第8話 ガラスの靴は倉庫に落ちている
海風宮の朝は、いつもより白かった。
海開きの儀式を明日に控え、北棟の渡り廊下には、洗いたての布と磨き上げられた銀具がずらりと並んでいる。潮を映す青銀の飾り布、皇族用の卓へ運ぶ細脚の器、儀式のあとの軽食に使う冷やし皿。どこを向いても人が動き、声をひそめた急ぎ足が絶えない。
クリスティンも朝一番から帳場と倉庫を往復していた。海開きの日は、本宮だけでなく港の見張り台にも軽食と飲み物を回す。塩を利かせた干魚の包み、柑橘水の瓶、船乗り向けの固焼き菓子、暑気あたりを避ける薄荷葉。いつもより細かな配り分けが必要で、帳面の余白は朝からもう足りない。
「北棟分の氷札、これで合ってる?」
サビーナが駆けこんできて、濡れた髪を後ろへ払いながら木札を差し出した。
「合ってるわ。冷やし皿用が二、果実用が一、礼装室用が一。礼装室は魔鉱が熱を持ちやすいから、長く置かないようにって書き添えて」
「うん、って言いたいところだけど、今日は礼装室が朝からぴりぴりで」
「何かあったの?」
サビーナは答える前に、廊下の向こうをちらりと見た。
そのときだった。北棟の奥から、いつもの海風宮にはあまり似つかわしくない、硬く短い声が飛ぶ。
「扉を閉めて。誰も出入りさせないでちょうだい」
メロディだった。
ふだんなら、どんなに忙しくても声音のどこかに軽さを残す人だ。けれど今の声には、針先みたいな緊張がそのまま入っている。
クリスティンとサビーナは顔を見合わせ、同時に足を速めた。
北棟の礼装室前には、すでにマギーとヤコブが来ていた。扉の前に立つ女官たちの顔色はそろって悪く、開いたままの箱台の上には、白い布をかけられた長細い箱がひとつ置かれている。
「何があったんですか」
クリスティンが声を潜めて問うと、マギーは振り向かずに答えた。
「海開きの礼靴が片方ない」
その一言で、廊下の空気が急に冷えた気がした。
海開きの儀式で皇族が履く透明魔鉱の礼靴は、海風宮でも特別扱いの品だ。澄んだ氷みたいな光を湛え、波打ち際で朝日を受けると、足もとだけがひときわ明るく見えるという。高価なだけでなく、帝国の海の無事を祈る儀式具でもある。
その片方が、箱から消えた。
メロディが布をめくる。白絹の台座の上に、右足用だけが載っていた。左のくぼみは空で、押し花ほどの薄い銀糸だけが一本、台座へ張りついている。
「夜明け前、磨き直しのために箱を開けたときには一対そろっていたの」
メロディの声は落ち着いていたが、指先はほんの少しだけ強く箱の縁を押さえていた。
「そのあと、礼装室へ氷を入れ、飾り布の受け渡しをし、軽食卓の配置図を持ち込み、扉の開閉が重なった。誰かがそこへ紛れたか、あるいは最初から別の箱へ移したか」
ヤコブが帳面を開き、硬い口調で補った。
「鍵を触れた者は限られている。だが、礼装室前を通った者は多い。食糧庫側も例外ではない」
その場にいた何人かの視線が、揃ってクリスティンへ寄った。
胸の奥がひやりとする。
食糧庫の者が朝から氷を運び、軽食用の器を届け、礼装室前を出入りしたのは事実だ。それに昨夜、自分は北棟の渡り廊下を遅くまで歩いていた。今朝の噂を知っている者なら、面白半分の尾ひれまで付けるだろう。
サビーナが小さく息をのんだのがわかった。
「私、クリスティン様と朝から一緒に――」
「かばい立ては後でいい」
マギーが短く言った。
きつい言葉だったが、責める響きではなかった。まず事実を並べろ、という現場の声だ。
クリスティンは拳を握りそうになるのをこらえ、空の台座を見た。
笑われるより疑われるほうが、ずっと息が詰まる。
けれど、ただ傷ついて立ち尽くしていても、靴は戻らない。
「……箱を見せてください」
ヤコブの眉がわずかに動く。
「何がわかる」
「わからなくても、見ないよりはましです」
メロディが無言で半歩下がった。許可の代わりだ。
クリスティンは箱台の前へ膝を折る。
白絹の台座は、磨き粉の香りと、朝に替えたばかりの氷の冷気を吸って、ひやりとしていた。空の左足のくぼみへ指を近づける。触れる寸前、目の奥で細い光が揺れた。
まただ。
水漏れを見つけたときと同じ、あのほとんど見えない透明な糸。
今度のそれは、水脈のように地面を流れるのではなく、絹の上から細く浮き、扉の方へ伸びていた。朝日を受けた氷の縁みたいに淡く、見失えば二度とつかめないほど薄い。
