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王都を追放されて自由なスローライフを満喫中なのに、伝説の銀狼と村娘が毎日俺の火と料理をよこせと迫ってくる  作者: 黒崎 隼人


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第1話「王都の地下室と、自由を告げる足音」

登場人物紹介


◇ノア

本作の主人公。元は日本の過酷な環境で働く会社員だったが、過労の末に異世界へ転生した。授かったスキルは小さな火を点けるだけの【灯火】。王都の地下で結界維持の要として働かされていたが、自身の価値に気づかない上司によって追放される。本人はそれを「待ちに待った退職」と受け取り、辺境で念願のスローライフを始める。実は彼の灯す火は、あらゆる瘴気を浄化し強固な結界を張る規格外の力を持っているが、本人はまったく気づいていない。年齢は20代前半。


◇ルー

辺境の森の奥深くに住まう伝説の聖獣、銀狼。本来は人間に懐くことのない孤高の存在だが、ノアの灯す純粋で温かな火に引き寄せられ、彼のもとへやってきた。ノアからはただの少し大きな犬だと思われており、ブラッシングされるのが大好き。ノアに危害を加えようとする者には容赦なく牙を剥くが、普段は彼の膝の上で丸くなっている。


◇エルナ

ノアが移り住んだ辺境の村に暮らす少女。年齢は18歳。素朴で心優しく、村にやってきたノアを温かく迎え入れる。料理が得意で、ノアの持ってきた異世界の知識に興味津々。ノアが作り出す安全で温かい空間に心から安らぎを感じており、彼のお世話を焼くのが日課になっている。


◇レオン

王都の宮廷魔術師長。プライドが高く、見栄えの良い派手な魔法を至高とする男。ノアの地味な【灯火】スキルを見下し、「結界の魔力効率を下げるだけの不要な存在」と決めつけて追放を言い渡した。ノアがいなくなったことで王都のインフラが完全に自滅し、その責任を問われて転落していくことになる。

