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潮騒後宮のごはん灯台令嬢 ――悪役扱いの転生令嬢は、地水師として食卓と航路を立て直します――  作者: 乾為天女


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第5話 ごはんのおとも選手権を開こう

 朝の食糧庫には、まだ昨夜の紙の匂いが残っていた。


 図面と帳簿を突き合わせたまま寝落ちしかけたせいで、クリスティンのこめかみは少し重い。だが、棚の前へ立つと頭はすぐに切り替わった。干魚の列、豆袋の札、酢樽の減り、厨房へ回すはずの海藻箱。見慣れないはずの景色なのに、今は数字と同じくらい親しみがある。


 その朝、彼女の目を止めたのは、帳場の脇へ積まれた三つの木箱だった。


 ひとつ目には、小ぶりな銀魚が山ほど入っている。傷みはないが、背が裂けたものや、宴用の皿に並べるには形の悪いものが多い。ふたつ目には、だしを取るには十分なのに、長さが揃わないから上等品としては扱えない海藻。三つ目には、南の島から来た柑橘が入っていた。皮に擦り傷があり、いくつかは箱の中でぶつかって少し潰れている。


 「この箱、どこへ回るんですか」


 クリスティンが訊くと、棚札を替えていたネルソンが肩越しに振り向いた。


 「きれいなもんから先に献立へ乗るだろ。こっちは賄いに回すか、間に合わなきゃ塩を強くして保存に振るか、それでもだめなら処分だな」


 言い方は軽いのに、最後の一語だけが床へ重く落ちた。


 「処分、ですか」


 「食えないわけじゃねえ。けどな、形が悪い魚は皿に乗りづらいし、海藻の切れ端は見栄えがしねえ。柑橘も祝いの卓に出すには傷が目立つ。賄いだけで吸いきれる量でもない」


 ネルソンは木箱の縁へ腕を乗せ、小魚をひとつ持ち上げて見せた。朝の光を受けて鱗が細く光る。十分おいしそうなのに、その小ささや裂け目のせいで、行き先を失っている。


 クリスティンは箱の中身を見つめたまま、前の人生の昼休みを思い出した。白いごはんだけでは少し寂しい日。机の引き出しに入れておいた小瓶。鮭のほぐし身、昆布の佃煮、柚子の香りがする何か。小さな一匙があるだけで、遅い昼食が少しましになる。残業の夜も、慌ただしい朝も、ああ今日も食べられた、と気持ちを支えてくれる、名もない働き者たち。


 「……もったいない」


 口から出た声に、ネルソンが笑う。


 「お、やっと食いしん坊の顔になったな」


 「違います。いえ、違わないですけど、そうじゃなくて」


 クリスティンは箱の前にしゃがみ込み、小魚、海藻、柑橘を順に見た。


 「これ、ひとまとめに見れば、ただの余りです。でも、別の形にしたら、保存もきいて、運びやすくて、食卓の助けになるものにできます」


 ネルソンが片眉を上げる。


 「たとえば?」


 「ごはんのおともです」


 少しの沈黙のあと、ネルソンの大きな笑い声が食糧庫へ響いた。


 「何だそりゃ」


 その声につられ、近くの樽札を並べていたサビーナまで首を伸ばした。通りかかった若い女官が足を止め、船着場帰りらしい見習いの少年まで扉の隙間から覗く。


 クリスティンは立ち上がり、両手で形を作りながら言った。


 「飯の隣に置いて、一匙で最後まで食べやすくしてくれる小さいおかずです。主役ではないけれど、いると全体が助かるもの。塩気や香りで食欲を支えて、少ない量でも満足できるもの」


 「なるほど、脇役のくせに仕事がでかいやつか」


 「そうです」


 ネルソンは腕を組んだまま、木箱を見た。海藻、魚、柑橘。それからクリスティン。


 「で、それをどうする」


 「試して、一番いい形を決めたいです。賄いに回して終わりではなくて、保存日数、塩気、運びやすさ、冷めても味が落ちないか、ちゃんと記録して」


 言いながら、クリスティンの頭の中ではもう表ができ始めていた。材料の重さ、火にかけた時間、使った塩の量、瓶へ詰めたあとの重さ、試食の反応、半日置いたあとの変化。数字にすれば、笑い話では終わらない。


