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潮騒後宮のごはん灯台令嬢 ――悪役扱いの転生令嬢は、地水師として食卓と航路を立て直します――  作者: 乾為天女


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第9話 地水師見習いの仮札

 翌朝の海風宮は、まだ鐘が二つしか鳴っていないのに、もう昼前みたいな忙しさだった。


 海開きの日は、人の足音だけで空気が温まる。北棟の廊下を行き交う女官たちは白い布を抱え、厨房の小僧は桶を両腕にぶら下げ、港へ下る裏門では見物台用の縄が肩から肩へ渡されていく。昨日、礼靴が港へ紛れこみかけた騒ぎがあったせいで、どの顔もいつもより半歩だけ鋭い。笑う者もいるが、笑い声はすぐ仕事の音へ溶けた。


 クリスティンは寝不足の目をこすりたいのをこらえ、北井戸へ向かう石段を下っていた。


 昨夜、港でベルント師に言われた言葉が、起きてからずっと胸の内に残っている。


 ――明日、北井戸を見ろ。


 嫌なら断れと言われた。なのに、断るという選択は起きたときから頭になかった。礼靴を追ったあの透明な糸が、井戸から台所へもつながるのなら、見ないふりはできない。怖くても、見えてしまったものの行き先を確かめたい。そう思ってしまった時点で、もう昨日までの自分ではなかった。


 石段の下で待っていたベルント師は、今朝も古びた外套に杖という格好で、海風宮のきらびやかさからはきれいに浮いていた。


 「遅くはない。だが、井戸は待ってくれんぞ」


 挨拶の代わりみたいに言われる。


 「はい」


 「返事は短くてよろしい。目はどうじゃ」


 「少し眠いです」


 「結構。眠い朝に見えるものは、本当にそこにあるものだけじゃ」


 理屈のようで理屈でない言葉だったが、ベルント師の口から出ると、そういうものかもしれないと思えてしまう。


 北井戸は、海風宮の北中庭のはずれにあった。観賞用の泉や飾り花から遠く、石壁と荷台置き場に挟まれた、実務のためだけにある場所だ。丸い井戸屋根の下には太い滑車、脇には地下の貯水槽へ落とすための分水桶、さらに先には厨房と洗い場へ続く石管の点検口が三つ並んでいる。


 見た目は地味だが、ここが止まれば北棟の台所も洗い場もたちまち干上がる。海開きで人が増える今日は、なおさらだった。


 すでにマギーとヤコブが来ている。マギーは腕を組み、井戸端へ来るたびに長い裾が汚れることなど最初から勘定に入っていない顔をしていた。ヤコブは点検帳を抱え、昨日の港の荷札まで挟んであるらしい帳面へ何かを書きつけている。サビーナはその隣で筆記板を持ち、緊張のせいか、まだ何も書いていないのに背筋だけやけに伸びていた。


 少し遅れて、クリストフも図面筒を肩へ下げて現れた。


 「北井戸の系統図、古いものですけど持ってきました。海開きの日は臨時の手洗い桶を増やすので、流れが変わります」


 昨日の疲れが残っているはずなのに、彼の声はいつもどおり穏やかだった。筒を開いた拍子に、あの蜂蜜みたいなインクの匂いが少しだけ風に乗る。その香りを嗅ぐと、クリスティンの胸の内のざわつきがほんの少し収まるのが悔しい。


 ベルント師は井戸を見上げた。


 「では、お嬢さん。まず何が変か、言うてみろ」


 いきなりだ。


 けれど、見ればわかることもあった。


 滑車の縄は新しいのに、桶の縁には昨日から乾ききらない泥が筋になっている。分水桶の内側は片側だけ濡れ色が濃く、石管の点検口のうち中央の蓋にだけ白い粉が吹いていた。何より、井戸のそばに立っても、ふつうなら聞こえるはずの水の響きが鈍い。


 「……水が落ちる音が浅いです」


 クリスティンが言うと、ベルント師が顎を引いた。


 「続けろ」


 「中央の管にだけ、乾いた跡が残っています。昨日のうちに流れが弱くなって、今朝さらに落ちたんだと思います。厨房へ回る前のどこかで詰まっているか、分水がうまく行っていません」


