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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

悪魔

作者: 霧咲悠

 松原優希は、退屈していた。

 変わり映えすることのない日常が、ひどく退屈だった。

「ただいま」

 彼女は自室の扉を閉じると、鞄を投げ捨てベッドに倒れこんだ。眠いのではなく、ただ何をするにも億劫で、無気力の海に浸っていた。

 このまま眠ってしまおうか。しかし寝てしまうと明日がすぐ近付いてくる。優希はぼんやりとそんな事を考えていた。

 毎日毎日同じように過ごす。朝起きて準備をし、学校に行く。半ば眠りながら授業を受け、放課後はまっすぐ家に帰る。まるで機械だ。

 憂鬱な沼に沈みかけた優希の耳が、聞こえるはずの無い音を拾った。

「退屈……退屈ですか。ええ、そうでしょう。だから私が来たのですから」

 血管に冷水を流し込まれたかのように飛び起き、振り返る。そこには見覚えの無い男性が佇んでいた。

「だ、誰っ!? いつ入って来たの!?」

 不審者? 泥棒? 物音なんて一切しなかったけど、どうやって? まさか初めから部屋に?

 混乱した優希の頭の中で、非常事態を告げるベルが鳴り響いていた。目まぐるしく浮かび上がるあらゆる可能性に顔を青ざめながら、足を押し出し必死に後ずさる。引っかかるシーツが鬱陶しい。

 目の前の青年は穏やかな微笑を浮かべ、ゆっくりと一礼した。続く彼の言葉に、優希は混乱を通り越して思考停止してしまった。

「どうも、はじめまして優希さん。私の事は――悪魔と、そうお呼びください」

 何を言っているのだこの男は。悪魔? あの黒くて、角と牙を生やした、コウモリのような羽と鋭い尻尾を持つ、悪魔? しかし彼は、どう見ても誠実そうな青年だ。角も尻尾も見当たらない。

 どれほど見つめ合っていたのだろうか。凍りついた優希に痺れを切らしたのか、悪魔と名乗った青年は再び口を開いた。

「紛れも無く私は悪魔ですよ。例え人の姿をしていても、ね」

「じゃあ、何をしに……来たの? 悪さをするため?」

「いえ、滅相も無い。私は貴女の願いを叶えるために来たのです。……おめでとうございます、貴女は悪魔に選ばれました!」

 淡々と告げる言葉を、優希はただ呆然と聞いていた。

「それじゃあつまり、貴方は私の願いを叶えられるっていうの?」

「はい……もちろん悪魔ですので、タダでとはいきませんが」

 危険がないと判断した優希はようやく落ち着き、ベッドに腰掛けて悪魔に尋ねた。悪魔は依然として、真っ直ぐに立ち続けている。

「願いを叶えるのには倍の代価が必要になります。等価交換ではありませんよ? 貴女が一の願いを叶えたら、私に二の代価を支払ってもらいます」

「倍……? ふんっ、どうせそんな事だと思った」

「頂くのは物だけではありません、記憶なども取引の材料になりますから。別に誰かの目を一つ潰すのに、自分の両目を差し出す必要は無いのです。ああ、しかし自分が大切にしている物に限る、という条件はあります」

「へえ、じゃあ仮に私が貴方を殺したいを言っても、自分の命を代償にしなくても良いのね?」

「もちろん。私の命二つ分に相当する物があれば、ですが」

 優希は、悪魔の言葉に恐れると同時に、言い知れぬ高揚感を覚えた。それを隠すように、優希は悪魔に尋ねる。

「……そ、そもそも何で私が選ばれたの? そんな権利を得るからには、リスクがあるんじゃないの?」

「まず選ばれた理由ですが、これは抽選です。ある条件に合う人間の中からランダムに選ばれます。その条件とは『日常に退屈している』事。私たちはそんな人間の願いを叶え、代価を頂くためにこうして姿を現すのです」

「日常に……退屈」

 悪魔の言葉を繰り返して、優希は呟いた。確かに自分はそう思っていた。

「私たちは死神ではないので無理やり奪うことはしません。あくまで願いを叶え、報酬として代価を貰うのです。退屈している人間をターゲットにする理由は……そうですね、日々に満足している人間は、大抵の願いを自分で叶えられるでしょう?」

