たんぽぽさんのせい?」
「そう。そうすれば、腹が治まるかもって……でもちがった」
「治まらなかったの?」
「うん。原因をたんぽぽにすればおれもまきも納得するって勝手に思ってた。でもまきが来て、まきを見たら、ちがった。地面に足がつかないくらいすーって血の気が引いた。変な気持だった。たんぽぽのせいにすればみんな救われるって思う気持ちと踏んだたんぽぽを見たらまきが悲しむって気持ちがごちゃ混ぜになって、こうふんしてんだか、冷や汗だかわけわかんなくなって、すげー、……怖かった。足が、動かなくなった」
しょうたくんは、肩を小さくして前屈みになった。
「かっとなった時はわけわかんなくなる。お前と話したことも覚えてない。とにかくあん時のたんぽぽをお前にだけは見られたくなかった。けど、まきは正しかった。責められて初めて気づいた。でもそん時は納得したくなかった。おれが良いことをしたと思っていたから。なんで分かんないんだよって、走って、にげた」
「今は、ちがうの?」
「うん、今はちげー。すげー反省した。今日、一日学校でお前と口を利かなかっただけなのに、すげー苦しかった。か、母ちゃんが明日になったらもっと苦しくなるって言ったから、昨日眠れなかったし、今日もって思うと、怖くなった」
しょうたくんも、しょうたくんのお母さんにこのことを打ち明けたのかとわたしは思った。それが悪いことじゃなく、まきちゃんがおばあちゃんに話したように、誰かに話すことでまた自ら考えることになるのだなっと、植物のわたしは学んだ。
まきちゃんは、少し上を向いてから再びしょうたくんを見た。
「怖いからごめんなさいってこと?」
まきちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「たんぽぽさんを踏んで痛い思いをさせたからごめんなさいじゃなくて、自分が怖かったからごめんなさいするの?」
「ちが……わない。それも、ある。3つあるんだ。謝らないといけないことが」
「3つもあるの!? 1つだけでよかったのに」
これにはまきちゃんは素直に驚いた。しょうたくんは頷いて、話を続ける。
「1つはたんぽぽに、2つ目はまきに、3つ目はおれをだけど……」
しょうたくんは親指から順番に中指まで折り曲げた。
まきちゃんも頷いて、しょうたくんの話を、待った。
「……『たんぽぽを踏んでしまってごめん!』、てこと」
しょうたくんは立って、わたしに向かって深く頭を下げた。
「……うん」
まきちゃんはその姿を見て、誠意を感じたのか、首を縦に振った。
「…『まきを悲しませてしまって悪かった!』、てこと」
しょうたくんは頭を上げ直立のまま、まきちゃんに体を向けて再び頭を下げた。
「…うん」
まきちゃんはその姿を見て、さっきよりも少しだけ嬉しそうに口角を上げた。
しょうたくんは片膝を地につけ両手を組み合わせて天井に突き出した。
「『たんぽぽ様ほとけ様、このバカ者をどうかお許して下さい!』、てこと」
そのまま体勢から背中を反らせて、しょうたくんの顔が伸ばした足につきそうだった。
「うん……っぷ」
最後のしょうたくんの身振りが、まきちゃんを笑わせた。
「あ、今笑ったな? こっちは真剣なんだ……ぷぷ」
そういうしょうたくんは笑いを堪えながら、再び変な格好を見せつけた。
「笑ってないし。……ただの、ただの普通の顔だし」
そういうまきちゃんは、しょうたくんから目を反らした。
「本当か?」
しょうたくんはまきちゃんの視界に入ろうと変な顔を近づけるが、
「本当だよ」
まきちゃんは目線を反らし続けた。
「うそついたら、どうなるか知ってるか?」
「知らない知らない」
「じゃあ、教えてやるよ」
しょうたくんはまきちゃんの頬に、唇を当てて、すぐに離れた。
「……え? いま、なにしたのしょうた?」
しょうたくんの唇が当たった頬に手を当て、目を丸くするまきちゃん。
しょうたくんはまきちゃんに背を向けて、耳まで真っ赤になった。
「し、知らねぇのかよ。うそついたら針千本の代わりに、頬にちゅーするんだ」
「ええ!? 知らない知らない!」
本当に知らないまきちゃんは、何故か感心した。『鉢』という言葉を初めて知った時のように、嬉しい表情を浮かべた。
「か、母ちゃんがいつもそうしてくるから、あ、当たり前かと思ったんだけど」
「しょうたのおばちゃんすごい! これでおばあちゃん死ななくて済む!」
「え? お前のおばあちゃんうそついて針千本飲むとこだったの?」
「まだうそついてなかったけど、飲まずにちゅーすればいいなんて知らなかったから! しょうたのおばちゃんえらい!」
「そ、そうか? だてに神社のつまやってないって言ってたけど、そうか。うちの母ちゃんえらい……のか?」