 ヤコブが帳面をめくる。


 「夜明けの汲み上げ量は昨日比で三割減だ。洗い場の者が先に騒ぎ出した」


 「三割なら、まだ完全には死んでおらん」


 ベルント師の杖が石管の蓋をとんと叩いた。


 「見えるか」


 その問いが来るのを待っていたみたいに、クリスティンは息を整えた。


 井戸の石縁へ指先を置く。


 朝の冷気を吸った石は、ひやりとしていた。その冷たさの奥へ神経を沈めると、目の縁にごく薄い光が浮かぶ。井戸の底から上がってくる透明な線。分水桶へ入って、中央の石管へ流れるはずの線が、途中で急に細くなる。しかも細くなった先に、灰色の塊が絡みついていた。泥とも藻とも違う、繊維が何重にも丸まったような鈍い影。


 「中央です」


 クリスティンは目を開けた。


 「地下の分岐の、すぐ先。何かが引っかかっています。硬い石じゃなくて、やわらかいものが何層か」


 クリストフが広げた図面へ身をかがめる。


 「分岐のすぐ先なら、点検口の真下です。ここは北厨房と洗い場へ分かれる前の絞り管になっています」


 「絞る場所へ布なんぞ詰まれば、そりゃあ止まる」


 ベルント師が言う。


 「では蓋を開ける。お嬢さん、おぬしが見て指示しろ」


 「私がですか」


 思わず声が裏返った。


 ヤコブが目だけ上げる。


 「ここに来た時点で他人事の顔をするな」


 冷たいが、昨日までみたいな突き放し方ではなかった。逃げるのなら今だぞ、と道だけは残している声音だ。


 マギーはその横で、髪留めの位置を直しながら言った。


 「見えたと言った以上、最後まで付き合いなさい。途中で震えるのは勝手だけど、手は止めないこと」


 震えるのが前提なのだな、とクリスティンは少しだけ可笑しくなった。笑う余裕はないはずなのに、その一言で、かえって足が地につく。


 中央の点検口の石蓋は、男手二人でようやく持ち上がる重さだった。クリストフと井戸番が鉄棒を差しこみ、ぎり、と鈍い音を立ててずらす。蓋の隙間から、湿った土と石灰の匂いがむっと立った。


 暗い。


 地下へ下りる穴は人ひとり肩をすぼめて入れるほどで、すぐ下に幅の狭い作業溝が見えた。そこを浅い水が流れているはずだが、今は光の反射が弱い。


 ベルント師が灯り石を放る。青白い光が底で弾み、ようやく内部が見えた。


 石管のつなぎ目に、灰黒い塊がぴたりと張りついている。


 藻ではない。布屑と麻と、細い海草の切れ端が水を吸って膨らみ、結び玉みたいに詰まっていた。周りには白い補修材の欠片までへばりつき、流れをさらに細くしている。


 「本当に布だ……」


 サビーナが小さくつぶやく。


 ベルント師はクリスティンへ細い金属棒を渡した。


 「つついて崩せば終わり、と思う顔をしたな」


 「少しだけ」


 「やるな。半端に崩れると、今度は先で詰まる」


 棒を受け取りながら、クリスティンは穴の縁へ膝をついた。井戸の冷気が袖口から入りこむ。下をのぞくと、詰まりの向こうで細い水がいらいらしたみたいに震えていた。


 「どうすれば」


 「考えろ。見えとるんじゃろう」


 乱暴なようで、ベルント師は答えを与えない。


 クリスティンはもう一度石へ触れた。透明な糸は、詰まりの手前で押し合っている。奥のほう、右側にわずかなすき間があり、そこだけ流れが生きていた。全部を一気に崩すのではなく、まずそのすき間を広げ、流れを作り、残りをこちらへ引き戻すべきだ。たぶん。


 たぶん、で人の仕事場を止めるのか。


 胸の奥で、前世の記憶がふいに顔を出す。月末、出荷伝票の番号をひとつ打ち間違えただけで、箱が別の県へ飛びかけた夜。自分のせいで現場の誰かが余計に走ることになると知った瞬間の、胃が落ちる感じ。謝れば終わる仕事ではなかった。