 冷たい石畳の感触が、すり減って薄くなった革靴の底を通して足の裏からゆっくりと這い上がってくる。

 ここは王都の地下深くに作られた、日光の届かない窓一つない魔力供給室だった。

 淀んだ空気は常にひんやりとした湿り気を帯びている。

 分厚い石壁には緑色の苔がへばりつき、高い天井からは冷たい水滴が一定のリズムで床に落ちていた。

 そのかすかな水音が、重い静寂に包まれた地下室に虚しく響き渡る。

 ノアは粗末な布のズボンで手のひらをこすり、かじかむ両手の指先をゆっくりと合わせた。

 長年の過酷な労働で硬くなった手のひらや、指先にできた分厚い剣だこから、鈍い感覚が脳へと伝わる。

 彼はひび割れた唇をわずかに開き、小さく息を吸い込んだ。

 肺の奥まで冷気が入り込み、内側から体温を容赦なく奪っていく。

 ゆっくりと吐き出す白い息に合わせ、ノアは体内の魔力を丹念に練り上げた。

 血管のなかを温かい血液が巡るような感覚に、意識を深く集中させる。

 右手の親指と人差し指が交わる場所に、ごく小さな熱が生まれる。

 それは瞬く間にはっきりとした輪郭を持ち、親指の爪ほどの小さなオレンジ色の光となった。

 ノアが異世界に転生した際に授かった、たった一つのスキルである灯火の力だった。

 暗闇のなかで揺らめく光が、石造りの冷たい壁にノアの細い影を長く伸ばす。

 目の前には、見上げるほど巨大な円筒形の魔導炉がどっしりと鎮座していた。

 表面には複雑な幾何学模様が緻密に刻まれ、鈍い鋼色の光沢を放っている。

 ノアは一歩前に出て、そっと魔導炉の基部の冷たい金属に指先を触れさせた。

 凍てつくような金属の感触を確かめながら、指先の小さな炎を模様の溝へと這わせる。

 乾いた木葉が勢いよく燃え広がるように、オレンジ色の光は複雑な模様を伝って素早く広がっていく。

 魔導炉の中心部に熱が届いた瞬間、足元の石畳を揺らすような低い振動音が地下室に響き渡った。

 緻密に刻まれた文様の隙間から、青白い光が脈を打つように漏れ出し始める。

 この光こそが、王都の空を覆う巨大な防壁と、夜の街を照らす無数の魔法灯のエネルギー源だった。

 ノアの仕事は、毎日こうして魔導炉の種火を絶やさないように灯し続けることだけだ。

 太陽の光すら届かない地下室で、来る日も来る日も孤独に炎を生み出している。

 前世で日本の過酷な環境のなかで働き詰めだった記憶が、ふいに脳裏をよぎった。

 短い睡眠時間と、終わりの見えない業務の山に押しつぶされそうだった日々。

 深夜のオフィスで、眩しいパソコンのモニター画面だけを一人で見つめ続けていたあの頃。

 過労の末に命を落とし、新しい人生を手に入れたはずなのに、やっていることは何も変わらない。

 ただ生きるためだけに、冷たい石室で魂をすり減らしている。

 自分の代わりなどいくらでもいるような、誰からも評価されない単純作業の繰り返しだった。

 ノアは手のひらについた黒い煤を、古びた作業着の裾で念入りにこすり落とす。


「いつまで無駄な時間をかけている」


 背後から、硬い靴音が石の通路に響き渡った。

 ノアはわずかに肩をすくめ、すぐに姿勢を正して振り返った。


「申し訳ありません」


 そこに立っていたのは、宮廷魔術師長のレオンだった。

 金糸の繊細な刺繍が施された豪華なローブが、彼が動くたびに擦れて重たい布の音を立てる。

 右手には大きな赤い宝石が埋め込まれた杖が、これ見よがしに握られていた。

 整った顔立ちには、隠しきれない侮蔑の色がはっきりと浮かんでいる。

 彼は鼻先をかすかに歪め、ひどく不快そうにノアを見下ろしていた。


「お前のような魔力効率の悪い下級職を雇っておく余裕は、もはやこの王都にはない」

「それは、どういう意味でしょうか」

「言葉通りの意味だ。お前は本日をもって解雇とする。この王宮から直ちに出て行け」


 ノアはゆっくりとまばたきをした。

 鼓膜を震わせた冷たい言葉の意味を正しく理解するまでに、数秒の時間を要した。

 冷たい石室の空気が、急にぴんと張り詰めたように感じられる。


『解雇、だと』


 胸の奥深くで、小さな感情の火種が小さくはぜるのを感じた。


「私の代わりに、魔導炉の火は誰が維持するのでしょうか」

「笑わせるな。お前が少しずつ注いでいる魔力など、優秀な魔術師が炎の魔法を一度放てば事足りるのだ。お前が持つ底辺職のスキルなど、王都の魔力システムにおいてなんの価値もない」