 「つまり」


 いつの間にか背後へ来ていたヤコブが、乾いた声で割り込んだ。


 「遊びのふりをした補給試験ですね」


 クリスティンはぱっと振り向いた。彼は今朝もきっちりした上衣のまま、片手に帳面を持っている。嫌味を言いに来た顔だったが、その目はすでに木箱の量を測っていた。


 「はい。遊びの形にしたほうが、皆さん試したい案を遠慮なく出せると思って」


 「遊び、ですか」


 ヤコブの声は冷たい。だが、真正面から切り捨てる温度でもなかった。


 クリスティンは一歩だけ前へ出た。


 「処分する量を減らせるかもしれません。しかも、船へ回す保存食や、夜勤の人の食事にも使える形で。今の献立にそのまま混ぜるより、まず少量で試したほうが損が少ないです」


 ヤコブは箱を一瞥し、小魚を指先で持ち上げた。


 「記録をつけるなら、私は反対しません。つけないなら反対します」


 「つけます」


 「味だけで決めるのも反対です」


 「わかっています。塩の量と水気の残りも見ます」


 「誰が作って、誰がどれを好んだかも残してください。好みは帳簿になりませんが、傾向にはなります」


 クリスティンの顔がぱっと明るくなる。


 「はい」


 その返事が思ったより大きかったのか、サビーナがくすりと笑った。ヤコブは咳払いでごまかし、次にはもう帳面を開いている。


 「項目を書きます。材料、分量、火入れ時間、保存見込み、運搬適性、試食者、所見。字が汚ければあとで読めませんよ」


 「読める字で書きます」


 「当然です」


 そこへマギーが現れた。事情を聞き終えるなり、彼女は木箱の中身と集まり始めた顔ぶれを見回し、短く言う。


 「時間は昼前まで。厨房の一角だけ使いなさい。騒ぐのは構わないけれど、通常の仕込みを止めたら私が止める」


 「はい」


 「それと」


 マギーはクリスティンの鼻先へ、人差し指をすっと向けた。


 「令嬢の思いつきで終わったら、次はないと思いなさい」


 クリスティンはうなずいた。喉が少し乾いたが、引き返したいとは思わなかった。


 思いつきで終わらせないために、今ここで動くのだ。


     *


 厨房の一角は、すぐに戦場みたいな賑わいになった。


 大鍋で昼の仕込みを進める音のすぐ脇で、ネルソンが空いた作業台をひとつ確保し、まな板と小鍋と陶瓶を並べる。サビーナはいつの間にか「ごはんのおとも選手権」と大きく書いた紙を持ち込み、柱へぺたりと貼った。字が妙に躍っている。


 「選手権って書く必要あります?」


 「あります。書かないと皆、ただの残り物整理だと思うでしょう」


 「実際その一面はありますけど」


 「でも選手権って書いたほうが、やる気が出ます」


 言い切って胸を張るサビーナの横で、船着場の見習いが三人、目を輝かせていた。どうやら勝負ごとと聞いただけで参加する気になったらしい。


 ネルソンが手を打つ。


 「よし、ルールだ。主材料はこの小魚、海藻、傷あり柑橘のどれか、あるいは組み合わせ。余計に高い食材は禁止。匙で取れて、飯に合って、半日置いて味が落ちねえこと。あと、船へ積んでもこぼれにくいこと」


 「塩分も測ります」


 クリスティンが補足し、ヤコブが机の端から無言で紙束を差し出す。


 「一品につき一枚。書き忘れた時点で失格です」


 見習いたちの顔が一気に引き締まった。食べ物の勝負に見えて、帳場の気配が混じったせいだろう。


 クリスティンは小さく息を吸い、紙の最上段へ題を書いた。


 試作品一号。作り手、厨房。主材料、小魚。下ごしらえ、塩ふり十分、湯通しなし。


 手を動かし始めると、胸の奥が静かになっていく。記録を取ることは、頭の中の散らかった線を一本ずつ結んでいく作業に似ていた。


 最初に動いたのはネルソンだった。小魚をからりと炒って香りを出し、塩と香草油でまとめようとする。手際は見事だが、味見したクリスティンは首をかしげた。


 「おいしいです。でも、単体で完成しすぎていて、ごはんが負けそうです」


 「褒めてるのか刺してるのかどっちだ」


 「半々です」


 船着場見習いのひとりは、海藻を細かく刻み、酢と塩を強めに入れて壺に詰めた。もうひとりは柑橘の皮をそのまま干し、砕いて魚へ混ぜようとしたが、ひとかけ口へ入れた途端、顔をしかめた。