 今も同じだ。


 ここで間違えれば、海開きの厨房が止まる。洗い場があふれる。叱られるのは自分だけでは済まない。


 クリスティンは息を吐いた。


 「洗い場側の蛇口をいったん全部閉じてください。厨房の方は底の樽へ最低限だけ回して、他は止めます。流れを一方向に寄せたいです」


 ヤコブがすぐに井戸番へ指を振る。二人の小僧が走っていった。


 「それから、細い鉤と、網。できれば口の狭い桶。崩れたものを先で拾います」


 「あります!」


 サビーナが勢いよく返事をしてから、自分の声の大きさに驚いた顔をした。だがそのまま駆けていく。


 クリストフは図面を押さえたまま穴の脇へ膝をついた。


 「右側に逃がすなら、少し手前の継ぎ目に空気抜きがあります。そこを開ければ押し返しが弱くなるはずです」


 彼が示した位置は、まさに透明な糸がかろうじて細っていないところだった。クリスティンは思わず顔を上げる。


 「見えて……」


 言いかけて、やめる。


 見えているのは自分だけだ。でも、彼は図面と水音から、同じ答えへたどり着いている。


 「たぶん、ですよ」


 クリストフは少しだけ笑った。


 「たぶんが重なると、少し強くなります」


 その言い方に、胸の内の緊張が一瞬だけほどけた。


 サビーナが鉤と網と桶を抱えて戻り、マギーはいつの間にか裾をからげていた。筆頭女官がこんな場所で膝を出しているのを見たら、上の者たちは卒倒するかもしれない。けれど当人は気にした様子もなく、穴の脇へしゃがむ。


 「落ちるなら先に落ちなさい。引き上げる人手はあるわ」


 「落ちません」


 「その台詞、あとで回収することにならないといいわね」


 まったく励ましている気がしないのに、不思議と背中が押される。


 クリスティンは肩をすぼめ、点検口の内側へ身を入れた。


 石壁はひんやりと濡れ、膝がすぐ泥で汚れる。狭い。息を深く吸うと肩がつかえそうだ。下を流れる水は足首にも届かない浅さなのに、暗い場所ではそれだけで心細い。


 灯り石の青白さの中で、詰まりは想像以上にいやな形をしていた。布と麻と海草が、誰かの髪を丸めて押しこんだみたいに固まっている。しかも白い補修材が表面を半ば固めていて、ただのごみでは済まない。


 誰かがわざとやったのか。


 その考えがよぎる。


 だが今は、考えるより先に動くべきだった。


 クリストフが上から小さな金具を差し入れる。


 「空気抜き、開きました」


 その声と同時に、水の震え方が少し変わった。押し返す力が弱まる。


 クリスティンは鉤の先を、詰まりの右端のすき間へそっと差しこんだ。透明な糸がそこだけ細く光っている。傷つけないよう、崩しすぎないよう、ほんの少しだけ持ち上げる。


 ぬるり、と嫌な感触が伝わった。


 次の瞬間、細い水がひゅっと抜けた。


 「今です、網!」


 サビーナが差し出した小網へ、黒い繊維の束が流れこむ。まだ半分。けれど止まりかけていた水が、一息ついたみたいに動き出す。


 ベルント師の声が上から落ちた。


 「よい。もう一息、欲張るな」


 欲張るな。


 それがいちばん難しい。少し流れたからといって、全部いける気になってしまう。前世でも、数字が少し合い始めると、残りを一気に片づけたくなって、余計なミスをした夜が何度もあった。