 悪魔の言葉が、甘い麻薬のように優希の心に染み込んでいく。代価さえ払えば何でも願いが叶うという誘惑は、彼女の心の我侭な部分をそっと刺激した。

「ううっ、駄目よ駄目! そんな事を言っても貴方は悪魔、私を騙すのでしょう? 二倍の代価を支払ってまで願いを叶えたくはないわよ」

「くくく……そうですかそうですか。しかし何を捨ててでも叶えたい願いとは、誰しも必ずあるものですよ」

 悪魔は口元を歪に曲げ、可笑しそうに笑っている。彼はくるりと体の向きを変えると扉に手を伸ばした。

「契約を破棄しない限り、いつまでも待っていますから。もし願いを叶えたい時は私を思い浮かべて強く願ってくださいね。それでは」

 扉の向こうへ消える悪魔。優希は後を追いかけるが、その姿は幻のように消えていた。


   * * *


 優希の前に悪魔が現れてから数日が過ぎた。悪魔と話した後しばらくは気が気でなかったが、今となっては既に変わりない日常に戻り、あの時の事は夢か妄想だったのだと割り切って忘れた事にしていた。

「優希ちゃんおはよう」

 教室で友人の長谷川いずみに声をかけられた。二人で遊ぶ事はあまりないが、優希は彼女のことを友人の中でも仲の良い部類に入ると思っている。

「おはよう、いずみ」

「ねえ、今日の小テストの範囲ってどこだっけ」

「えっと……ここから、このページまでだったかな?」

「ありがと、助かったよ!」

「二人ともおはよう、朝から元気だな」

 優希が単語帳のページを指差して教えていると、後ろから新たに声がかかった。二人同時に振り返ると、そこには同級生の浅野誠が片手を上げて立っていた。彼は優希の幼馴染でもある。

「あ、浅野君おはよう!」

「おはよう誠」

 誠は自分の席に鞄を置くと、彼女たちの話に加わった。

「何の話を……ってああ、今日はテストがあったか」

「もしかして、また忘れてたんでしょ。ほら、範囲ここだからね」

 呆れたように笑い、優希は誠に単語帳を差し出す。いつもの光景だ。しかし彼はテストの事を忘れているくせに、いつも点数が良い。まったく羨ましい限りだ。

「ん、まあ何とかなるかな。それよりさ、また今度皆で遊ばないか? カラオケとかどう?」

「そうだね、悪くないと思う。いずみはどう?」

「えっ? うん、私もそれでいいと思うよ」

「そっか、それじゃあ今週の土曜にでも行こうか」

 誠の言葉に続いてチャイムが鳴った。三人は話を切り上げ、それぞれの席へとついた。担任が教室へやってくる。

「全員いるな。えーと、お知らせがひとつある。昨日の放課後、学校付近で不審者が目撃されたそうだ。放課後はなるべく一人で帰らず、暗くなる前に帰るように」

 不審者か……。優希は先日の奇妙な青年の事を思い出していた。あれから悪魔は全く姿を見せず、あの話が本当だったのかすら疑わしくなってきた。

 頬杖をつきながら、退屈な授業を聞き流す。悪魔が人間の願いを叶えてやろうなんて、そんな話があるのだろうか。しかし代償は存在する。無償ならともかくそれなら現実的、いや悪魔らしいとも言える。