まきちゃんは笑顔になり、しょうたくんも後ろ姿だけれども、笑顔になれたように思えた。わたしとしては、さっきまでの話し辛そうな雰囲気が一転、わたしを見つけた陽気な二人の雰囲気に戻ってくれて、とても嬉しくなってきた。
しょうたくんは振り返り、改めてまきちゃんを見た。
「許して、くれるか?」
「じゃあ、許す! えへへ~」
緊張が解れたのか、しょうたくんは張っていた肩の力を抜いた。
「よかったぁ。どうなるかと思ったから」
しょうたくんは再び座り、床に大の字になった。
一方、まきちゃんは少しだけ俯いて、一人で頷いた。
「でもまだちょっとだけ許さないかも」
その言葉にしょうたくんは起き上がり、まきちゃんを見た。
「ええ!? さっき許すって!」
「ううん。たんぽぽさんも許してくれるって思う。そうじゃなくて、あたしがしょうたに許してほしいって思ったの。ひどいこと、したし、言ったから」
「え? お前、何か悪いこと言ったか? おれは覚えてない」
「じゃあ、教えてあげる。耳、かして?」
しょうたくんは耳を近づけた。まきちゃんは両手を口元に当てた。
かと思いきや、両手を外して、しょうたくんの頬に唇を当てた。
「なぅ!?」
しょうたくんは奇声と共に、再び身体を固まらせた。
まきちゃんの口から「あたし、うそついたから」と囁いた。
「しょうたのこと、嫌いじゃないから」
『しょうたなんか、嫌い! 大っ嫌い!』
わたしは、わたしが踏まれた日の二人が別れた際に聞いたまきちゃんの言葉を思い出した。口ではあんなことを言っていたけれど、本当に嫌いになったわけではないと言いたかったんだ。
「……っっっっはっずっ!」
しょうたくんはまきちゃんの唇が当たった箇所を手で押さえ、短くそう言った。
「やっぱなんか! ちげー! 母ちゃんにやられたときとちげー! なんでだ!」
しょうたくんの顔が真っ赤に染まり、困った表情を浮かべた。
けれどまきちゃんは笑って済ませた。
「えー? なんで? 先にしょうたからやってきたんじゃん」
「そうだけど! そうなんだけど……なんかこう、ちげーってわからないか!」
「? 同じだよ、ちゅーはちゅーだよ」
「いやっ、そうだけどそうなんだけどそうじゃないっていうかさぁ!」
しどろもどろとするしょうたくんに、まきちゃんはさっきよりも明らかに笑顔になった。二人のわだかまりは、解決したみたいで良かった。
「しょうた、変なの! あははは!」
まきちゃんの笑い声を聞いてホッとしたのか、しょうたくんも一緒になって笑い出した。そこへ、この声を聞いたワサビが、玄関先で立ち往生していた。
「ワサビ! そうだ、あたしワサビにも謝らなきゃ!」
まきちゃんは思い出したかのように立ち上がり、玄関の戸を開けると、怯えたワサビが前足で耳を塞ぎ丸くなっていた。そんなワサビをまきちゃんが拾い上げた。
「ごめんねワサビ。八つ当たりしちゃってごめんなさい。怖かったねぇ」
ワサビを抱きしめたまま、背中を優しく摩ったり、おなかを撫でたりする。
「あたしね、今のしょうたの話を聞いて思ったんだ。さっき、あたしもしょうたと同じことをしていたんだって」
「え? 同じこと?」
「うん。ワサビにね、怒鳴ったんだ。しょうたのこと、学校のこと、そしてたんぽぽさんのこと。悪いことが重なったみたいに思っちゃって、でも我慢しなきゃって思って頑張ったんだけど、耐えれなくなっちゃって、抑え切れなくなっちゃって。はちが壊れる音とおばあちゃんの声がして、かーってなってワサビに、ぶつけちゃったんだ」
「………………」
「あたし、悪い子だよ。おばあちゃんに怒られないとわかんなかったんだもん。あたしは正しいことしてるって言いたかった。けど正しくなんかなかった。悪いことしないと悪いってことだって気付かなかった。すぐにワサビにごめんなさいができなかった」
まきちゃんは何度も「ごめんね」をワサビに向けて優しく語り続けた。
すると、ワサビもそれが伝わったのか、再び「わん!」と元気よく鳴き始め、尻尾を振った。まるでまきちゃんのことを許してくれたように。
「……はは、まきってさ、やっぱすげー」
しょうたくんは床に手を広げて寝そべった。
「すぐに気付いてすぐにごめんって言えて。おれなんか素直に言えないから笑わせてごまかして、なあなあで許したり許されたりして。さっきだってああでもしないとおれの中で納得しないっつーか、許してちょんまげっつーか」
「しょうたらしい、あははは」
まきちゃんはそういうと、微笑んだ。
それからわたしを縁側に置き、二人とワサビは庭で夕暮れになるまで遊んだ。
その日の夜、再びわたしは蕾となった。
お別れの日が、近い。
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わたしが蕾になって1日目の朝。少しだけ雲がかかった青空。
「おはよーたんぽぽさん……」
