手中盆
寝苦しい夜をクーラーも無しで過ごす、中年男の住む部屋には拾ってきた扇風機しかなく、生暖かい空気が部屋の中を循環する中で、汗まみれになりながら剥き出しのフローリングに転がって過ごしてきたが、それも限界を迎えた。
発狂しそうになるのを堪えて、カーテンも無く街灯が照りつける台所に向かう。ボサボサの髪は汗でくっつき、裸の上半身にはホコリが纏わり付いていた。
シャワーも無い部屋で唯一の蛇口を捻ると、生暖かい水がトロトロと流れる。昼間のかんかん照りで温められた水道水は簡単には冷えず、差し出した手からぬめりを伴って溢れた。
築年数の分からないボロアパートの貯水槽は以前にも異臭騒ぎを起こしているが、大家である老婆は碌に清掃もしないまま放置しており、何時病気になるか分からない代物と化している。
だが男はそれをどうこうしようという気力すら持ち合わせていなかった。流れるままに、自分からは何もせず受給をあてに無気力な生活を送る。焦る気持ちもとうに麻痺してしまった。
少し冷え始めた水道水を頭に当てると、ヒンヤリとした水が筋となって後頭部を流れる。
「あー」
自然と体の奥から声が漏れ出す、男の中に溜まった澱みが、温度を伴った溜め息となって、魂の様に口から抜けていった。
手に貯めた水で洗おうと顔をつけた時、水のトロミとはまた違った感触に違和感を覚える。
『またネズミか雀でも貯水槽で死んでるのか?』
唯一の救いを穢された不快感に目だけを出すと、顔を浸けている両手の中に藻の様な物がみえた。だが、その藻は流れて行かずに纏わり付いてくる。
異様な事態に顔を上げようした男は凍りついた。全く動きが取れない、金縛り!
水の中でパニックを起こした男は何とか手足を動かそうとするが、一ミリたりとも動かす事が出来ない。
そこにゴボリと藻が溢れ出てきた。呼吸も出来ず、男の食道や気管になだれ込む藻は肺まで達するーー
二週間後、部屋からの異臭騒ぎに重い腰を上げた大家が見た物は、腐乱死体となった男の遺体。
「この時期は水難事故が多いけど、部屋のなかで溺れ死ぬとは珍しいね〜」
検死を行った医師が軽い口調で立ち会った警察官に告げる。不思議な事に男の体からは一片の藻も見つからなかった。
〝孤独死〟
都市部で良くある不幸な事例の一つとして誰も意に介さないまま、一週間後には誰の記憶にも残らなかった。
「アパートもそろそろ限界かね」
大家が呟く、幸いな事に中年男の保険金が彼女の口座にたっぷりと入る予定だ。
ニヤニヤと口角をあげる老女の手の中には小さな藻の塊が染みの様にこびりついていた。