私の中の小さな出来事
平日の正午を少し過ぎた頃。山手線を走る車両内、そのロングシート端に腰かけた私は、目の前のシートに座る男を眺めた。
くたびれたスーツに、汚れた革靴、安ものの時計。知性に口元が引き締まりもしなければ、目に生気も感じさせない、総じて言えば貧相な男。
思わず、眉を顰める。
この男は一体、何が楽しくて生きているのだろう。身を飾る享楽を知りもせず、また出世を目指す意欲も感じられない。
嘆息をつき、一度だけ見たことがある、ウチの会社の孫下請けのIT技術者が確かこんな感じだったなと思い、彼らの給料では到底手に入れる事の出来ない、手元の腕時計に目を落とした。
合理性が一つの美にまで昇華された精密機器は、宝石の様に煌きながら、時を運んでいる。
国土交通省が主催するコンペまでには、十分な時間がある。あの広告案なら、余程の事がない限り行けるだろう。
――私はやれる。
私は自分自身を十分に信頼していたし、常に最大効率を考えて業務を遂行してきた。広告業界に入って十年に満たないが、広告大賞を受賞した事もあり、会社でも、いや社外でも一目置かれていると言って過言ない筈だ。
私は午後からのコンペに向け、目を閉じ、真珠の薬を飲みこんだ様な興奮を、鼻から熱い息として逃した。
すると電車は次の駅に着き、わらわらと人が乗り込んでくる。
ある気配を感じて、薄眼をあける。目の前には老婆と呼んで差支えの無い女性が、不安げにシート端の手すりを掴んでいた。
一瞬、私の中で何かが囁いたが、それを鼻で笑ってのけ無視した。再び目を閉じ、これからのコンペの事に意識を集中させる。
だが何か動きがあったようで、老婆が「ありがとうね」という、しゃがれた声を上げていた。思わず目を開けると、目の前の男が、老婆に席を譲っていた。
そう、あの男だ。
くたびれたスーツに、汚れた革靴の、生気のない男。
男は私に背を向け、つり革を掴んだ。
その時、私は一種異様な感じに打たれた。みすぼらしい男の後ろ姿が、大きく見えたのだ。
それは私の心象の中、徐々に大きさを増していくと……やがて私を脅かす程の、威圧的なものへと変わる。
だらしない服装。脂ぎって不潔な髪。不衛生に伸びた爪。
男の細部に貧相さを見つければ見つける程、それは圧力を増し、そしてついには数十万のスーツの下に隠された私の「卑小」さを絞り出さんばかりになった。
同時に私の生命力は凝結したかの様になる。シートに腰掛けたまま身動きが取れず、奇妙な冷や汗が流れた。
男は直ぐに電車を降りるから、席を譲ったんだ。そうに違いない。
そう思わないと自分を保つことが出来そうになかった。
だが男はついに電車から降りなかった。
電車が目的の駅に着くと、私は転がり出る様にしてその場を去った。まるで大犯罪を犯した少年の様に、心臓をドクドクと脈動させ、逃げ去る様に。
そしてホームを足早に歩きながら考える。
考えが、自分自身の事に及ぶのを恐れる様な気持ちで考える。
いつからだ?
人に優しくしなくても、何とも思わなくなったのは。
いつからだ?
一体……いつから、私は……。
すると過去の女性が、いつか私に言った言葉が思いだされた。
――あなたって、常に品物の値札を見て話すのね。それって楽しい? きっとそうやって、誰かが決めた価値観のエスカレーターに乗って墓場までいくんだわ。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
男が私にもたらしたその小さな出来事は、今になってもしばしば思いだされる。
それによって私は心痛の底に投げ入れられ、幼い頃に憧れ、思い描き、目指した私の姿を思い出し、自分自身の事に考えを及ぼす努力を強いられる。
大学生や社会人になってから学んだ、実務的な知識。
或いは、水蜜桃の様な享楽的な記憶。
そういった物は、どんな反省も自分に与える事はない。ただ自尊心を増長させるだけで。
ただ、あの小さな出来事だけが、事あるごとに私の眼前に浮かび、時には以前に増して鮮明になり、私を恥じ入らせ、私を取り戻す様に、勇気と希望を与えてくれる。
また、あの出来事ばかりが直接的な原因となった訳ではないが……。
数年後に私は職場を辞し、地元の愛知へ戻ると、同窓会で再会した古い女友達と結婚した。そして子をなし、電車で数十分の距離の広告代理店に務め、平凡に暮らしている。
流行り物にも疎くなり、腹回りも少し緩み始めてきた。
だがその代わり――。
あの日感じた、目が眩む様な卑小感は、もう覚えなくなった。