おはようまきちゃん。
「なんか、元気ないみたい。大丈夫?」
まきちゃんはわたしの様子を見て不安そうな表情を浮かべた。
わたしは元気だけれど、それを伝える口を持たない。
縁側傍にあるわたしを見たまきちゃんは家の中に入っていった。
「おばあちゃん、たんぽぽさん元気ないよ?」
ここからでは姿は見れないけれど、おばあちゃんの服を引っ張るまきちゃんの姿は目に浮かぶ。芽は閉じているのだけれど。
「おやおや、また蕾になったのかい?」
「つぼみ?」
「たんぽぽさんは今元気がないんじゃないんだ。準備をしているのさ」
さすがはおばあちゃん、物知りでわたしの気持ちを代弁してくれる。
「じゅんび? どんなじゅんび?」
「さぁ、どんな準備だろうねぇ。それは次に開いたときのお楽しみさね」
おばあちゃんは「ふっふっふ」と意地悪そうな声がした。
まきちゃんはそんなおばあちゃんを見てか、
「えー? 知ってるなら教えてよぉー」
とせがむ。それでもおばあちゃんは教える様子はなかった。
「百聞は一見に知らず。まきちゃんの目でたんぽぽさんをよぉく見てあげることだねぇ」
「見たらわかる?」
「わかるとも。まきちゃんも一度や二度くらい他のたんぽぽさんを見たことがあると思うよ。そしてそれで遊んだこともあるさね」
「えー!? うそー!」
「本当さ。これくらいで針千本は飲めないけど、去年くらいの今頃にあったと思うよ」
「もういいのハリセンボン飲まなくて。代わりにちゅーするから」
「? まぁいいさ。ささ、冷めない内に朝ご飯おあがりな」
「うん! またたんぽぽさんのところで食べていい?」
「昨日はしょうたくんと仲直りできたのかい?」
「うん、仲直りできた!」
「そうね。じゃあいいことしたご褒美に今日だけ目を瞑って上げるよ。お盆出しな」
「わーい! おばあちゃんありがとう!」
会話だけを聞くとまきちゃんは嬉しそうだった。
しばらくすると、昨日と同じように、わたしとまきちゃんは一緒に食事をした。
会話もできないけれど、居心地のいい一時を過ごした。
まきちゃんが笑顔なら、わたしも嬉しかった。
食事を終えたまきちゃんは再び玄関へと向かい、おばあちゃんに話し掛ける。
「じゃあ、行ってくるね! ワサビのご飯も忘れないよ!」
「はい。気をつけて行ってらっしゃいな」
外で「わんわん!」とワサビの鳴き声も聞こえ、「ほらご飯だよぉ。じゃ行ってくるね」とまきちゃんの元気な声がここまで聞こえた。
もう、安心だ。
わたしが不安に感じた所でまきちゃんには伝える口は持たない。
話すことの出来ないわたしは、ここまでしてくれたまきちゃんに、期待に応えたい。
ううん。応えなくちゃいけない。そんな使命感に近い感情が、わたしにも出来た。
「子供の成長は、早いもんだねぇ」
おばあちゃんはわたしの横に腰掛けて、手持ちのお茶を啜った。
「悩んだかと思いきやすぐ泣き出して自ら解決して、前に一歩ずつ進んでるのが、あの子からよぉくわかる。息子も良い嫁もらい孫まで世話できて、幸せじゃなぁ」
おばあちゃんは庭を見回しながら、話し続ける。
「ま、あの子が二十歳になるまであの世には行けんねぇ、ねぇじいさん。あんたが残したこの庭木々もいつかあの子に伝えてやらにゃいかんねぇ。これが使命ってやつかのぉ」
庭を見回し終えると、わたしを見た。
「じゃからお前さんも、まきちゃんの気持ちに応えないかんよ。立派に種飛ばさなぁ」
おばあちゃん……。
「お前さんも『まきちゃんの気持ちに応えなくちゃ』って思うとろうだろうに」
やっぱりおばあちゃんはエスパーだ。
それからわたしは蕾になってから眠たくなることが多くなった。
「おはよーたんぽぽさん!」
おはよーまきちゃん……。
いつわたしが寝たのかもわからなくなってしまうほど、眠りが深く……。
「おはっよーたんぽぽさん!」
おはよーまきちゃ………。
日の光を浴びながら、たまにやってくる雨の湿り気を感じながら……。
「おはようさん太陽! たんぽぽさん!」
おはよーまきぃ…………。
今が何日目か、わからないくらいに寝てしまう……。
「おはよう、たんぽぽさ…」
おはよー…………………。
まきちゃんの声も、だんだん遠くなってきた……。
「おはょぅ、たん…………」
おは………………………。
わたしはこのまま深い深い眠りに、ついた。
「………っ………………!」
……………………………。
まきちゃんの声も聞こえなくなり、わたしも返事が出来なくなった。
太陽の日と土の湿り気から栄養を作り出し、茎を通じて、蕾に蓄積する。
それを毎日繰り返し、また目が覚める頃に向けて、準備を整える。
何日かかるのか、何週間かかるのか、わたしにもわからない。
まきちゃんに出会えたことでわたしは生きやすい環境で育つことができた。