クリスティンは息を止める。
糸は扉を抜け、廊下の床石をなめるように曲がり、北棟の荷下ろし口へ向かっていた。
人の部屋でも、衣装棚でもない。
「……倉庫の方です」
思わず口に出すと、ヤコブが低く聞き返した。
「何だと」
「礼装室から持ち出したなら、北棟の奥じゃありません。荷下ろし口の方へ行っています」
言ったあとで、説明のしようのない確信だけが先走ったことに気づく。だが引っ込められなかった。
すると背後から、落ち着いた声がした。
「北棟の荷下ろし口なら、今朝のうちに港向けの木箱が三つ出ています」
クリストフだった。
いつの間に来たのか、扉口に記録板を抱えて立っている。今朝もきちんと整えられた髪の先へ海霧の湿りが残り、革鞄の口からはいつもの蜂蜜めいたインクの香りがわずかに漂っていた。
「海開きの見物台用の備品、港詰所向けの涼水、灯台局への式次第控え。受け渡し印は僕が港側で確認しました」
「なぜ今それを」
ヤコブが問う。
「礼装室の騒ぎが廊下まで聞こえました。それに、朝の搬出記録と照らす価値はあります」
クリストフはそこで、空の台座へ視線を落とした。クリスティンと目が合う。彼は余計な慰めを言わず、ただすぐに帳面を開いた。
そのことが、今はありがたかった。
「荷下ろし口を見に行きましょう」
*
北棟の荷下ろし倉庫は、礼装室のきらびやかさとは正反対の場所だった。
床は厚い板敷きで、朝の搬出で削れた木屑がまだ隅に残っている。海風を避けるため窓は高く、差しこむ光は細い。壁際には空になった縄籠、藁束、荷札の切れ端が積まれ、忙しい朝の跡がそのまま取り残されていた。
クリスティンが中へ入ると、またあの透明な糸が見えた。
礼装室から伸びた細線が、この倉庫の床板の上でいったん濃くなる。そこでぐるりと弧を描き、今度は外へ、坂を下る石畳のほうへ向かっている。
まるで、ここで一度置かれたみたいに。
「止まって」
彼女は思わずしゃがみこんだ。
板の継ぎ目に、何かが引っかかっている。藁屑かと思ったが、摘まむと硬く、朝日に透けた。
小指の爪ほどもない、透明な欠片だった。
メロディが息をのむ。
「礼靴の踵飾りの縁……」
「欠けたんですか」
「表面じゃないわ。底の合わせ目に使う、見えない留め具の欠片よ。磨きでは落ちない」
ヤコブの顔つきが変わる。
「つまり、靴はここを通った」
「ええ。少なくとも、箱の外へ出たあとで」
クリスティンは欠片を布へ包みながら、床板の上に残る細い光を追った。倉庫の中央で糸がいくつも分かれたように見え、すぐ消える。忙しい朝、別の荷がいくつも通ったせいで痕跡が乱れているのだ。
だがその中で一本だけ、やけに冷たく澄んだ線がある。
それは扉の脇に積まれていた空箱の方へ伸び、さらに外の坂道へ落ちていた。
空箱のひとつには、食糧庫で使う麻紐の結び方が残っていた。だが、結び目が逆だ。自分たちの倉庫の者なら、片手でほどきやすい向きにそろえる。これは、真似だけして手癖が違う。
クリスティンがそう告げると、サビーナがぱっと顔を上げた。
「それ、今朝のうちに港へ返す空箱に混ざってました。私、荷札がずれてるの見た気がします」
「なぜ今言わないの」
マギーににらまれ、サビーナは肩をすくめた。
「だって、そのときは箱の紐の向きが怪しいなんて思わなくて……」
「思わなくても、見たものは覚えておきなさい。後で役に立つから」
「はい……!」
叱られているのに、サビーナの返事は少しだけ明るかった。役に立てる場が来たのがわかったのだろう。
クリストフはすでに荷下ろし口の外へ目を向けていた。
「港へ下った木箱は、今ならまだ検分台にあります。船へ積む前です」
「走れる?」
マギーの問いに、クリスティンはうなずいた。
礼靴でなくてよかった、と場違いなことを思う。今日の自分の足もとは、見栄えとは程遠い実務靴だ。石段を下るには、そのほうがずっと都合がいい。
*
海風宮から港へ下る坂道は、昼前の光で白く乾いていた。
潮の匂いが濃くなる。荷車の軋み、船大工の槌音、かもめの鳴き声。坂を下りきる前から、港の騒がしさが胸へぶつかってくる。
クリストフが先に走り、検分台へ声を飛ばした。
「北棟搬出分、三箱とも開封待ちにしてください!」
灯台局の名と監査補の札は、こういうとき強い。港の若い係員が慌てて綱を押さえ、積み込みかけていた箱の手を止める。