 もし本当に願いが叶うなら……。日が経つにつれ優希の危機感は薄れ、損得勘定もしなくなり、ただ願いが叶うという点において好奇心を膨らませるようになっていった。


   * * *


「おい、優希。おーい」

 目の前に手を翳され、優希は意識を教室の中へ引き戻した。

「もう放課後だけど、どうした、考え事か?」

 誠が不思議そうに顔を覗き込んできた。既に教室には優希と誠以外誰も残っていなかった。一人呆けていたのを見られた恥ずかしさから、優希は顔を逸らした。

「な、何でもないよ。もう帰るから」

「一人で大丈夫? 不審者が出たって言ってたし、気をつけろよ」

「ありがと。誠は……そっか部活だったね」

「おう。じゃあな、また明日」

 そう言って誠は教室を出て行った。優希も鞄を持って廊下に出ると、壁に背を預けた姿のいずみを見つけた。

「あ、いずみ。もしかして一人? 私と一緒に帰らない?」

「優希ちゃん? ごめんね、今日はちょっと用事があって……」

「そっか、いずみも帰りは気をつけてね。それじゃ」

 互いに手を振って別れると、優希は下駄箱で靴を履き替えて足早に学校を出た。まさか何も起こらないだろうが、それでも一人で不安はあった。

 家まで半ばのところで、道の対岸にいかにも怪しそうな人物が立っていた。フードを目深に被り、こちらをじっと見つめている。目は見えないが、明らかに歩く優希にあわせて視線を動かしている。不気味に思い横目でちらちらと確認していると、だらりと垂れた手に何か光るものが見えた。刃物だ。

 優希の顔から血の気が引いた。息を呑んで走り出そうとすると、男が車道を横切って優希に向かって近付いてくる。駆け出した優希を男が走って追いかけると、その腕を掴んで強引に引き止めた。周囲にはあまり人通りがなかった。男は建物の陰に優希を押し付けると、ナイフを喉元に押し当てた。フードから覗く目はぎらぎらと光っていて、男がまともではない事を語っていた。

「や……やめてください。お願いですから……」

 恐怖に引き攣る唇をどうにか震わせ、助けを乞う。しかし返って来たのは物分りの良い返事ではなく、喉元に感じるナイフの冷たさと圧力が増しただけであった。

 優希の頭の中はこの間の比ではないほど混乱していた。私はこのままあっけなく殺されてしまうのだろうか。恐怖に支配され、前触れもなく涙が零れる。震える彼女の姿に男は唇を歪めた。まるで悪魔だ。

 頭を過ぎった可能性に優希はあっと声を上げそうになった。最早藁をも掴む思いで、彼女は心の中で叫んだ。助けて、死にたくない!

 その瞬間。肩にかかる力がふっと弱まり、男は白目を剥いて崩れ落ちた。身動き一つしない男に優希は安心し、足の力が抜け膝をついた。安堵感と共に吐き気が込み上げ、慌てて口を押さえる。しかし喉を通るものは何もなく、ただ気持ち悪さだけが胸に残った。

「おや、やっと取引の時間ですか。もう少し粘ると思いましたが、案外あっけなく折れるんですね」

 頭上から落ち着いた声が聞こえる。見上げると、悪魔が口元を吊り上げながら優希を見下ろしていた。

「今回は先に願いを叶えたので、代価は後払いです。何を払うか決めてください」

「ま、待って……」

「ふむ。待ってあげる代価は何にしましょうか」

 容赦のない悪魔の言葉に顔を上げて睨みつけると、彼は可笑しそうに笑った。

「あはは、冗談です冗談。そこまで意地汚くしませんよ」

 優希は呼吸を整え、立ち上がってスカートの埃を払うと、悪魔と倒れ伏した男を交互に見た。

「彼はしばらくそのままですから安心してください」

「……代価って、どうすればいいの? 命を助けられたから命を差し出せって?」

 半ば自棄気味に優希は尋ねる。とうとう悪魔の誘いに乗ってしまった。

「そんなことはありません。気絶させただけですよ。……それで代価ですが、物にしますか? それとも記憶か、少しだけ不幸になるか」

「不幸になるって、どうして? また酷い目に遭えって言うの?」

「いえ、私が言っているのは、この男が『偶然意識を失った』というささやかな幸運に対しての、不幸です。これくらいなら倍になっても大した事ないでしょう?」

 転がる男を手で指し示して悪魔は言う。その言葉は親切で教えているようにも、彼の望むように誘導しているようにも見える。

「へえ、そう……。じゃあそれがお勧めって事?」

「さてね、私には分かりません。その小さな不幸が巡り巡って、貴女の身をボロボロにするかもしれませんし。因みに記憶を代価にする場合は、差し出す量が決まっているので悪しからず。少なくともこの程度で交換するのは勿体無いですよ」