とても感謝している。恵まれすぎた。まきちゃんに恩返しがしたいほどに。
その恩返しにわたしはまきちゃんやおばあちゃんの気持ちに応えたい。
わたしも生きて、次の『わたし』に繋げたい。
そのためだったら、わたしはなんでもやれる。
生きるためなら、たとえ他の植物が隣にいようとも、蹴落とす覚悟がある。
そうやって生きてきたから。これからも環境に合わせて生きていく。
暑くても寒くても、わたしはどこへ行っても変わらない。
これからも変わらず、この先も生きるために。
わたしは、『わたし』を作り、その『わたし』がまた『わたし』を作る。
わたしには夢がある。……いや、野心がある。
わたしは野望のために、ここまで生きてきた。
準備が整った頃、縁側から覗く満月の光がわたしを照らす。
風もなく、雲もなく、とても静かな夜だった。
再びわたしは、開花した。たくさんの『わたし』と共に。
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綿毛になった日の朝。快晴、微風。
「うわぁあ! 見たことある! おはよーたんぽぽさん!」
おはようまきちゃん。
久しぶりにまきちゃんの声を聞いて、茎を揺らして返事をすることが出来た。。
黄色い花とは打って変わって、白い綿毛のあるわたしを見たまきちゃんは感動した。
「これたんぽぽさんだったの!」
まきちゃんはわたしが黄色い花だった頃の表情よりも満面の笑みを浮かべた。
縁側におばあちゃんも来た。
「おばあちゃん! これもたんぽぽさんだったんだね!」
「そうだよぉ。ふーって吹いて遊んだだろ?」
「うん! 飛ぶよね!」
「そうだよ。この綿毛一本一本が種を持っていて、風に乗って遠くまで行くのさ」
「行ったらどうなるの?」
「辿り着いた土地で根を生やし、またたんぽぽさんが生まれるのさ」
「へー! 知らなかった!」
「小学校でたんぽぽ習わなかったのかい?」
「んとねぇ。来週するって先生言ってた」
「そうかい。じゃあまきちゃんは誰よりも先に予習したことになるねぇ」
「しょうたも一緒に育てたから、二人の予習になる!」
「蕾の時もしょうたくんがよく遊びに来てたねぇ。二人は仲良しだねぇ」
「うん! しょうたもワサビもクラスのみんなとも仲良しだよ!」
わたしが眠っている間にずいぶんと時間が経過していたようで、あんなに悩んでいたまきちゃんの顔がすごく晴れやかで、こっちまで嬉しかった。
二人はしばらくわたしを見ていると、いつの間にかワサビもやってきた。
まきちゃんはワサビを抱きかかえながら、ふと暗い顔になる。
「たんぽぽさんとも、お別れ、なんだ……」
まきちゃんも気付いていた。おばあちゃんもまきちゃんを見つめる。
「たんぽぽさんがつぼみになってから、しょうたともクラスのみんなとも楽しく遊んで、いつまでもこうしていたいなーって思ってたら、ふと思ったの。たんぽぽさんも人だったらどんなに楽しいかなぁーって。それでねそれでね、またふとカラシのことを思い出したの。もしカラシが人だったらって。もっとおしゃべりできたり、一緒に遊んでまた明日ってできるから。でもカラシが人で死んじゃったら、カラシの葬式で泣いた以上に泣くんじゃないかって思ったの。だからもしたんぽぽさんが人だったらって思うと、あたし、今でも泣きそうなの……」
本当に今にも泣きそうなほど、瞳が潤んでいく。
その様子を見ていたおばあちゃんが、まきちゃんの頭を撫でた。
「そうさねぇ。もし人だったら悲しいかもしれないねぇ」
まきちゃんの言葉に、おばあちゃんは同調する。
「居て当たり前ってきっと特別なことなんだろうねぇ。おばあちゃんも60年以上一緒だったおじいさんが居なくなって、すっごく悲しかった。おばあちゃんもおじいさんの所に行きたかったんよ」
おばあちゃんの瞳にも少しだけ輝いて見える。
「けどね、まきちゃんがいるからおばあちゃん頑張れるのさ。まきちゃんもたんぽぽさんのために頑張ったように、おばあちゃんはまきちゃんのために命に代えても頑張ろうって思ったんよ。これが人の情ってもんさ」
おばあちゃんは優しく抱き寄せた。
「でもたんぽぽさんはカラシみたいに居なくなるわけじゃぁないよぉ。言わばお引越しみたいなものさね。新しい住処を見つける旅に出るんだ」
「たび? 居なくならない?」
「ならないよ。世の中一期一会の繰り返し、お金は天下の回り物。この綿毛も巡りに巡ってまきちゃんの所にきっといつか会いに来てくれるかもしれないねぇ」
「いつまた会えるの? 明日? 明後日?」
「さぁね。こればかりはお天道様にしかわからないことだよ」
「おばあちゃんにもわからないことがあるの?」
「いっぱい、いーっぱいあるさ。まきちゃんはいっぱいあるわからないことを自分で見つけていくんだ。きっとそれは辛いことを含めて、楽しいことだよ。まきちゃんがたんぽぽさんを見つけたように、ね」
