第3話 透明な糸の見える朝
その夜、クリスティンは長椅子の上で何度も目を覚ました。
目を閉じるたび、壁際に伸びていた麦粉の白い筋が浮かぶ。厨房へ行くはずのものが港へ下っていた。帳簿の魚は余っているのに棚の魚は足りず、麦粉は札の上では潤沢なのに袋を抱えると妙に軽い。昨日まで舞踏会の灯りの下にいたはずなのに、今はそんなことばかり考えている自分がおかしかった。
夜半、どこかで水の落ちる音がした。
ぽたり、ぽたり、と間を置いて続く、細い音だ。最初は外の雨かと思った。だが窓を見ても空は晴れている。潮風に混じって湿り気のある気配だけが近く、音は帳場の裏手、貯水槽のあるほうから聞こえてくる。
海風宮では水もまた品物のひとつだ。飲み水、洗い水、厨房の煮炊き、灯台へ送る予備の水瓶。足りないと困るのは食糧だけではない。
そう思いながらも、昨夜は毛布をかぶって無理やり眠った。勝手に歩き回れば叱られる。まだ順路も役目も覚えきれていない。ここで必要なのは張り切ることではなく、勝手を知ることだと、ヤコブに言われたばかりだった。
それでも、夜明け前になると、目はもう冴えていた。
帳場の小窓は群青色に滲み、海から上がる冷たい空気が机の端を撫でていく。クリスティンは粗い毛布をたたみ、借り物の作業着の袖をきっちり折った。今日は礼服ではない。まだ身体になじまない灰青の上着だが、袖口が邪魔をしないだけで気持ちが少し違う。
廊下へ出ると、海風宮はまだ半分眠っていた。洗い場では早番の女が桶を並べているが、厨房の火は弱く、帳場の灯りも数えるほどしかついていない。潮の匂いに混じって、石壁の冷たさと、夜のあいだ閉じ込められていた水の匂いがした。
貯水槽は、食糧庫の裏手を回った先の中庭にある。
石造りの低い囲いの中へ井戸水をいったんため、そこから各棟へ樋と管で送る仕組みだと、昨日受け渡し帳の隅で見た。数字だけで知っていた場所を、こうして自分の足で確かめるのは初めてだった。
中庭に踏み込んだ瞬間、クリスティンは足を止めた。
夜明け前の薄青い空気の中で、貯水槽の水面から、細いものが幾筋も伸びていたからだ。
糸だった。
蜘蛛の糸よりもすっきりしていて、ガラス細工のひびよりも柔らかい。井戸の縁から立ちのぼった透明な線が、石壁に沿い、地面の下へ潜り、建物のほうへゆっくりと流れていく。陽が昇る前のわずかな光を吸っているせいか、見えたり薄れたりしながら、それでも確かにそこにあった。
クリスティンは息を呑んだ。
眠気の残りでも、涙でもない。目をこすっても消えない。しゃがんで角度を変えると、一本だけ、ほかより細く頼りない糸が、食糧庫の外壁のほうでぶつりと途切れていた。
同時に、昨夜の水音が耳の奥でよみがえる。
ぽたり。ぽたり。
「……あそこ」
自分の声が、中庭の冷気に白くほどけた。
誰かを呼ぶより先に、身体が動いた。糸の途切れた先を追って、食糧庫の裏壁へ回る。石段を下り、樽置き場の脇を抜け、酢甕の並ぶ小さな納戸の前へ出る。そこまで来ると、さっきまで薄く見えていた糸が、壁の一角でふっと消えていた。
石壁の継ぎ目に、指先ほどの濃い染みがある。
近づくと、塩気とは違う湿り気が鼻についた。壁へ手を当てる。冷たい。その奥で、かすかな震えが返ってきた。さらに耳を寄せると、石の向こうで水が落ちる、くぐもった音がする。
「何をしているの」
背後から声がして、クリスティンは飛び上がりそうになった。
振り向くと、マギーが朝の薄明かりの中に立っていた。結い上げた髪も襟元も乱れていない。こちらが寝台から転がり出たような顔をしているのに、彼女だけ、もう一日の半分を終えたような静けさをまとっている。
「すみません、勝手に歩き回って」