 「にがっ」


 「皮の白いところが多いからです」


 クリスティンは前の人生で見たレシピの断片を引っ張り出すように言った。


 「一度湯へ落としてから干したほうがいいかもしれません」


 「何で知ってるんです?」


 「……なんとなくです」


 本当は、台所動画で見たことがあるから、とは言えない。だが説明しすぎるより、今は手を動かしたほうが早かった。


 サビーナは意外にも真面目だった。彼女は海藻の切れ端を水で戻し、刻んだ柑橘皮と少量の麦蜜でまとめようとする。手つきは拙いが、見た目を整える勘がある。器へ盛ったとき、いちばん「食べてみたい顔」をしていたのは彼女の品だった。


 「でも、甘すぎると賄いでは飽きます」


 クリスティンが記録用紙へ所見を書き込みながら言うと、サビーナは唇を尖らせた。


 「見た目は大事でしょう」


 「大事です。でも、三口目でも嫌にならないことも大事です」


 「三口目のことまで考えて食べるんですね」


 「仕事中のごはんは、そこが大事ですから」


 そう返したとたん、少しだけ場が静かになった。言い終えてから、クリスティンは自分でも気づいた。今の言葉は、前の人生からそのまま持ってきたものだった。急いで食べる昼、冷めた夜食、忙しい朝。豪華ではなくても、三口目、四口目で支えてくれる味が必要だった。


 ネルソンが先に頷いた。


 「そうだな。派手な一口より、最後まで食える一椀のほうが、働く日にはありがてえ」


 そこから先は、皆の動きが少し変わった。


 船着場見習いは塩をひとつまみ減らし、魚の骨当たりを嫌って細かくほぐす。サビーナは海藻をもう少し短く刻み、柑橘の香りだけ残すよう皮の量を引く。ネルソンは魚のうまみを前へ出す代わりに油を減らし、冷めても重くならないよう鍋を見つめた。


 クリスティンは材料の重さを量り、火にかけた時刻を書き、味見の感想を並べていく。どの品も、最初の案より二回目、二回目より三回目のほうが明らかに良くなっていくのがわかった。数字と人の手が、同じ方向へ揃い始めた感じがした。


 昼が近づく頃、厨房の空気は、小魚を炒る香ばしさと、海藻が煮える潮の匂いと、柑橘の立つさわやかな香りで満ちていた。


 そのとき、紙束を抱えたクリストフが扉口に現れた。


 「記録を持って――」


 言いかけた彼は、いつもよりずっと賑やかな厨房を見て立ち止まる。柱の紙を見て、目を瞬いた。


 「ごはんのおとも選手権?」


 ネルソンがすかさず大きく手を振る。


 「ちょうどいい、灯台局。おまえも審査しろ」


 「私は資料を」


 「手がふさがってるなら、その紙も審査する」


 「紙は食べられません」


 「じゃあ置いてから来い」


 やりとりがあまりに自然で、クリスティンは思わず吹き出した。クリストフは少し困った顔をしながらも、持ってきた記録を机へ置き、作業台へ近づいてくる。


 「それで、『おとも』とは?」


 彼は本気で知らないらしかった。


 クリスティンは匙を持ったまま答える。


 「主役の飯を、最後までちゃんと食べさせるための小さい助っ人です」


 クリストフは、なるほど、とゆっくり言った。


 「灯りみたいですね」


 「灯り?」


 「ええ。灯台の火は船そのものではありません。でも、あるかないかで、帰り着けるかが変わる」


 その喩えが妙にしっくりきて、クリスティンは一瞬だけ言葉を失った。


 小さくて、脇にいて、けれど最後まで人を支えるもの。


 自分が今やろうとしていることを、こんなふうに言い直してくれる人がいるのだと思うと、胸の奥がほんのり温かくなる。


 「では、その灯り役にふさわしいか見てください」


 クリスティンは試作品の皿を並べた。


 審査は、なぜか思った以上に本格的になった。


 ヤコブは記録用紙を片手に、味だけでなく瓶の口径や蓋の閉まり具合まで見る。ネルソンは匙の進み方と冷めたあとの香りを気にし、クリストフは「揺れに耐えるか」と言って、船へ積む箱に見立てた木盆をゆっくり傾けた。サビーナは「見た目も点に入れてください」と譲らない。


