第7話 恋人試験は渡り廊下で
その日の仕事がひと区切りついた頃には、海風宮の窓という窓が、もう夜の色を映していた。
厨房では最後の片づけが進み、帳場ではヤコブが遅番用の受け渡し帳を閉じている。クリスティンの机の端には、借りたままだった灯台局の図面二冊と、北側倉庫の補修記録、それに今日の海藻煮の試作表がきれいに重ねてあった。
返しに行くなら今しかない。
昼のうちに返せればよかったのだが、皇女の昼休みの後、試作をもう一度やり直し、運搬用の小瓶まで詰めているうちに時刻が流れてしまった。海風宮の裏方は、日が落ちたからといって急に静かにはならない。静かになるのは声の高さだけで、手元の仕事はむしろ夜ほど細かくなる。
クリスティンは記録の束を抱え、帳場の灯りへ向かって声をかけた。
「ヤコブ様、これ、灯台局へ返してきます」
「返却の記録はつけましたか」
顔も上げずに返ってきた言葉に、クリスティンは思わず背筋を伸ばした。
「つけました」
「なら行ってらっしゃい。途中で落としたら、図面より先にあなたが怒られます」
「それは図面のほうが大事だからですか」
「両方です」
その声音が少しだけ乾いていなかったので、クリスティンは小さく笑って帳場を出た。
外へ出ると、夜の海風がすぐ頬をさらった。昼より冷たい。潮の匂いも濃い。海風宮は本宮といくつもの棟が廊下でつながっているが、その中でも灯台局の仮机が置かれている北側の一角へ行くには、海へ張り出した渡り廊下を通るのがいちばん早い。
昼間なら景色がいいと言える場所だった。だが夜は違う。石壁のない部分が長く、木枠の窓も半分ほどしかはまっていないから、風が真正面から吹き抜ける。灯りはところどころに吊られているが、その灯芯さえ、波の息に合わせて細く揺れた。
資料束を抱え直し、クリスティンは廊下の手前で足を止める。
そのときだった。
「そこで固まるくらいなら、誰か呼べばよかったのに」
後ろから、少し弾むような女の声がした。
振り向くと、細長い布包みを腕に抱えた女が立っていた。濃い栗色の髪をゆるくまとめ、灯りの下でも肩の線が軽やかに見える。歩くたび、腰に下げた小さな鈴が鳴るのは、楽師でもあるからだろうか。片腕の布包みからは、針箱の角と銀糸の束が覗いていた。
「あなたが新しい食糧庫の子ね」
「……クリスティンです」
「知ってる。もう昼には三回聞いたもの」
女は平然と言ってから、クリスティンの抱える資料束を見た。
「返しもの?」
「はい。灯台局の図面と、補修記録を」
「なら、その廊下ね」
彼女は海へ向かって顎をしゃくった。
「この時間の渡り廊下は、噂が好きな子たちの大好物よ」
「噂、ですか」
「知らないの?」
女は目を丸くし、それから少し楽しそうに口元を上げた。
「最後まで手を離さず渡れた二人は、縁が結ばれるんですって。恋人試験、とか何とか」
クリスティンは資料束を抱えたまま、きょとんとした。
「そんな……子どもの遊びみたいな」
「ええ。だから皆、好きなの」
さらりと返してから、女は自分の名を名乗った。
「メロディ。衣装係。針仕事と、たまに楽の手伝いもするわ」
それだけ言うと、彼女は布包みを抱え直し、廊下の脇へ身を寄せた。
「私は西棟だから逆。けど、今からあそこへひとりで行くと、明日の朝には『風に飛ばされかけた令嬢』って話が一個増えるでしょうね」
「もう十分あります」
「それはそう」
メロディはあっさりうなずいた。
「だから、新しい噂は少し選んだほうがいいわ」
言い終わるのとほとんど同時に、廊下の向こうから足音が近づいた。紙箱の角が灯りをかすめ、見覚えのある背の高い影が夜気の向こうから現れる。
「クリスティン?」
クリストフだった。
今夜も紙箱を抱えている。箱の側面には灯台局の印。腕の下には、見慣れた革表紙の記録簿が挟まっていた。彼が立ち止まると、潮風の中へ、あの蜂蜜を溶かしたような甘い香りが、ほんの少しだけ混じる。
「どうしました、こんなところで」
「図面を返しに来たんです。でも、この廊下、思ったより風が強くて」
クリストフは彼女の抱える束を見て、すぐ事情を飲み込んだらしい。
「ちょうどよかった。私も仮机へ戻るところです」
そう言ってから、クリストフはメロディに気づいた。
「こんばんは」
「こんばんは。私は通りがかっただけ」
メロディはすでに面白がっている顔だった。
「恋人試験の説明役も済ませたし、あとはご自由に」
「説明しなくていいものを、説明しないでください」
クリストフが珍しく少しだけ早口になる。メロディは肩をすくめるだけだった。
「だって知らなかったんですもの。このまま送り出したら不親切でしょう」
クリスティンは思わず口を挟む。
「本当にあるんですか、その噂」
「あるというか、皆が勝手に育ててる、が正しいですね」
クリストフは困ったように笑った。
「昔、婚約前の若い人たちが夜風の中を歩いたとか、そういう話が混ざったんだと思います。今は半分、からかいの道具です」