「それは後で聞くわ。いま何を見ていたの」
言い逃れはできない。クリスティンは壁を指した。
「ここ、石の裏で水が落ちています」
「音で?」
「はい。……それと」
そこで迷った。透明な糸のことを口にして、信じてもらえるだろうか。寝ぼけた令嬢の戯言だと思われるのが関の山ではないか。
けれど、マギーは待っていた。急かしも笑いもしない。その待ち方が、変なごまかしを許さなかった。
「貯水槽から、細い糸みたいなものが見えたんです」
「糸?」
「水の流れる筋のような……うまく言えないんですけど、井戸からここへ、透明な線が伸びていて。この壁のところで切れていました」
マギーの眉が、ほんの少しだけ上がる。呆れたのか、意外に思ったのか、そのどちらともつかない顔だった。
「見間違いではなく?」
「だと思いたいです。でも、音は本当にします」
しばらくの沈黙のあと、マギーは壁に触れ、自分でも耳を寄せた。数息ののち、表情を変えずに言う。
「ヤコブを呼びます。あなたはここを離れないで」
足音が石段を上がっていく。クリスティンは言われたとおり、その場に残った。胸がどくどく鳴る。見えたものの正体がわからない。けれど、もし本当に水が漏れているなら、麦粉や干魚の置き場にも影響が出る。湿気は帳簿に載らない。だが袋の重さや魚のもちには確実に響く。
間もなくマギーが戻り、その後ろからヤコブが早足で現れた。寝起きではなさそうだが、いつも以上に声が硬い。
「水漏れと聞きました」
「私は音しか確認していないわ。見つけたのはこの人」
突然視線が刺さり、クリスティンは背筋を伸ばした。
「貯水槽から来た流れがここで切れて見えました。それで壁を触ったら――」
「流れが見えた?」
「……はい」
ヤコブの目がすっと細くなる。だが馬鹿にする気配はなかった。むしろ、余計な先入観を切り落とすときの顔に近い。彼は納戸の扉を開け、中へ入った。酢甕と油壺をどけ、壁際の空樽を順にずらしていく。
「手伝いなさい。倒すなよ」
許された、と気づくより先に、クリスティンは袖をまくって樽へ手をかけた。木は湿り気を吸って重い。足元の石は少しぬめっている。最後の樽を退けると、壁の下の継ぎ目に、細い水の筋が光った。
誰もすぐには口を開かなかった。
水は勢いよく噴き出しているわけではない。ただ、石の合わせ目からじわじわ滲み、下へ伝い、床の隅の排水溝へ流れていく。そのゆっくりした量が、かえって始末が悪い。気づかないまま放っておけば、壁も床も、そばの荷も、少しずつ傷む。
ヤコブが膝をついて床を調べる。指先に水を取り、匂いを嗅ぎ、排水溝の先へ視線を走らせた。
「貯水槽側の送水管ですね。昨日今日ではない」
「食糧庫への湿気も、これが一因かもしれないわね」とマギーが言う。
「干魚の保ちが悪くなる」
「麦粉袋の底も傷む」
思わず口を挟むと、ヤコブがこちらを見た。
「昨夜の軽い袋を思い出しましたか」
「はい。中身を抜いた袋とは別に、湿気で量が変わった分もあるかもしれません」
「その切り分けは必要です」
否定されなかったことに、胸の奥で小さく火がともる。
マギーはすぐさま近くの下働き二人を呼び、納戸の酢甕を別の場所へ移させた。ヤコブは帳面に走り書きをしながら、貯水槽の使用を一時的に制限する札を用意させる。早朝の静けさはすぐに崩れ、まだ空が薄いのに、中庭には人と声が増えていった。
その騒ぎの中で、ひとりだけ歩く速さの違う老人がいた。
腰は曲がっているのに足取りは妙に軽い。潮焼けしたような褐色の手に、節だらけの杖を持ち、灰色の外套の裾を石段でひるがえしながら中庭へ入ってくる。顎髭は短く、目だけが妙に若い。マギーがわずかに姿勢を改めたので、ただ者ではないとわかった。