「……命を助けられたんだし、それくらいどうって事ないわ。死にかける以上の不幸もそうそう無いでしょう」

「分かりました。それでは今回貴女が支払う代価は、この男が気絶するという幸運の倍の不幸です。さて、それが一体どれ程なのか……それは貴女次第ですね。それでは」

 悪魔は一礼すると、蜃気楼のように姿を消した。しかし優希が歩き出そうとすると、再び現れて声をかけた。

「あ、そうでした忘れていました。今回はこのように後払いの形でしたが、先に代価を設定してそれに見合う願いを叶えることも可能ですよ。その時も心の中で私を呼んで下されば大丈夫です。それでは」

 言うだけ言って、今度こそ悪魔は姿を消した。周囲には依然人の気配はなく、初めから優希と倒れた男だけだったかに思えた。

 男に背を向け走り出す。幾つもの角を曲がり坂を駆け上った頃、背後遠くからサイレンが聞こえてきた。誰かが通報したようだ。この音は救急車だろうか。

 家の前まで走った優希は、大きく息をつきながら悪魔について考えを巡らせていた。


   * * *


 一度願いを叶えてしまった優希は、その甘い蜜に誘われて何度も悪魔と取引をした。

 あの不審者から救ってもらった代償は本当に些細なもので、翌日にかなりの確率で躓き転んだだけで、他にこれといって危険な事はなかった。

 去り際の悪魔の言葉を思い出した優希は、予め少ない代価を設定してちょっとした願いを叶えるようになった。

 それは夕飯に好きな食べ物が出るようにしたり、外に出かける時は自分だけ雨に濡れないようにするなどの願いで、その反面彼女の部屋からは思い出の品が少しずつ減り、手足には細かな怪我が増えていった。

「最近お前、やけに楽しそうだな。何かあったのか?」

 優希が学校で次の代価に何を支払おうか考えていると、休み時間に誠に話しかけられた。

「え? ううん、別に何にもないよー」

「そうか……? ま、いいけどさ」

 二人の会話にいずみも参加してきた。長い髪をふわりと靡かせながら、優希に詰め寄る。

「そういえば優希ちゃんっ、この間不審者に絡まれてたけど大丈夫なの?」

「ええっ、長谷川さんそれ本当!?」

 いずみの言葉に誠が目を丸くする。いずみはその瞳に優希を労わる色を浮かべていた。しかし……。

「……ねえいずみ、どうしてその事を知ってるの? 私、誰にも言ってないのに」

「えっ? あ、ええと……その、友達がその時見てたって言ってたから……」

 見てた。その言葉に違和感を覚えた。あの時、人の気配は全く無かった。

「その友達、他に何か言ってた?」

「ううん、あとは別に……」

「そう。私は大丈夫だから、心配してくれてありがとう」

 口ではそう言いつつ、優希はいずみの言葉を考えていた。自分が他人の気配を完璧に察知する天才だと言うつもりはないが、それでもあの開けた通りで他に人がいたら気付くはずだ。それに人づてに聞いたにしては、いずみの表情には確信めいたものがあった。

 自分でも良く分からない違和感は解消せず、優希の心に一滴のインクを零した。それは黒い煙となって広がり、疑念となって彼女の心に残った。

「ところで明日だな」

 誠の話し声に、優希は現実へと浮上した。

「明日? あれ、何かあったっけ?」

 いずみが不思議そうに尋ねる。彼女も楽しみにしていたようだが、忘れたのだろうか。

「カラオケだよカラオケ。ほら、三人で遊ぶって決めただろ?」

「あ、ああそうね、そうだったね。うん、楽しみ!」

 もやもやとした何かを抱えながら、優希は適当に相槌を打っていた。

 放課後になって一人教室を出る優希の耳に、「何で失敗したんだろう……」という声が聞こえた気がした。それは彼女にとって良く知る声だったが、幻聴だろうか。いずみは他の友人と談笑していた。