「半分?」
「残り半分は、からかわれる側が否定しきれないからでしょうね」
言った本人が、最後のほうで少し視線を逸らした。
メロディはそこでくるりと踵を返す。
「じゃあ、私は仕事へ戻るわ。二人とも、図面でも灯りでも、落とさないようにね」
去り際に、彼女は振り向きもしないまま片手をひらひら振った。鈴の音が遠ざかる。
残されたのは、揺れる灯りと、波の音と、風の通る細長い廊下だった。
クリストフは一度だけ海側を見やり、それからクリスティンの抱える資料束へ手を伸ばした。
「半分持ちます」
「大丈夫です」
「大丈夫でも、飛ばされたら困ります。図面も、あなたも」
あまり自然に言われたので、クリスティンは一瞬返事を忘れた。
結局、資料束を上下に分ける代わりに、いちばん大きな図面箱を二人で抱えることにした。片側の取っ手をクリストフ、反対側をクリスティンが持つ。これなら風が吹いても箱がひねられにくい。
「手を離さず、ですね」
クリスティンが言うと、クリストフは一歩目で少しだけむせた。
「箱の話です」
「もちろんです」
「ならよかった」
ぜんぜん、よくなさそうな声だった。
二人は歩き出した。
渡り廊下の床板はしっかりしているが、足の裏へ夜の冷えがじわりと伝わる。右手側は石壁、左手側は腰高の柵だけで、その向こうは暗い海だ。月はまだ高くなく、砕けた波頭だけが白く見えた。吊り灯りが風に揺れ、二人の影が床へ長く伸びたり縮んだりする。
最初のうちは、図面箱のことしか考えないようにしていた。
足並みを揃える。箱を水平に保つ。灯りの少ない場所では段差を見落とさない。それだけで十分なはずなのに、向かい側の取っ手から伝わる重みの調子が、思ったよりはっきりわかる。クリストフが少し持ち上げれば、こちらの腕が楽になる。こちらが足を止めそうになれば、向こうもすぐ速さを落とす。
「昼の海藻煮、好評だったそうですね」
風の合間を縫うように、クリストフが言った。
「噂が回るの、早くないですか」
「海風宮の噂は潮より早いですから」
「嫌な例えです」
「でも当たってるでしょう」
たしかに、とクリスティンは思った。昼に皇女へ出した小皿の話が、夕方には北側帳場に届いていた。いい噂も悪い噂も、この宮では風の通り道を知っているらしい。
「助かりました」
彼女は箱を持ちながら言った。
「図面がなかったら、運ぶ想定まで考えられませんでした。瓶の口の大きさも、木箱の仕切りも、港までの揺れ方も」
「役に立ったならよかったです。私は紙を集めることしかできませんから」
「そんなことありません。紙がなかったら、私は勘で失敗していました」
クリストフは少し黙ってから、小さく笑う。
「それ、灯台局の人間が聞いたら喜びます。だいたい皆、図面は後から来る叱責の材料だと思ってますから」
「私も前は、帳簿って怒られるためにある気がしてました」
「前は?」
問い返されて、クリスティンは一瞬だけ言葉に詰まった。
けれど、ここで何も言わないのも不自然だった。
「……今は、迷わないためにあると思います」
そう答えると、クリストフの目元がやわらいだ。
「それは、いい考え方ですね」
そのとき、海のほうから急に強い風が吹き込んだ。
灯りが大きく傾き、クリスティンの袖がばさりと鳴る。図面箱が左へ持っていかれそうになり、彼女は思わず取っ手を強く握り直した。床板の上で足が半歩ずれる。
次の瞬間、箱の重みがぐっとこちら寄りから遠ざかった。
クリストフが、自分の側を高く持ち上げて風を受け止めたのだ。
「大丈夫ですか」
「は、はい」
返事をしたつもりなのに、声が少し裏返った。
クリストフは足を止めたまま、海側へ半歩だけずれていた。風上へ自分の肩を向けている。夜気に煽られた前髪が額へ落ちても、箱から手を離さない。
「次、吹いたら壁側へ寄ってください」
「でも、そうするとそちらが」
「私は慣れています」
言い切り方が、いつもの柔らかさより少し硬かった。海のことになると譲らない、と言われた意味が、この短い一言でわかる気がした。
クリスティンは素直にうなずく。
そのままもう一度歩き出すと、今度は彼が先に口を開いた。
「さっきの噂、気にしましたか」
「恋人試験のことですか」
「はい」
気にしていない、と言えば嘘になる。気にしすぎている、と言うにはまだ何も起きていない。クリスティンは答えを探しながら、箱の角を見た。
「……少しだけ」
「少しだけ」
「メロディさんの言い方が、いかにも本当にあるみたいだったので」
「彼女は、ないものまで『ありそう』に聞こえる言い方をします」
「では、やっぱりただの噂なんですね」
そう言ったつもりだった。なのに、胸のどこかでは、そう言い切られるのを待っていなかった自分もいた。
風が少し弱まり、足音だけが板張りへ揃って響く。
やがてクリストフは、前を見たまま言った。