 最初の一皿は、小魚の塩炒りだった。香ばしく、白飯に乗せれば確かに進む。だが、ヤコブが水を飲んでから淡々と言う。


 「三口目で塩が勝ちます」


 ネルソンが天を仰ぐ。


 「そこを見るか」


 「見るために呼ばれました」


 二皿目は、海藻の酢漬け。さっぱりしているが、水が出やすく、木盆を傾けた途端、瓶の縁からつうっと汁が垂れた。


 「船に積んだら、帳面まで酢の匂いになりますね」


 クリストフの一言に、ヤコブの目元がぴくりと動く。どうやらそれは絶対に避けたいらしい。


 三皿目は、柑橘皮の甘煮を混ぜた魚ほぐし。香りはいい。だが、サビーナ自身が一口で首を傾げた。


 「最初は好きです。でも、少しぼんやりします」


 「甘みだけ立つと、飯の側が疲れます」


 クリスティンが書き留めると、彼女は悔しそうに頷いた。


 そこでネルソンが、鍋の前から最後の試作品を持ってきた。


 海藻は細かく刻まれ、柑橘皮は一度湯へ落としてから干し、細く刻んである。小魚のだしを煮詰めた少量の煮汁で全体をまとめ、塩だけでなく、ほんの少しの甘みを添えていた。色は地味だ。けれど、匙ですくったときのまとまりが良く、立ち上る匂いに潮と柑橘が順番に来る。


 クリスティンは一口食べた。


 最初に海藻のうまみが来る。次に小魚の塩気。それから遅れて、乾かした柑橘の香りが抜けた。主張しすぎないのに、白い飯へ乗せたところがすぐ想像できる味だった。


 「……これです」


 思わずそう言うと、ネルソンがにやりとした。


 「まだ審査だろ」


 「でも、これ」


 クリスティンは言葉を探し、結局いちばん正確なものを選んだ。


 「三口目が、むしろ待ち遠しいです」


 クリストフも味見し、少し目を開く。


 「冷めてもよさそうです」


 「瓶も汚れにくい」とヤコブ。


 サビーナは悔しそうにしながらも、匙をもう一度伸ばした。


 「地味なのに、なんでこんなに止まらないんでしょう」


 「地味だからだろ」とネルソンが言う。


 「派手なものは一度驚かせるが、働く人間を毎日は支えない」


 その言葉へ、厨房の何人かが無言で頷いた。


 クリスティンは記録用紙へ、大きめの字で書き込む。


 試作品七号。海藻と干柑橘の甘辛煮。冷めても香り良し。汁だれ少。飯との相性、非常に良し。


 書き終えたところで、マギーが作業台の端を指で叩いた。


 「その七号、上へ持っていきなさい」


 「上、ですか」


 「アデルハイト皇女殿下の昼が、また遅れているの。食が細い日に、匙の進むものがあれば助かる」


 サビーナが息をのむ。ネルソンはすぐに小皿へ盛り直し、温かい飯を少し添えた。クリスティンは思わず姿勢を正す。


 「わ、私がですか」


 「案を出して記録したのはあなたでしょう」


 マギーはそう言ってから、髪の乱れをさっと整えた。


 「震えるなら皿の外でなさい」


     *


 海風宮の上階は、厨房の熱気が嘘みたいに静かだった。


 潮の匂いは薄れ、磨かれた床へ昼の光が淡く差している。けれど、今のクリスティンには、きらびやかな廊下よりも手の中の小皿のほうがずっと重かった。盛られているのは海藻と干柑橘の甘辛煮。たった数匙分。なのに、そこへ今朝の木箱と、台所の笑い声と、何枚もの記録用紙が詰まっている気がした。