 クリスティンは歯を食いしばり、右端だけを狙った。二度、三度、繊維を引き抜く。白い補修材の欠片が崩れ、水が濁る。泥の匂いが強くなる。


 「……っ」


 四度目に鉤を入れた瞬間、塊の中心がずるりと動いた。


 まずい、と思ったときには遅かった。


 詰まりが半分ちぎれ、そのまま手前へ滑った。水が一気に走る。細かった流れが、堰を切ったみたいに膝へぶつかった。


 「クリスティン!」


 上からクリストフの声。


 彼女は咄嗟に壁へ片手をつき、もう片方の手で残った塊を抱えこむように押さえた。流してしまえば先で詰まる。そう思った体が勝手に動いた。


 だが、勢いを増した水は容赦がない。泥と冷水が袖から胸元まで跳ね上がり、視界が一瞬真っ白になる。


 次の瞬間、頭上から伸びた手が手首をつかんだ。


 クリストフだった。


 穴の縁ぎりぎりまで身を乗り出し、落ちそうな姿勢で彼女を支えている。


 「そのまま、離さないで」


 息を詰めた声が近い。


 握られた手首が熱い。こちらは全身ずぶ濡れで、泥だらけなのに、そんなことを考える余裕が一瞬だけあったのが腹立たしい。


 「離しません……っ」


 言い返しながら、クリスティンは抱えた塊を網へ押しこむ。サビーナとマギーが上で一緒に引き上げた。最後に残った補修材の破片を棒で崩すと、石管の中を、今度こそ途切れのない透明な線が走った。


 ごぼ、と低い音。


 続いて、井戸の奥で水が満ちる響きが大きくなる。分水桶へ落ちる音がひとつ、ふたつ、みるみる太くなっていった。


 「流れた!」


 井戸番が叫ぶ。


 遠く、北厨房の方からも声が上がる。水受け樽へ勢いよく落ちる音が、ここまで届いたのだろう。


 クリスティンはその場へへたりこみそうになったが、狭い溝の中なのでそれもできない。結局、ベルント師に「邪魔じゃ、上がれ」と言われて、ようやく現実へ戻った。


     *


 点検口から引き上げられたクリスティンは、頭の先から袖まできれいに濡れていた。


 髪の先からぽたぽた水が落ちる。頬に泥がつき、実務靴の中まで冷たい。さっきまでの緊張が少しずつ抜けていくにつれ、自分がとんでもなくみっともない格好をしていることがわかってきた。


 だが、周りの視線は思ったよりずっとやわらかい。


 サビーナが網の中身を桶へ移しながら、顔をしかめた。


 「うわ、これ、布だけじゃありません。海草と、古い麻紐と……魚の鱗まで」


 ヤコブが桶の中をのぞく。


 「補修のとき使った詰め物が、剥がれて飲みこんだか。いや、麻紐の結びが妙だな」


 彼は指先で泥を落とし、一本の紐をつまみ上げた。濡れて黒くなっているが、端に蝋が引いてある。荷札用の麻紐に近い加工だ。


 クリストフも眉を寄せる。


 「港の荷で使う防湿紐と似ていますね」


 礼靴の件が脳裏をかすめる。


 けれど、ベルント師はすぐに結論へ飛ばなかった。


 「似ておる、だけで人を吊るすな。井戸は何年ものごみを覚えておる。今朝入ったものと去年のものが隣り合うこともある」


 その言い方は厳しかったが、誰かをかばう甘さではなく、現場の時間を知っている人の重さだった。


 ヤコブは不満を飲みこんだらしく、紐を布へ包んで帳面へ挟みこんだ。


 「記録は残す」


 「そうせい」


 ベルント師はそこでようやく、クリスティンへ向き直った。


 「お嬢さん」


 呼ばれて背筋が伸びる。


 「今のは何点じゃ」


 点数をつけられるとは思っていなかった。クリスティンは目を瞬かせる。


 「ええと……途中で崩しすぎたので、低いです」


 「何点」


 「四十点、くらいでしょうか」


 「三十五点じゃな」


 思ったより低かった。


 サビーナが思わず「えっ」と顔に出し、マギーが口元を押さえて笑いをこらえる。クリスティンは濡れ鼠のまま立ち尽くした。


 ベルント師の杖先が、点検口の縁を軽く叩く。


 「見えた。流れを一方向に寄せた。崩れたものも拾う段取りをつけた。そこまではよい。だが、自分が落ちる位置まで身を入れた。あれは三十五点の動きじゃ」


 「……はい」


 反論できない。


 実際、さっきクリストフに掴まれなければ、前のめりに滑っていたかもしれない。流れを止めたい気持ちが先へ出て、足場のことを忘れた。


 ベルント師はそこで、懐から小さな札を取り出した。


 薄い銅板に、波と石垣を重ねた印が打ってある。紐を通せる穴が上にひとつ。磨かれてもいない、実務の道具としての顔つきをした札だった。


 「三十五点でも、見えん者よりは働ける。海風宮付き地水師見習いの仮札じゃ。本札ではない。海風宮の敷地内だけ。井戸、貯水槽、台所脇の石管、せいぜいそこまでじゃ」


 クリスティンは一瞬、札の意味を飲みこめなかった。


 昨日まで、自分はただの食糧庫付き書記だった。帳簿と在庫と余り食材の使い道を考える、それでも十分に手一杯だったはずの人間だ。その自分へ、今、別の役目の証が差し出されている。