 レオンはきっぱりと言い放った。

 その目には、道端の取るに足らないものを見るような冷酷な色が宿っている。

 ノアは下唇を軽く噛んで、静かにうつむいた。


『笑いそうになるのを、こらえるのに必死だった』


 ノアの心の中には、理不尽な宣告に対する怒りも悲しみも一切存在しなかった。

 あるのは、手足を縛っていた分厚い鉄の鎖が音を立ててちぎれ飛んだような、心地よい解放感だけだ。

 前世からずっと、彼は誰かに命じられるままに働き続けてきた。

 自ら辞めるという選択肢すら、すり減った思考回路には浮かんでこなかったのだ。

 それが今、向こうから勝手に縁を切ってくれた。

 ノアは静かに深く頭を下げ、その歓喜に満ちた表情をレオンから隠した。


「承知いたしました。これまでお世話になりました」

「ふん。自分の無能さを自覚しているなら、さっさと荷物をまとめて消えろ」


 レオンは冷たく言い捨て、背を向けて立ち去った。

 金糸のローブが冷たい床を擦る音が、通路の奥へと次第に遠ざかっていく。

 硬い靴音が完全に聞こえなくなるまで、ノアは深く頭を下げ続けた。

 誰もいなくなった地下室で、ノアはゆっくりと顔を上げる。


『終わったんだ』


 ノアはかすれた声でつぶやいた。

 肺の底に溜まっていた重たく淀んだ空気を、すべて吐き出すように大きく深呼吸をする。

 両肩に乗っていた目に見えない重圧が、朝霧のように消え去っていた。

 ノアは狭くて暗い自分の控室に戻り、少ない荷物をまとめ始める。

 部屋の隅に置かれた木箱を開けると、中には埃をかぶった私物がわずかに入っていた。

 持ち物と言えば、着替えの粗末なチュニックと、少しばかりの銅貨が入った小さな麻袋だけだった。

 布の表面がすり切れた水筒と、使い古して薄くなった毛布を一枚追加する。

 私物と呼べるものは、たったそれだけで両手にすっぽりと収まってしまった。

 五年間の王宮生活で得たものがこれだけだという事実に、ノアはかすかな苦笑をこぼす。

 それでも、その身軽さが今のノアにはたまらなく心地よかった。

 彼は麻袋の紐をきつく結び、肩に担ぎ上げる。

 部屋を出る直前、ノアは一度だけ魔導炉の方を振り返った。

 青白い光が、一定の静かなリズムで明滅を繰り返している。

 自分が灯した小さな炎が、巨大な王都の命脈を根本から保っている。

 そんな大層な考えは、ノアの頭には微塵も浮かんでいなかった。


『もう、こんな冷たい場所で火を灯す必要はないんだ』


 ノアは後戻りすることなく、前を向いて歩き出した。

 地下室から地上へと続く長い螺旋階段を、一段ずつしっかりと踏みしめるように登っていく。

 地上に近づくにつれて、空気が少しずつ乾燥し、微かな暖かさを帯びていくのを感じる。

 重い鉄の扉を力強く押し開けると、眩しい太陽の光がノアの目を激しく刺した。

 彼は思わず目を細め、手のひらをかざして日差しを遮る。

 吹き抜ける心地よい風が、汗ばんだ前髪を優しく揺らした。

 王都のざわめきが、通りを挟んで遠くから耳に届く。

 馬車の木の車輪が石畳を転がっていく乾いた音。

 商人たちが道行く客に向けて声を張り上げる野太い声。

 焼きたてのパンの匂いと、馬の獣臭さが風に乗って鼻をくすぐる。

 色とりどりのテントが並ぶ市場では、果物売りの老人が客と値段交渉をしている。

 磨き上げられた銀色の鎧を着た騎士たちが、規則正しい足音を立てて巡回していた。

 活気に満ちた王都の風景が、ノアの視界に鮮やかに飛び込んでくる。

 しかし、ノアの心はすでにこの騒がしい街の風景から遠く離れていた。

 彼は空を見上げ、もう一度大きく深呼吸をした。

 冷たく淀んだ地下の空気とはまったく違う、土と草の匂いが混じった外の空気だった。


『どこへ行こうか』


 明確な目的地など、初めから決まっていない。

 ただ、誰も自分のことを知らない、緑豊かな静かな場所へ行きたい。

 木々に囲まれた辺境の村で、誰の目も気にせず、ただ暖かくして眠りたい。

 ノアの足取りは、背中に羽が生えたようにひどく軽かった。

 彼は振り向くことなく、王都の巨大な石造りの正門へと向かって歩き出した。

 すれ違う着飾った貴族たちも、忙しなく歩く平民たちも、誰もノアのことなど気にも留めない。

 すり切れた衣服をまとったみすぼらしい青年が、王都の命運を握る唯一の存在であったことなど誰も知らないのだ。

 ノア自身さえも、自分の生み出す火がどれほど特別で根源的なものか、まったく気づいていなかった。

 ただ、口の中に広がる自由の味をゆっくりと噛み締めながら。

 ノアは果てしなく広がる青空の下を、足早に歩き続けた。

 王都の巨大な防壁が、次第に背後へと遠ざかっていく。

 城門を抜けた瞬間、頬を撫でる風の温度がわずかに変わったような気がした。

 街道の両脇には、背の高い木々が風に揺れて葉鳴りの音を立てている。

 靴底が石畳から土の道へと変わり、歩くたびに柔らかい感触が足に伝わる。

 ノアはもう、誰の顔色をうかがう必要もない。

 自分のためだけに、自分の力を使うことができる。

 そう考えただけで、凍りついていた心が少しずつ溶けていくのを感じる。

 長い長い夜が明けて、新しい朝の光がノアを包み込んでいるようだった。

 彼の向かう先には、名も知らぬ辺境の深い森が広がっている。

 そこがノアの、新しい人生の本当の出発点となるのだった。

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