 小部屋の前でマギーが足を止める。


 中には書類の束があり、窓辺の卓でアデルハイト皇女がそれを読んでいた。昼食の盆は運び込まれているものの、温かな主菜へまだほとんど手がついていない。


 「殿下」


 マギーが一礼する。


 「食糧庫と厨房で試した保存副菜の試作品です。飯へ添えると、匙が進みます」


 皇女は書類から目を上げた。視線が小皿へ落ち、次にクリスティンへ移る。覚えている、とその静かな目が言っていた。大広間で、自分から食糧庫を望んだ令嬢のことを。


 「新しいもの?」


 「余り食材と規格外品の再編成です」


 クリスティンは喉の渇きを飲み込みながら答えた。


 「小魚、海藻、傷のある柑橘を使っています。保存を見込み、冷めても味が落ちない形を試しました」


 皇女は匙を取り、小皿から少しだけすくって、飯へ乗せた。


 静かな部屋に、匙が器へ当たる小さな音だけが鳴る。


 ひと口。


 ふた口目は、最初より少し多かった。


 クリスティンの背中に、じわりと汗がにじんだ。マギーは微動だにしない。窓の外では、遠くの海鳥が鳴いている。


 やがて皇女は匙を置いた。


 「柑橘が後から来るのね」


 「はい。先に来ると苦みが立つので、一度湯へ落としてから干しました」


 「誰が考えたの」


 まっすぐな問いだった。


 料理人の名前を答えるべきか、案を出した自分を答えるべきか、一瞬だけ迷う。けれど、ごまかしたら何かが違う気がした。


 「形にする案を出したのは、私です。火加減は厨房のネルソンが整えました。刻み方は皆で試しました」


 皇女の視線が少し柔らかくなる。


 「ひとりの手柄にしないのね」


 その言い方に責める色はない。ただ、試しているだけだ。


 クリスティンは皿の縁を見つめたまま答えた。


 「ひとりでは、この形まで行けませんでした」


 「でも、最初に箱の中身を『捨てるもの』ではなく見たのは、あなたでしょう」


 胸が小さく跳ねた。


 皇女はもう一口だけ味見し、今度ははっきりとクリスティンを見た。


 「名前を聞いておきます。クリスティン・ベルナール」


 大広間で呼ばれたときとは、響きがまるで違った。責めるためではなく、覚えるための呼び方だった。


 「明日、昼の膳にも添えなさい。食が進むか、もう一度見ます」


 「承知いたしました」


 答えた声は、少しだけ震えていたかもしれない。


 部屋を辞して廊下へ出ると、クリスティンはようやく息を吐いた。手のひらがじっとりしている。マギーはそんな彼女を横目で見て、口元だけで笑った。


 「震えたわね」


 「皿の外で、ぎりぎり」


 「上出来」


 それだけ言って歩き出す背中を、クリスティンは慌てて追った。


 階下へ戻るにつれ、また塩と湯気の匂いが濃くなる。厨房の前まで来たところで、扉の向こうからサビーナの声が飛んだ。


 「どうでした?」


 ネルソンも、見習いたちも、クリストフまで、皆こちらを見ている。クリスティンは一瞬だけもったいをつけ、それから笑った。


 「明日のお昼にも出すことになりました」


 厨房が、ぱっと明るくなった。


 ネルソンが拳を上げ、サビーナは柱の紙に大きく丸を描く。見習いたちは自分が勝ったみたいに騒ぎ、ヤコブだけは平静な顔で言った。


 「では、今日の分量は正確に残してください。明日、同じ味が出せなければ意味がありません」


 「はい」


 でも、その「はい」は、今朝のものよりずっと軽かった。


 クリストフが紙束を抱え直しながら、小さく言う。


 「いい選手権でしたね」


 「まだ終わっていません」


 クリスティンは記録用紙の束を胸に抱えた。


 「明日も同じように作れて、半日後にもおいしくて、船へ積める形にして、初めて勝ちです」


 自分で言いながら、その言葉が嬉しかった。華やかな一度きりではなく、次の日にも繋がる形で喜べることが。


 扉の向こうでは、また鍋が鳴り、皿が重なり、誰かが笑っている。今朝までただの余り物だったものが、今日は記録付きの試作品になった。捨てられるはずだった小魚も、切れ端の海藻も、傷のついた柑橘も、ちゃんと次の席をもらった。


 そのことが、クリスティンにはたまらなく嬉しかった。


 ごはんのおともは、小さい。


 けれど小さいからこそ、足りない日の食卓へそっと滑り込み、誰かの匙を最後まで支えられる。


 海風宮の奥で生まれたその一匙が、明日は皇女の膳へ、いずれは港や灯台の夜へ届くかもしれない。


 そう思うと、記録用紙の重みさえ、頼もしかった。


 クリスティンは作業台へ戻り、試作品七号の欄へ、最後の一行を書き足した。


 継続試験、採用見込みあり。


 その文字は、まだ小さい。それでも確かに、彼女の新しい仕事の幅を一つ分だけ広げていた。



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