「ただの噂、だと思います」
思います。
言い切らなかった一語が、妙に耳へ残った。
クリスティンは、それ以上追いかけなかった。追いかけたら、自分でも答えを知らないところまで行きそうだった。
代わりに、少しだけ笑って言う。
「少なくとも今は、恋人試験というより、図面箱試験ですね」
「失格したら、明日ヤコブに叱られます」
「それは避けたいです」
「私もです」
二人とも本気だったので、視線が合った瞬間に同時に笑ってしまった。
その笑いが、夜の風に少しだけ温度を足した気がした。
*
廊下を渡り切ったところで、ふいに小さな拍手が聞こえた。
ぎょっとして顔を向けると、北側の柱影に女官が二人、洗い上がりの布を抱えて立っていた。どちらも口元を押さえているが、目だけがきらきらしている。
「最後まで離さなかった」
「本当だわ」
「違います」
クリスティンとクリストフの声が、見事に重なった。
女官たちはますます面白そうに顔を見合わせ、片方がぺこりと頭を下げる。
「失礼しました。でも、ちゃんと見届けましたので」
「何をですか」
「そこはご想像にお任せします」
そう言って二人は、布を抱えたまま逃げるように去っていった。残された廊下に、乾いた笑い声だけがふわりと残る。
図面箱を下ろしたあとも、しばらく二人ともすぐには次の言葉を出せなかった。
先に咳払いしたのはクリストフだった。
「……明日の朝は、少し騒がしいかもしれません」
「少し、で済みますか」
「済まない気もします」
「では、図面箱のせいだと説明します」
「それで納得する人は少ないでしょうね」
「ひどい」
ひどい、と言いながら、クリスティンは少し笑ってしまった。困っているはずなのに、嫌ではない。そこがいちばん困る。
クリストフは返された図面を受け取り、帳面の端を軽く揃えた。
「あの」
彼が珍しく、次の言葉を選ぶように間を置く。
「もしまた夜に返しものがあるなら、声をかけてください」
「図面箱のために、ですか」
「……それもあります」
それも。
その二文字だけで、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
クリスティンは返事の代わりに、こくりとうなずいた。
その場に長く立っていると、さすがに何かがこぼれそうで危なかった。
「では、私は戻ります。明日、記録も写して返します」
「無理はしないでください。昼の顔色、少しだけ頑張りすぎでした」
「見てたんですか」
「見えました」
あっさり言われて、クリスティンは何も返せなくなる。
結局、一礼して背を向けるしかなかった。
戻る足取りは、来たときより少しだけ軽かった。けれど、手のひらにはまだ箱の取っ手の感触が残っている。蜂蜜に似たインクの香りも、潮風の隙間から時々よみがえった。
*
そして翌朝。
海風宮の洗い場へ顔を出した瞬間、サビーナが盆を抱えたまま駆け寄ってきた。
「クリスティン様、聞きました!」
「何を」
「北の渡り廊下、最後まで手を離さず!」
「離してませんけど、あれは図面箱で」
「図面箱ごとでも成立するんですねえ」
「しません」
言い切ったのに、周りの口元がゆるんでいる。洗い場の端では年長の女官まで湯気の向こうで肩を揺らしていた。
さらに悪いことに、その場にいたメロディが針箱を膝へ乗せたまま、いかにも満足そうに言う。
「私は昨夜、ちゃんと『新しい噂は選んだほうがいい』って忠告したのよ」
「選んでません」
「でも、あれより感じのいい噂、そうそう作れないわ」
クリスティンが言葉に詰まる横で、メロディは布へ針を通しながら続けた。
「安心して。海風宮の噂は三日で薄れるものと、三年残るものがあるけれど、昨夜のはたぶん後者だから」
「安心できる要素がありません」
サビーナがとうとう吹き出し、洗い場じゅうへ笑いが広がった。
その向こう、北側廊下の角を、書類束を抱えたクリストフが通りかかる。視線が合った瞬間、彼もまた事情を察したらしく、ほんの少しだけ耳の先が赤くなった。
それなのに、逃げずに軽く会釈していくから、余計に質が悪い。
メロディがその様子を見送りながら、楽しそうに糸を切った。
「いいじゃない。噂って、たまには人を困らせるだけじゃなく、歩く足を少しそろえることもあるのよ」
クリスティンは反論しかけて、やめた。
昨夜の渡り廊下を思い出す。強い風。揺れる灯り。箱の重み。向こう側から伝わる、手を離さないための気配。
ただの噂だ。たぶん。
けれど、ただの噂ひとつで、朝から胸の奥がこんなに落ち着かないのなら、それはそれで十分に厄介だった。
クリスティンは頬の熱をごまかすように、受け取り盆を抱え直す。
「……仕事します」
「ええ、そうして」
メロディは笑ったまま、針を持つ指先で軽く彼女を見送った。
海風宮の朝は、今日も潮の匂いと噂で少しだけ騒がしい。
そのどちらの中にも、昨夜の渡り廊下の気配が、まだ細く残っていた。