   * * *


 土曜日。優希は公園のベンチに座っていた。ここが集合場所だ。

 時計を確認すると、まだ約束の時間まで十分もある。ぼんやりと空を見上げていると、誠が小走りにやってきた。

「わりぃ、遅くなった!」

「まだ時間じゃないし大丈夫だよ」

「いやでも待ってただろ?」

「まあ……」

「あ、そこは認めちゃうのね」

 誠と内容のない会話をしていると、いずみもまた走ってやってきた。

「二人ともー! ……ふうっ、はあ、遅れちゃってごめん、ぎりぎりだったでしょ?」

「ううん、私たちも今さっき来たところ」

「ええー……」

 誠が遠慮がちに声を上げる。扱いの差に不満があったようだ。優希はそれを無視してベンチから立ち上がった。

「それじゃ行こっか」

 優希が公園を出て道路を渡ろうとすると、隣の角から車が丁度出てきていた。それに優希が気付くと同時に、彼女の体は強引に後ろへ下がり、車は不自然に彼女をかわして行った。今ので、お気に入りの小物が結構な数消えたはずだ。後からやってきた誠が驚いて声を上げる。

「うわっ! ……今のは危なかったな、平気か?」

「心配しないでも大丈夫だよ。へーきへーき」

 だって悪魔が私にはついているから、と心の中で付け加えた。これでは悪魔の思う壺かもしれなかったが、それでもこの契約は優希の日常に変化をもたらした。退屈だと思っていた彼女はもういなくなっていた。

「なんで……なんで当たらないの?」

「え?」

 突如、その場に似つかわしくない低く押し殺した声が聞こえた。その発生源を辿ると、深く俯いたいずみの姿があった。二人の視線が集中しても尚、聞こえるか聞こえないかの声量で何かを呟いている。

「いずみ……?」

「どうして、あんなに平然と……私は……沢山捨てたのに……」

 明らかに尋常ではない彼女の様子に、優希と誠はかける言葉を失った。一体いずみはどうしてしまったのだろうか。

「――優希さんは貴女と違って、損得勘定が得意なようでしてね」

 突然背後から悪魔が現れた。優希の隣を通り過ぎると、いずみの目の前で立ち止まった。

「……悪魔。どういうこと?」

 優希より先に、いずみが呟いた。……彼女も悪魔が見えているのだろうか。否、何故悪魔の事を知っているのか。

「何、簡単な事ですよ。彼女の願い事に対する代価は昔の宝物などを、貴女のように記憶を支払っている訳ではないのですよ。だから願いを叶える時のダメージが貴女と優希さんでは違う。しかも願いが叶うぎりぎりの犠牲で抑えている。それに比べて貴女は、深く考えずに記憶を代価にした。もしもお釣りが来るのなら、結構戻って来たでしょうねえ」

 くっくっくと、喉の奥で笑う悪魔。振り返って優希の事を見つめる。

「さて、どうしますか、優希さん?」

「どうするも何も、これどういう状況なのよ」

「そうですね……貴女が今轢かれそうになったのも、この前不審者と出くわした事も、全ていずみさんが願ったからでした。――と言えば良いでしょうか?」

「……!」

 優希の息が止まり、じっといずみを見つめていた。昨日学校で感じた違和感が、今かちりと繋がった。そして彼女に裏切られたという事実が、優希の心を痛めつけていた。

「どう、して」

「理由? そんなの……だって貴女と浅野君、いっつも一緒じゃない。それが羨ましくて妬ましくて……。私の事を見て貰えないなら、邪魔な貴女がいなくなればいいのよ! だから悪魔に頼ってでも貴女を……もう、もう嫌! 消えてよ!」

 抑えきれない感情を言葉に乗せ、優希にぶつけた。彼女はいずみの本性を垣間見て、酷く悲しんでいた。優希は絶望に満ちた表情で、隣にいる誠を見た。縋るように、助けを求めるために。