 「受け取るか」


 ベルント師の声は淡々としていた。


 受け取れば、次からは「見習いだから」で済まない。見たのに言わなかった、気づいたのに逃げた、そういう後悔まで自分の分になる。


 前世で、荷物の流れのどこかに自分の名前が乗るたび、怖かった。ずれたら責任が来る。間違えたら謝るだけでは足りない。だからこそ、黙って裏方をしていればいいと思っていた部分もあった。


 けれど、ここで札を見送ったら、たぶん一生、今朝の水音を思い出す。


 詰まりが抜け、石管の向こうで水が走り出したあの音。誰かの仕事場へ「間に合った」と届く感じ。あれを知ってしまったら、もう無関係なふりはできない。


 クリスティンは泥のついた指を、いったんスカートで拭った。それから両手で札を受け取る。


 銅板は、思ったより冷たかった。


 「……受け取ります」


 ベルント師が短くうなずく。


 その横で、ヤコブが鼻を鳴らした。


 「現場を増やせば、粗も増えるぞ」


 祝いの言葉ではない。けれど、いつものようにただ見下ろす口調でもなかった。数字の欄が増える、と告げる会計係の声音だ。


 クリスティンが何か返す前に、マギーがきっぱり言った。


 「粗が増えるなら、責任も一緒に増やせばいいだけでしょう」


 彼女は濡れた髪を肩へ払ったクリスティンの胸元へ、仮札の紐を通した。


 「見習いって便利な言葉で甘やかす気はないわよ。食糧庫の帳面も、井戸の点検も、どっちも中途半端にしたら私が叩くから」


 「はい」


 「返事が軽い」


 「……はい」


 言い直すと、マギーはようやく満足したらしく、口の端を上げた。


 クリストフが少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた。彼の手には、さっきまで使っていた図面と、泥のついた手袋がある。視線が合うと、彼はそっとハンカチを差し出した。


 白ではなく、薄い灰青色の実用的な布だった。角に小さく灯台の刺繍が入っている。


 「濡れたままだと風邪を引きます」


 「ありがとうございます」


 受け取って頬の泥を拭うと、布からもあの甘い香りがした。万年筆のインクが移ったのだろうか。こんなときにそんなことへ気づく自分が少し恨めしい。


 「さっきは」


 クリスティンが小さく言う。


 「助けてくださって、ありがとうございました」


 「こちらこそ」


 「え」


 「指示が早かったので、図面が役に立ちました」


 そう返されると、照れる暇もなくなる。彼はたぶん本気でそう言っている。相手を持ち上げるためでなく、仕事の流れの中で必要だった部分をそのまま言葉にしているのだ。


 だから困る。


 胸の奥の温度だけが、泥や井戸水とは別にじわりと上がっていく。


     *


 北厨房へ戻ると、水の回復はすでに目に見える形で現れていた。


 大鍋の下では火が途切れず、洗い場の桶は次々に満たされ、朝から不機嫌だった料理人たちの肩の動きが少し軽くなっている。ネルソンは樽の縁を叩いて水の音を確かめると、こちらに気づいて豪快に目を見開いた。