まきちゃんは首を傾げては「よくわかんない」と答えた。
これにはおばあちゃんも少し驚いた。
「あれま? 楽しくなかったのかい?」
「楽しかったよ。でもしょうたやクラスのみんなと喧嘩した。ワサビにも八つ当たりした。たんぽぽさんがつぼみになってからも喧嘩ばっかりして仲直りばっかりして、辛かったのが多かった。辛いのは、嫌だよ」
まきちゃんは拗ねた様に頭をおばあちゃんの胸元に埋めた。
するとおばあちゃんは「それがいいんじゃないか」と笑って返した。
「人生山あり谷ありさね。山に登るのは辛いけれど乗り越えた先にある景色は格別だよ。仲直りした時に嬉しかっただろ? ホッと一息しなかったかい?」
「……した」
「それが『安心』って言うんだ。まきちゃんは山に立ち向かって必死に登ってちゃんと山頂に辿り着いてみんなと仲直りしたって景色を見つけたんじゃないか。すごくえらいことをしたんだ」
「……あたし悪者になったんだよ? しょうたが先に手を出して、関係ない男子までしょうたをいじめてたからあたしかーっとなってみんなやっつけたら先生に怒られて、正義の味方したはずなのに悪者になってて、全然良いこと出来なかった」
「でもそれは解決したんよね?」
「うん。金曜日の帰りの会で先生が黒板に図を描いて誰が悪いのか説明してくれた。みんな悪かったって。からかったゆうま、先に手を出したしょうた、しょうたをいじめたけんたとたろうとうるけ、4人を手加減せずに倒したあたし。『悪口を言う奴が悪い』『口は口で言わなかった奴が悪い』『面白半分でいじめに加担した奴が悪い』『暴力で解決する奴が悪い』って言われた。でも後で一人一人職員室に呼ばれて、あたしはこうも言われた。『守りたいって気持ちがあるなら拳に頼るな』って。その後いっぱい先生と話してあたし納得したの。もう暴力で解決しないって」
「そぉーなの。まきちゃん男の子4人相手に一人で勝っちゃったの?」
「うん。顔面に二発ずつ」
「あーっはっはっはっは。二発も? そぉーなのぉ、うふふふ」
おばあちゃんは盛大に笑った。つられてまきちゃんも笑った。
笑いの余韻を残しつつも、おばあちゃんはまきちゃんを抱きしめた。
「ちゃんとした先生みたいでおばあちゃん安心したよ。でもこれだけは覚えておいた方がいいね。いざって時は殴っていいからね、これおばあちゃんとの約束」
「え? いいの?」
暴力で解決しないと先生に言われたまきちゃんにとっては意外な言葉だったようだ。
まきちゃんは少し俯いたあと、おばあちゃんを見上げた。
「えーっ!? おばあちゃんが言っていることって先生と真逆だよ!?」
「そうだよ。でもおばあちゃんの場合はいざって時だけさ」
「一緒じゃないの? どう違うの?」
「まきちゃんは喧嘩っぱやい所があるからねぇ。きちんとその拳を誰に向けて良いのかを考えなきゃいけないのさ」
「悪者じゃないの?」
おばあちゃんは首を横に振って、笑顔でまきちゃんの頭を撫でる。
「みんな良い子たちだよ。ただ意見が噛み合わなかったり、手を出してしまう子たちもいるだろうけれど、みんな頭の中では良かれと思ってやってることなんだよ。悪いことをして嬉しいって言う子にはお仕置きが必要だけれど、良いことをしているのに殴られたら、まきちゃんだって頭に来るだろ?」
「うん。くる」
「みんな考えることはバラバラなんだ。人の話をよく聴いて、分かって上げて、納得がいかなければまた話し合って、分かり合う努力をしないといけない。もしそれでダメだったら、お互いにどこかで妥協しなくちゃいけない。感情的にもなっていい、論理的でも、合理的でも、ご都合的でも、なんだっていいんだ。お互いの主張ってモノをハッキリしないまま、殴っちゃいけないってことを先生は言いたいのさ。力で捻じ曲げた言葉に、本当のその人の気持ちってのは出てこなくなってしまうからね」
「おばあちゃんもそうだったの?」
「ああ、そうさ。おじいちゃんと何度も何度も喧嘩して別れて繋がって謳歌したものさ」
「ふーん」
「それにね、最近の男は弱すぎる。まきちゃんくらいの強気で丁度良いんだよ」
「おばあちゃんはおじいちゃんに勝ってたの?」
「勝たせてたんさ。男のプライドを支えるのも女の勤めって時代だったからねぇ」
「おばあちゃんすごいかったんだね」
まきちゃんの一言が嬉しかったのか、おばあちゃんは意地悪く笑って見せた。
「まきちゃんにはまだ10年早いよ。それよか、覚えておきな」
「うん」
「まきちゃんもまきちゃんの考えた行動で、失敗に繋がったのなら、それはいいお勉強になったってことなんだよ。失敗は誰にでもある、あるならどう直そうか考えてまた行動する。何度失敗してもいい、何度成功してもいい。失敗も成功も同じでなければ人は学ぶことを止めず生きていける。まきちゃんがおばあちゃんから鉢や植替えを学んだように、おばあちゃんもまきちゃんから教わったことはたくさんある。教え教わり伝え伝わり、生きるモノはそうやって受け継がれていくもんさ」