 そして、恐らくいずみが豹変した原因である誠は――笑っていた。

「……あ、悪魔っ! 私の両腕を捧げるからっ、アイツの胸に穴を開けて!」

「ええ、確かに頂きました、貴女の両腕。ごめんなさい優希さん。……先手必勝です」

 申し訳なさそうに優希を見下ろす悪魔。いずみの激昂も、誠の笑みも、全て混乱したままの頭では処理できず、優希は自分の体を見下ろした。

 胸があった場所は既にぽっかりと大穴が空き、綺麗に切り取られた肋骨の断面も見える。その奥では、心臓が削り取られた部分からどくどくと血液を噴出していた。

「あ……ぁ……」

 徐々に視界が窄まり、やがて真っ暗になる。どこか遠いところから聞こえる悲鳴を聞こえなくなった耳で聞きながら、松原優希は絶命した。


   * * *


「……息絶えたようですね」

 悪魔が淡々と呟く。そこに優希の死を悲しむ色はなく、ただ死んだという事実を確認しただけだった。

「ふ、ふふ……やった、やったわ!」

 勝ち誇った表情で、歓喜の声を上げるいずみ。彼女には、彼らを取り囲む通行人の悲鳴は聞こえていないようだった。

「あ……浅野君、これはっ、これは違うの!」

 彼女の視線が誠を捉えた瞬間、一転して慌て始めるいずみ。

「そうだ! 悪魔、私の中の優希に関する記憶全部あげるから、彼の中から私のやったこと全部消し去って!」

「…それは出来ませんね」

 間髪入れずに悪魔は答える。

「どうして!? あ、じゃあ今日一日の記憶全部あげる! 両足だってくれていい! だからっ、彼に……嫌われたく、ない……」

「残念ですが」

 悪魔は静かに言う。つい先ほど、聡明だった契約者の命を終わらせた時のように、冷然と。

「――先手必勝、です。いずみさん」

 彼が契約したもう一人の人間の願いを、今叶える。悪魔は告げた。

「貴女は忘れられません。その手で友人を殺めたのです。そして、愛する人が今の貴女に向けている感情は……侮蔑、です」

「あ……嫌……嫌ぁ……」

 いずみは糸を切られた人形のように一度ふらついた後、はっとしたように顔を上げ、人垣を掻き分けて走り出した。交差点に飛び込み――長谷川いずみは、通過したトラックに激突し、血飛沫を撒き散らしながら宙を舞った。


   * * *


 浅野誠は、悪魔の話を聞き考えた。

 この取引は、望めば幸福が手に入る。そして代価として、その倍の不幸が襲ってくる。

 ならばどうだろう、逆転の発想だ。彼が不幸を望み、そしてその代価として倍の幸福を享受する事は出来るのか。

 悪魔に問いかけた。それは可能か? と。悪魔は答えた。可能だ。と。

 そして彼は不幸を願った。出来る限り絶望的な不幸を。

 その結果がこれだ。幼馴染は友人に殺され、その彼女もトラックに轢かれ死んだ。彼の家族も既に、不可解な方法でその命を断たれている。すべて彼が願った『不幸』だ。

「これで満足ですか、誠さん」

 悪魔は無感動に囁く。辺りは凄惨な光景だ。取り囲む人垣の中では、しゃがみ込んで吐く人間もいた。

「ああ。大切な友人が二人も死んで、家族も何者かに殺された。これ以上はないね。俺は今、狂いそうな程悲しいよ。どうしてこんなことに……」

「ふふ……とんだ茶番ですね。愚かしい。犠牲になったお二人は、今の貴方を見て何と仰るでしょうか」

 悪魔は無表情に誠を見下ろす。その貼りついた冷たい仮面の下では、人間の醜い面を目にした悪魔がじゅるりと舌なめずりをしていた。嗚呼、愉快だ。

 誠の左手からはぽたぽたと血が滴り落ちている。いずみが死ぬよう願った代償だ。左手だけで済んだのは、彼女の命をそれ程まで軽んじていたからだろうか。

「さあ、願いは叶った。代価の幸福をくれよ。……この苦しさを救って余りある幸せか。どれほどなんだろう」

「ええ、ええ。きっと気に入ると思いますよ。この辛い現実から目を背けさせてあげます」

 悪魔はこの上ない幸福を、誠に――この馬鹿で救いようの無い人間に贈った。

「え……」

「こんなに辛く苦しいのに、生きていても仕方ないでしょう? 大丈夫、すぐに楽になりますよ。全て忘れて、ぐっすりお眠りなさい」

 甘い甘い死は、ゆっくりと誠を包み込み、やがてその瞳からそっと光を奪っていった。

「ふふ……くくくっ。欲張りはいけません。手に余る願いは、巡り巡って貴方自身に返って来るのですから。さて、今回の茶番で三人の人間の魂を手に入れることが出来た。――悪魔の言葉なんか信じるから、こうなるんです」

 やがて悪魔は目を閉じ、そっと姿を消した。

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