検分台に並んだ木箱は三つ。ひとつは涼水瓶、ひとつは見物台用の布留め具、もうひとつは港詰所へ返す空容器と記されていた。
「空容器、ね」
ヤコブが鼻で笑う。
「空のわりに、札の付け直し跡が新しい」
たしかに、三つ目の箱の荷札だけ、紐の色がわずかに違う。しかも側板の一枚に、倉庫で見たのと同じ透明な擦れ跡が走っていた。
クリスティンの目には、そこから細い光がにじんで見える。
「これです」
係員が蓋の釘を抜く。ぎしりと音を立てて蓋が上がった。
中には空の瓶籠がいくつも詰められ、その隙間へ、緩衝材代わりの古い帆布が押しこまれていた。一見すると、ただの返却荷だ。だが、帆布の折り目がひとつだけ不自然に厚い。
クリストフが手袋をはめ、そっと持ち上げる。
帆布の奥から、朝の海みたいな光がこぼれた。
透明魔鉱の左の礼靴だった。
誰かが慌てて押しこんだのか、踵脇の留め具がひとつ欠け、白い絹紐へ藁が絡んでいる。けれど靴そのものに割れはない。
メロディがその場で深く息を吐いた。
「……助かった」
その吐息には、今朝から詰めていた力がまるごと混じっていた。
周囲の係員たちも、事情を飲みこんでざわめく。儀式具が港へ流れかけたのだ。笑い話では済まない。
だが、クリスティンの胸は少しも軽くならなかった。
靴は戻った。
なのに、箱の中身があまりにも手慣れている。
空容器の箱に高価な品を混ぜる。港へ着くまで誰も開けない札を選ぶ。荷札を食糧庫風に結び、疑いを別の場所へ向ける。
初めてやった人間の手つきではない。
「これ、礼靴を盗りたかっただけじゃありませんね」
クリスティンが言うと、ヤコブもすぐにうなずいた。
「港へ出す手順を知っている。しかも、後で回収しやすい箱を選んでいる」
クリストフが荷札を裏返した。
「この印、先週見た補給箱の付け替え跡と似ています」
「先週?」
「灯台向けの油箱です。記録上は二箱届いているのに、現場では一箱分だけ中身が薄かった。輸送中の漏れだと片づけかけましたが……」
彼の声が低くなる。
「違う線でつながっていたのかもしれない」
マギーは礼靴を布で包み直しながら、港と後宮を見比べるように視線を動かした。
「つまり、海風宮の中の騒ぎに紛れて、物を外へ流す道がある」
「そしてその道は、食糧でも儀式具でも使える」
ヤコブが続ける。
潮風が、開いた箱の中を吹き抜けた。
ごく普通の返却荷に見える木箱が、急に別の顔を持ったもののように見える。港の喧騒のすぐ横で、誰かが何度も同じ手を使っていたのだ。
クリスティンは礼靴へ目を落とした。
朝の光を受けた透明な表面に、自分たちの顔がゆらりと映っている。片方だけ消えた靴は戻った。けれど、消えかけていたのは靴だけではない。後宮の中で働く者たちの信用も、港へ送る物資の数も、灯台へ届くはずの油も、同じように少しずつ削られていたのかもしれない。
そのとき、背後からしゃがれた声がした。
「面白い目をしておるな、お嬢さん」
振り向くと、検分台の陰にベルント師がいた。いつの間に来たのか、潮で白くなった外套の裾を揺らし、木杖へ両手を重ねている。
「水脈だけでなく、冷えの残り方まで追ったか」
クリスティンは目を瞬かせた。
「……見えてしまっただけです」
「見えてしまうのが、いちばん厄介で、いちばん使い道がある」
ベルント師はそう言って、開いた箱をのぞきこんだ。
「明日、北井戸を見ろ。海開きで人が増える前に、詰まりを確かめたい」
急に言われ、クリスティンは礼靴から顔を上げた。
「私がですか」
「嫌なら断れ。だが、倉庫から港まで一本の線として見えたのなら、井戸から台所までだって見えるはずじゃ」
返事をする前に、ベルント師はもう港の奥へ視線を向けていた。
クリストフがその横で、少しだけ笑う。
「忙しくなりそうですね」
「靴ひとつで終わる話じゃなさそうですし」
「ええ。むしろ、ここからでしょう」
その言い方が、妙にしっくりきた。
ここからだ。
海風宮の中で消えた靴は戻った。でも、誰が、どうやって、どれだけの物を流してきたのかは、まだ何ひとつ終わっていない。
クリスティンは港の風を胸いっぱいに吸いこんだ。
遠くで昼の鐘が鳴り、海開きの旗が一斉に翻る。白い布が空へ開くたび、港じゅうの光が揺れた。
その揺れの中に、彼女にはまだ一本、細い透明な糸が見えている気がした。
後宮の倉庫から港の検分台へ、さらにその先へ。
誰かが隠してきた流れを、今度はこちらがたどる番だった。




