表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮騒後宮のごはん灯台令嬢 ――悪役扱いの転生令嬢は、地水師として食卓と航路を立て直します――  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/11

第6話 海藻煮と皇女の昼休み

 翌日の厨房は、朝から妙な緊張に包まれていた。


 大鍋がいくつも火にかけられ、いつも通りに朝の仕込みは進んでいる。魚をおろす包丁の音も、湯の沸く音も、棚から器を下ろす音も変わらない。なのに、作業台の隅に置かれた小さな銅鍋だけ、皆がちらちら見ていた。


 その鍋の中で、海藻と干柑橘の甘辛煮が、静かに照りを帯びている。


 「たったこれだけで、王命でも出たみたいな顔をするな」


 ネルソンはそう言いながらも、匙の先で煮汁の落ち方を確かめた。落ちる筋が細い。昨日より水気は少しだけ控えめだ。瓶へ詰めたときの汚れを減らすために、クリスティンが朝一番で提案した調整だった。


 「王命ではありませんけど、殿下のお昼です」


 クリスティンは記録板に目を落としたまま答えた。


 海藻の量。小魚のほぐし加減。柑橘皮を湯へ落とす秒数。砂糖代わりに使う蜜漬け煮汁の重さ。火を止めてから鍋底へ残る照り。昨日と違えば、今日の結果は比べられない。たった一皿分なのに、彼女の頭の中では倉庫番の仕事と同じように、順番と数がきっちり並んでいた。


 サビーナが横から板を覗き込む。


 「昨日より細かいですね」


 「昨日はおいしかった、で終われました。でも今日は違います。どうしておいしかったのか、明日も同じにできるのか、そこまで残さないと」


 「食べものなのに帳場みたい」


 「食べものだからです」


 クリスティンが顔を上げると、サビーナは少しきょとんとしてから笑った。


 「それ、なんだか上の人に言ってほしい台詞ですね」


 上の人。その言葉が何を指すか、わざわざ確かめるまでもなかった。


 午の刻が近づくころ、マギーが厨房へ姿を見せた。いつものように衣擦れひとつ乱さない足取りだったが、その目だけは手早く鍋の中身を量っている。


 「持っていける形?」


 「はい。昨日より汁だれしにくいです」


 クリスティンが答えると、ネルソンが小皿へ盛りつけを始めた。温かな飯は別の小ぶりな器へ。海藻煮は飯を邪魔しない量にとどめる。昨日、皇女が二口目を少し多く取ったのを、クリスティンは覚えていた。多すぎればくどい。少なすぎれば手が止まる。その境目を、今日は外したくなかった。


 マギーは皿の角度、匙の置き方、盆の余白まで見てから短くうなずいた。


 「クリスティン、来なさい」


 「私も、ですか」


 「昨日は名前を覚えられたでしょう。今日は、仕事を覚えてもらう番よ」


     *


 アデルハイト皇女の昼休みは、休みというより、椅子を立たずに働く場所を変える時間らしかった。


 通されたのは、昨日の小部屋より少し広い執務室だった。窓の外には海が見える。青いというより、今日は白く光っている。卓の上には封蝋付きの書簡が積まれ、片側には港から届いたらしい荷札束、もう片側には海風宮内の支出帳が開かれていた。昼食の盆はすでに置かれていたが、汁物から立つ湯気は少し細っている。


 皇女は外套を椅子の背へ掛け、袖をきちんと折っていた。宝石より先に紙と向き合う手だった。


 「昨日のものね」


 そのひとことで着席を促され、マギーが一礼する。クリスティンもそれに倣って頭を下げた。


 「昨日の試作品を再調整したものです」

 マギーが言う。

 「汁だれを減らし、保存と運搬を見据えた形へ寄せました」


 皇女は少しだけ眉を上げた。


 「もう調整したの」


 「昨日の時点で課題が見えましたので」とクリスティンが答える。


 「味がよかっただけでは、続けて使えません。船へ積む、持ち運ぶ、翌日も同じ形で出す、その条件を満たしたいので」


 皇女は何も言わず、匙で飯と海藻煮を少しすくった。静かな部屋に、窓の外の波音だけが遠く混じる。


 ひと口。


 次に、書簡から目を離さないまま、もうひと口。


 昨日より食べる間が短い。クリスティンはそれを見て、胸の奥で小さく息をついた。匙が止まらないというほどではなくても、考えごとの途中で自然に食べ進められるなら十分だった。


 やがて皇女は、器を置いてから訊いた。


 「余り物を組み替えた、と昨日は聞いたわね。どのくらい余っていたの」


 料理の感想ではなく、そこを問うのか、とクリスティンは思った。だが同時に、少しだけ嬉しくもなる。味見で終わらず、物の流れへ目を向ける人なのだ。


 「小魚は宴用の皿へ乗せにくい裂け身が一箱分、海藻は規格外の切れ端が二日で半箱、柑橘は皮の傷で上卓に回せないものが三籠分ありました」


 「傷んでいたわけではないのね」


 「はい。見栄えの問題が大きいです」


 皇女は卓上の書類へ目を落としたまま、指先でその一枚を軽く叩いた。


 「海風宮では、足りないものの報告ばかりが上がってくるの。布が足りない、香草が足りない、灯油が足りない、真水が足りない。でも、使い方を変えれば足りるものまで、『足りない』の箱へ入れられている気がしていたわ」