 「おお、ずいぶん立派に濡れたな!」


 祝いなのか何なのかよくわからない第一声だった。


 「井戸に落ちたわけじゃありません」


 「でも、井戸と喧嘩はした顔だ」


 笑いながら、彼は温めた布巾を差し出してくる。その気安さがありがたい。


 「水、間に合いました?」


 「今のところはな。遅番用の粥も止めずに済む。洗い場も持ち直した。助かったよ」


 ネルソンはそう言ってから、クリスティンの胸元で揺れる仮札に気づいた。


 「おや」


 大きな指が札を指す。


 「これは、とうとう井戸まで面倒を見る人になったってことか」


 「見習いです。海風宮の中だけの」


 「見習いでも札は札だ。じゃあ今夜の汁の塩気が変だったら、井戸のせいか腕のせいか、一緒に相談できるな」


 つまり仕事が増えるという意味である。


 ネルソンらしい祝福に、クリスティンはようやく少しだけ笑った。


 だが、その笑みは長く続かなかった。


 ヤコブが北厨房の隅の机を借り、今朝の点検記録を書き始めたからだ。井戸の流量低下、点検口開放、詰まり除去、回収物。欄がいくつも増える。そこへ新しく、クリスティンの名も入るのだろう。


 自分の仕事が、紙の上に一行として残る。


 うまく行った日の印であると同時に、次に失敗したときの目印にもなる。


 胸元の仮札は、つけたばかりなのにもう重かった。


 マギーがその机の横で、帳面をのぞきこむクリスティンを見た。


 「浮かれてないのは偉いけど、沈みすぎるのも違うわよ」


 「浮かれてはいません」


 「顔に出てる。札が来た瞬間より、帳面を見た瞬間のほうが青いもの」


 図星だった。


 クリスティンは視線を落とす。


 「……うれしいんです。でも、それより先に、怖いです」


 「何が」


 「今朝みたいに、途中で判断を間違えたらと思うと。井戸ひとつでこれなら、もっと大きな場所では私、簡単に人に迷惑をかけます」


 前世で何度も味わった感覚だった。責任がある仕事をしたいと思うくせに、責任が自分の名前へ乗る瞬間、足がすくむ。


 マギーは机へ片手をつき、少しだけ身をかがめた。


 「迷惑をかけない人間なんて、現場にはいないわ」


 言い切る。


 「いるのは、迷惑を隠して次を壊す人間と、出した迷惑の後始末を覚える人間だけ。どっちになるかは、今から決めればいいでしょう」


 叱責でも慰めでもない声だった。


 ただ、海風宮で長く働いてきた人の実感が、そのまま置かれたみたいな言葉。


 クリスティンはゆっくり息を吸った。


 後始末を覚える人間。


 それなら、なれるかもしれない。少なくとも、なりたいと思った。


 そのとき、北厨房の出入口で小さなざわめきが起きた。洗い場の若い女官が駆けこんできて、マギーへ一礼する。


 「北棟の手洗い桶、二番だけ水のにおいが違うそうです」


 ヤコブとクリストフが同時に顔を上げた。


 ベルント師はもういない。いつの間にか、風のように去っていた。


 マギーの目が、クリスティンの胸元の仮札へ落ちる。


 「見習い」


 呼ばれただけで、背筋が伸びた。


 「はい」


 「行ける?」


 怖い。


 さっきまでの冷たさが、まだ袖口に残っている。なのに、足はもう半歩前へ出ていた。


 「行きます」


 ヤコブが帳面を閉じる。


 「記録は私が持つ。今度は落ちるなよ」


 クリストフも図面筒を手に取った。


 「二番桶なら北回廊側です。配管の曲がりが多い」


 ネルソンは大鍋の蓋を押さえながら、こちらへ顎をしゃくる。


 「昼までには戻れ。腹が減ると判断が雑になる」


 次々に飛んでくる声が、ばらばらなのに、同じ方向を向いていた。


 自分ひとりで背負うのではなく、それぞれの持ち場から押されて進む感じがある。


 クリスティンは胸元の仮札を一度だけ握った。冷たい銅板が、指の熱で少し温む。


 うれしさより先に怖さが来る。それでも進む。


 たぶん、それが今の自分にできる、いちばんまっとうな受け取り方だった。


 北回廊の窓の外では、海開きの旗が潮風に大きくふくらんでいる。白い布がひるがえるたび、遠い港の光がちらちらと跳ねた。


 灯りも水も、止まれば誰かが困る。


 ならば、次に止まりそうな場所へ、自分の足で行くしかない。


 クリスティンは濡れた裾のまま歩き出した。まだ少し重い胸元の札が、歩幅に合わせて小さく鳴る。新しい仕事の音は、きれいではないけれど、たしかに耳へ残った。



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