「……最後の、よくわかんない」
「それでいいのさ。今はそれでいい。いずれ分かる時がきたら、思い出してみな」
「うん。……ところでおばあちゃん」
「なんだい、まきちゃん」
「たんぽぽさんは遠くにとんだほうがいいの?」
「そうだよ。そうやってたんぽぽさんはお引越しするのさ」
「じゃあじゃあ、学校の裏の山からとんだ方がいいよね?」
「そうだね。丘の上くらいが丁度いいかもねぇ」
「わかった! じゃあしょうた呼んで行って来る!」
おばあちゃんとまきちゃんは会話を終えると、家の中に入っていった。
その後、まきちゃんはわたしと朝ご飯を食べて、ワサビにご飯を上げて、着替えたりと急いで準備をしていた。わたしをどこかに連れて行ってくれるらしい。
しばらくすると、しょうたくんが庭から現れ、わたしを見ると目を丸くした。
そこへしょうたくんの足元にワサビが擦り寄る。
家の中からまきちゃんが現れ、わたしに透明なビニールを被せて、鉢を持ち上げた。
まきちゃんはしょうたくんとワサビを見て、ニッコリと笑った。
「じゃ、行こっか!」
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家を出て三十分後。わたしとまきちゃんとしょうたくんとワサビは、山を登っている。
まきちゃんはわたしにビニールを被せることで、風に種を飛ばされないようにしたと道中で話してくれた。飛び立つなら、もっといい場所があると。
まきちゃんの両手に鉢を、しょうたくんの手にはワサビの手綱を握って歩いていた。
まきちゃんとしょうたくんは、家からずっと会話をしている。
学校での笑い話から、今回の悩み事に至るまで。
二人は足並みを揃えて、歩き続ける。
「でね、結局あの4人を許すことにしたの。泣かせちゃったのあたしだし」
「そっか。おれはいつの間にかまたあいつらと遊んでた。仲直り、したかも」
「そうなんだ。あたしはしばらく許さなかったけど、しょうたはえらいね」
「そうか? ドッヂでボールぶつけ合っただけでスッキリしたって感じ」
「へー。男子って何ですぐに仲良くできるんだろ」
「んー、力比べ? ドッヂでも給食でも、何でもはり合ってたら仲良くなってた」
「あたし力比べなら自信あるけどなー」
「まきとやったらはり合いないからなー。勉強以外全部勝つし」
「運動だけが取り得なんだもん。頭悪いのわかってるから宿題もしょうたん家で一緒にするんだよ。しょうたクラスで一番だもんね」
「男の中ではな。俺より頭いい女子いっぱいいるからそいつらから教えてもらえよ」
「しょうたん家のおばさんの晩ごはんおいしいんだもん。こっちがいい」
「飯目当てかよ! ったく、うちは店じゃないんだぞ」
「しょうただってうちで晩ごはん食べるからおあいこだよ」
「それは、まきがワサビの散歩だったり、おれも家事にまき込まれるっつーか。そうだけどそうじゃないっつーか……まきと話してるとバカになりそう」
「じゃあおそろいだ! あたしがアホならしょうたはバカでおそろいだね!」
「……おそろいでも、悪くないけど、おれが教えるんだからちったぁ上に上がれよな」
まきちゃんは嬉しそうにしょうたくんと会話をして、足を止めた。
まきちゃんは少し間を開けて、しょうたくんに向き直った。
「……うん! しょうたのそういうの好き」
一方、しょうたくんは目を丸くして頬を染めた。
「なっ……は、はずいこと言うなし! 行くぞ!」
しょうたくんは足早に先に進んだ。それをまきちゃんが追っかけては抜いて、追っかけては抜いてを繰り返した。途中からかけっこが始まった。
二人とも汗だくで息切れを起こしながらも、開けた場所で足を止めた。
森を抜けた野原、晴天で艶やかな原っぱが微風を受けて波打つ場所だった。
「はぁ……はぁ……なんで走ったんだろっ……」
しょうたくんは空を見上げながら、脱力した。
「はぁ……んっ、しょうたが先に走ったんだからねっ……」
まきちゃんもわたしを見ながら、脱力していた。
滴り落ちる汗の熱がビニール越しに伝わってくる。まきちゃんは鉢を地面に置いて、大の字になって寝っ転がった。風を受けて、まきちゃんは笑った。
「気持ちいいっ……しょうたも寝っ転がりなよー。風が気持ちいいからさー」
まきちゃんは本当に気持ち良さそうで息を整えていた。しょうたくんもまきちゃんの隣で大の字になった。ワサビも二人の間でおすわりしていた。
「……ホントだ。視界が空でいっぱいだ」
「目を閉じるとね、遠くの音も聞こえてくるよ。……あ、豆腐屋さんの音楽だ」