 その言葉に、クリスティンは思わず顔を上げた。


 皇女の視線も、今度ははっきりこちらを向いていた。試すでも責めるでもない。ただ、続きを待っている目だった。


 クリスティンは喉の奥を一度だけ湿らせ、それから言った。


 「……私は、足りない物を嘆くより、今ある物を働かせたいです」


 部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。


 豪奢な言い回しではない。令嬢らしい受け答えでもない。けれど、自分の中ではそれが一番まっすぐだった。


 「前にいた場所でも、全部が揃うことは少なかったんです。予定どおり届かないこともありましたし、箱の中で数が合わなくなることもありました。そういうとき、ないものだけ数えていたら、人も手も止まります。だから、今ここにあるものから、今日を動かせる形を探します」


 言い切ったあとで、前にいた場所、という言い方がこの世界ではおかしいと気づいた。だが、もう遅い。誤魔化す代わりに、クリスティンは頭を下げる。


 「差し出がましいことを申しました」


 しばらく、返事はなかった。


 窓辺で風が鳴る。紙の端がかすかに揺れる。皇女は黙ったまま、もう一口だけ海藻煮を食べた。それから、ようやく口を開く。


 「いいえ。差し出がましいのではなく、足場が現場にあるだけね」


 その言葉で、クリスティンはゆっくり顔を上げた。


 皇女は、少し疲れた目をしていた。だが、その疲れは投げ出した人の目ではなく、一日の中で考えることが多すぎる人の目だった。


 「ベルナール嬢。あなたはしばらく、海風宮の食糧庫付き書記として置きます」


 胸の奥で、何かが小さく鳴った。


 昨日も海風宮へ置くと言われてはいた。けれどそれは、処罰の置き換えに近かった。今の言葉は違う。仕事場として、役目つきで、ここへ留める響きがある。


 皇女は続けた。


 「ただし、余り物をうまく回した、それだけで満足しないこと。帳簿、鍵、搬出入、献立、女官の都合、船便の遅れ。その全部が噛み合って初めて食卓は持つわ。あなたが見るべきなのは鍋だけではありません」


 「はい」


 「できる?」


 問われて、クリスティンはすぐに答えられなかった。できる、と軽く言うには、まだ知らないことが多すぎる。だが、できません、と引く気はもっとなかった。


 「覚えます」


 やがて彼女はそう答えた。


 「見落として叱られることもあると思います。でも、見たものを次へ回すことはやめません」


 皇女の口元が、今度はわずかにやわらいだ。


 「それで十分です。完璧な人手がほしいのではなく、止まった流れを見ようとする目がほしいの」


 マギーが横で静かに一礼する。その所作は普段どおりなのに、どこかほっとした気配があった。


 皇女は最後に、器の中の海藻煮を見て言う。


 「これは昼だけでなく、遅番の軽食にも向くかもしれないわね。帳場の夜更けは、味の強すぎるものだと疲れるもの」


 その言い方に、クリスティンは少しだけ笑ってしまった。皇女も、帳場が夜更けることを知っているのだ。


 「量を増やしても味がぶれないよう、今日のうちにもう一度試します」


 「そうしなさい。あと、名前を覚えるのが苦手なら、食べた量からでも覚えるといいわ。人は案外、何を残し、何を先に口へ運ぶかで見えてくるものです」


 それは助言というより、働く人から働く人への引き継ぎに近かった。


     *


 執務室を辞したあと、クリスティンは廊下の角でようやく大きく息を吐いた。


 手は震えていなかった。代わりに、胸の中がじんわり熱い。


 「顔が違うわね」


 マギーが隣を歩きながら言う。


 「昨日は『追い返されなかった』顔。今日は『仕事を渡された』顔」


 クリスティンは思わず立ち止まりそうになった。


 「……そう、見えますか」


 「見えます」


 短い返事だったが、それが妙に嬉しかった。


 階下へ戻る途中、渡り廊下の角でクリストフとすれ違った。今日も資料束を抱えている。紙の端から、かすかに蜂蜜の匂いがした。


 「今、上から?」


 「はい。昼の膳へ、昨日の続きの海藻煮を」


 クリストフは彼女の顔を見て、それだけでだいたい察したらしい。


 「うまくいったんですね」


 「まだ途中です。でも、ここで働いていいと言われました」


 そう口にした瞬間、その意味が自分の中でようやく形になった。


 ここで働いていい。


 断罪の続きとして与えられた仮置き場ではなく、自分の手を使う場所として。


 クリストフは紙束を抱え直し、小さく笑った。


 「それは、いい昼休みでしたね」


 昼休み。その言葉が妙に可笑しくて、クリスティンもつられて笑った。


 海風宮の廊下の向こうでは、また誰かが走り、どこかで鍋の蓋が鳴り、帳場ではきっとヤコブが数字を追っている。華やかな広間の外側で、たくさんの手が、今日という一日を崩さないように動いている。


 その中へ、自分の名前つきの席が、ほんの少しだけできた。


 クリスティンは胸の内で、さっき言った言葉をもう一度なぞる。


 足りない物を嘆くより、今ある物を働かせたい。


 それは海藻と柑橘の話だけではない。自分自身も、この海風宮の片隅で、まだ使い道の決まっていなかったひとりなのだ。


 ならば、今日からは自分の手で働く。


 塩の匂いのする階段を下りながら、クリスティンはそう決めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