「……確かに。反対側の町の音も聞こえる。……普段、聞かない音ばっかだ」
「でしょ? あたしのお気に入りの場所なんだぁ。いつも来ないけどたまに来るんだ」
まきちゃんとしょうたくんは、しばらく風に身を任せていた。
「……やっぱ、まきはすげーよ」
「ん? どうして?」
「おれなら日曜、友達ん家とか家の手伝いとか、そんくらいしか行かないけど、まきはこういうおれが行った事ないトコまで知っててさ。正直に驚かされっぱなしだし」
「いつも一緒にいるのにね。あたしはワサビのお散歩で知ったこと多いだけだよ」
「それだったらおれもたまにワサビと散歩するけど、こういう場所知らなかった」
「今日のしょうたって素直だね。いつもなら照れるのに」
「まきと一緒にいるとなんか、我慢するのが面倒なんだ」
「我慢なんかしなくていいのに。しょうたは考えすぎなんだよ」
「まきが考えなさすぎなんだよ。あの件だって、1対4でもおれ勝てたし」
「うそだ。意地っぱりぃー」
「……うん、ごめん意地はった。すげー助かった。マジのまじのすけ」
「ふふふ。素直でよろしい! っぷ、あははは」
まきちゃんが笑うと、しょうたくんも笑った。
風で鉢のビニールの揺れが少し大きくなってきた。
しょうたくんは、上半身だけ起き上がり、少しだけ顔を強張らせた。
「……しょうた?」
その異変に気付いたまきちゃんも、上半身だけ起こした。隣り合う二人。
「なぁまき」
「なぁに?」
「お、おれと……」
「うん。……うん? おれと?」
「おれと……」
「おれと……?」
しょうたくんは、それ以上なかなか言い出せなかった。
まきちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「おれと……っその、つ、つきあ、ぅっわっかなぃ……かっ?」
しょうたくんはせっかく息を整えたのに、再び息切れを起こしそうになった。
「おれと、つっきーわっかない?? んん?? わっかんない?? わかんない」
しょうたくんの言葉をまきちゃんは可能な限り反芻するが、分からなかった。
しょうたくんは、二度ほど盛大な深呼吸をしてから、
「おれと、付き合わないか! まき!」
大声で叫んでまきちゃんを見た。見たと言うよりも、睨み付けた。
「うん、いいよ」
まきちゃんは即答した。そのあっけなさに、しょうたくんは唖然とした。
「……え? まき?」
この世界で一番驚いているのは、おそらくしょうたくんだろう。
まきちゃんは平然とした表情で、不思議そうな顔を浮かべた。
「しょうたと付き合う。うん、いいよ。てか、顔怖いよ? しょうた」
「いや、まき。本当にわかってるのか? 付き合うって意味」
ところがまきちゃんは、
「ううん、わかんない。全然。これっぽっちも分かんない」
親指と人差し指をくっつかせて見せた。流石にしょうたくんも、後ろに倒れかけた。
「分からないのにうなずくなよ」
少しガッカリした表情を浮かべるしょうたくん。でもまきちゃんの疑問は尽きない。
「分からないとうなずいちゃダメなの?」
しょうたくんは、すぐには反応できなかった。
「……そ、それは……そんなことないけど……」
それ以上しょうたくんは口を閉じて言葉が出なかった。
まきちゃんはそのしょうたくんを見て、空を仰いだ。
「たんぽぽさんがつぼみになってからずっと考えていたの。付き合うってあたし辞書引いたんだ、今回ので分からないことばかりだったから。そしたら付き合うって男女の親しい関係って書いてあったの。しょうたとは保育園の頃からどこでも一緒だし、家族と同じくらい親しいって思った。じゃあもう同じ意味だよねって思ったの。でもしょうたの言う『付き合う』ってなんか違った。周りの友達もみんな分かってて、あたしだけ分からない。考えても考えても、はてなばっかりだった。じゃあさ、その『付き合う』ってことしたら何か分かるんじゃないかって思ったの。しょうたとなら、わかるんじゃないかって。だからみんなの言う『付き合う』ってこと、教えてよ。どんなことするの?」
「そ、そんなの、いちいち言わないもんなんだよ」
「でもあたし、言われなきゃ分かんないよ?」
「っん~~、おれらだけのひみつを持つ、とか」
「あ、そっか。たんぽぽさん居なくなっちゃったらひみつなくなるね」
「言っとくが、おれらが付き合うこともひみつだからなっ! クラスで言うなよ!」
「しょうたが言うなら二人だけのひみつ続ける。でもなんでひみつなの?」
「だってどきどきとかはらはらとかわくわくとかするだろ? おれらだけのひみつって」
「あ~~ああね。はらはらするからかぁ。他には?」
しょうたくんは頭を掻きながら、徐々にまた赤くなっていく。
これにまきちゃんは素直に応える。
「……す、す、好きって言うとか……」
「好きだよしょうた。それから?」
「ちゅ、ちゅーとか」
「さっきうそついたのしょうただから、ちゅーしていいよ?」
「……ん==ぁあああ!! やっぱ教えるのやめだ! はっず! この分からず屋!」
しょうたくんはまきちゃんに背を向けた。
「そ、それよりも、たんぽぽさんのお引越し、するんだろ?」
「そうだね。じゃあまた今度いっぱい教えてね」
まきちゃんは鉢を持って、ビニールを取った。
「お待たせたんぽぽさん。もう、お別れだね」
まきちゃん……。
わたしとまきちゃんはしばらく、見つめ合った。
今までのことを振り返るように、
「たんぽぽさんを見つけたとき、不思議だったんだぁ」
わたしに語りかける。
「路地で見つけたとき、つぼみなのに日が当たって咲いてるみたいだったんだぁ」
わたしは路地に咲いた一輪の黄色いたんぽぽで、まきちゃんが見つけてくれた。
「あたしがたんぽぽさんを見つけて」
しょうたくんに踏まれもしたけれど、
「しょうたが踏んじゃってごめんね」
「許してちょんまげ!」と横からしょうたくんが現る。本当に面白い男の子。
それでもおばあちゃんに出会えて、
「おばあちゃんが教えてくれなきゃここまで出来なかったなぁ」
子犬のワサビに鉢を壊されて、
「ワサビがはちを壊したけど、そのあとワサビに悪いことしちゃった」
「わん!」と下から鳴き声が聞こえる。まきちゃん想いの良いコ。
それでも、まきちゃんのおかげで咲くことが出来た。
「そして、たんぽぽさんが咲いてくれた」
ありがとうまきちゃん、ここまで育ててくれて。
「ありがとうたんぽぽさん、育ってくれて」
一筋だけ、涙を溢した。
「別の場所に行っても、いっぱい咲いてねっ……」
……うん。うん!
わたしの思い出と記憶の欠片は『わたし』に詰め込んだ。まだ目覚めていない『わたし』たちだけれど、学んだことをわたしは遠くへ行く『わたし』たちは忘れない。
それが、わたしの役目であり、『わたし』たちにしかできないこと。
どこへ行っても、強く生きて。
どこへでも行けるって、強く信じて。
またどこかで会えるって、強く祈って。
「忘れないでね、たんぽぽさん……」
まきちゃんは、頭上高く鉢を持ち上げて、告げる。
「また、会おうね!」
うん、いつかまた!
さよならとは、言わなかった。
本当に、また会えそうな気がしてならないから。
まきちゃんの背後から突風が吹き上げると、『わたし』たちは飛び立った。
「うわぁぁーー!」
まきちゃんが『わたし』を見て、嬉しそうにはしゃいでくれた。
風と共に渦を巻き、見る見るうちに空に溶け込んで行った。
まきちゃんは『わたし』たちを最後まで見送ってくれた。
わたしの願い、強く生きて咲いて野望を叶えて欲しい。
まきちゃんがわたしを見つけて育ててくれたように。
次に『わたし』が生きる場所での出会いを大切に。
巡りに巡ってまきちゃんに会いに行けるように。
そういつか野原をわたしで埋められるように。
世界中の誰かがわたしを見てくれる場所に。
わたしは『わたし』たちに願い、伝える。
風に乗って遠くへ、出来る限り遠くへ!
口のないわたしは、理想を叫びたい!
そのためにわたしは今まで生きた!
受け継がれたわたしだからこそ!
必死にもがき苦しんで生きて!
他の植物たちに、負けるな!
自分の心に素直に生きて!
いつか必ず大輪になる!
目指すは、世界征服!
たんぽぽの花言葉は「真心の愛」「思わせぶり」「別離」
花言葉って、面白いですよね?
日本独自のモノだったり、異国文化で言われてみれば納得するようなモノもあれば、全く逆に共感できなかったりすることもしばしば。感受性が主に反映されてある花言葉が昔から使われていることに驚き、感情の代名詞とも言える汎用性の高さには脱帽ものです。
さて、今回書かせて頂きました題材は『たんぽぽ』。春によく見かけて、子供の頃に息を吹きかけて綿毛を飛ばして種をバラ撒いた記憶があります。服の背後に引っかかって脱ぐまで気が付かなかったり、わざと服にくっつかせて振り払う手間を楽しんだり、黄色い花の時期に蕾だけ摘み取ったり、複数の茎を捻じ切り輪にしたり、用途は様々。でも無知な子供でしたから花も生きているという感覚は全く身に覚えがありませんでした。
だから過去の贖罪に対する罪滅ぼしで書いた、というわけではなく、単純ににして明快な脅威の生命力に興味があったからです。厳しい環境下でも生き抜く様や誰もが知る存在感は雑草魂を刺激するモノがありました。
ヨーロッパ原産のセイヨウタンポポは年中咲いているってご存知でしょうか。自分は調べて初めて知りました。国境を越え、海を越え、辺境の地でも咲く根性の強さに、そして既存の種を脅かすその侵略性に感嘆の声を上げるばかりです。花言葉シリーズの第一作目に『タンポポ』を題材にしたかった理由は、そういうところからきています。侵略性と根強さに敬意を表して。