「朝っぱらから石を泣かせたのはどこの誰だ」
老人はそう言って、納戸の前で杖を止めた。
「海風宮付きの老地水師、ベルント師です」とマギーが短く告げる。
「師、この壁の漏れを見つけたのは彼女です」
老人――ベルント師は、そこで初めてクリスティンを見た。作業着の袖をまくり、手のひらを少し赤くした新米書記を、頭から足元まで眺める。その視線は鋭いのに、魚市場で珍しい貝を見つけたときみたいな面白がり方も混じっていた。
「令嬢が?」
「元、がつくかもしれません」とクリスティンは答えた。
「ほう。で、どう見つけた」
「音と、壁の湿り気で……それから、貯水槽からここまで、透明な糸のようなものが見えました」
ベルント師の目が細くなった。今度は値踏みではない。聞き逃してはいけない言葉を拾った顔だ。
「糸、とな」
「はい。水の流れが、細い線みたいに」
「色は」
「ほとんどありません。朝の光が当たると少し白く」
「太さは」
「指より細くて、でも途切れたところだけ急にわからなくなりました」
老人は、ふむ、と喉の奥で鳴らした。それから誰にも断らず、貯水槽の縁へ歩いていく。水面を覗き込み、杖の先で軽く叩き、もう一度クリスティンを手招きした。
「嬢ちゃん。こっちへ」
呼ばれた声に従って近づくと、貯水槽の上には、さっきより多くの糸が見えていた。朝日が差しはじめたせいか、線はさらに薄く、それでも確かに空気を渡っている。ベルント師は何も言わず、貯水槽の縁に置かれた三本の細い銅管を順に指した。
「このうち、詰まりかけているのはどれだ」
試されているのだとすぐわかった。クリスティンは息を整え、糸を見た。右の糸はまっすぐで、左はゆるく揺れている。真ん中だけが、途中で小さくくびれて、先のほうが弱々しい。
「真ん中です」
ベルント師は杖の先で真ん中の管を二度叩き、耳を寄せた。それから、口元の髭を撫でる。
「当たりだ。完全な詰まりじゃない。砂が噛んで水が痩せとる」
背後でマギーが息を止めた気配がした。ヤコブは黙ったまま腕を組んでいる。
ベルント師は、今度は嬉しそうに片眉を上げた。
「水脈が糸に見えるのは珍しい。井戸師にも地水師にもたまにおるが、たいていは年を食ってから鈍く見え始めるもんだ。こんな若いのが、しかも食糧庫の朝っぱらから見つけるとはな」
言われた意味を、クリスティンはすぐには飲み込めなかった。珍しい。見える。自分だけに。
前の人生でも、在庫表の癖や出荷の偏りにはよく気づいた。けれど、それは目と手順で追えたからだ。今、見えているものは、もっと別の、理屈の手前にある感覚に近い。
「偶然では、ないんですか」
思わずこぼれた問いに、ベルント師は笑った。乾いた、海風に慣れた笑いだった。
「偶然で石の裏の水は見つからん。たまたま当てたにしては、答えが二つ続いとる」
そう言って外套の内側を探り、小さな木札をひとつ取り出した。手のひらに乗るほどの薄い札で、青い糸が通してある。表には古い字で〈見習い候補〉と焼き印が押されていた。
「正式な許しじゃない。あくまで仮札だ」
「師」
「黙れ、マギー。海風宮は今、水と食い物の両方で泣いとる。使える手は使う」
老人はそう言って、札をクリスティンの手へ置いた。
木は朝の空気を吸って、少しひんやりしていた。真珠よりずっと軽いはずなのに、掌へ載ると、なぜか昨日までの飾りより重い。
「水の筋が見えたら、勝手に触る前に報せろ。見えたものを思い込みで埋めるな。地面も水も、人の都合では曲がらん」
「はい」
「それと、腹を減らして井戸へ来るな。倒れたら引き上げるほうが面倒だ」
最後の一言で、中庭に小さな笑いが起きた。ネルソンがいつの間にか顔を出していて、「それなら朝飯は俺が見張る」と大きな声で言う。マギーは「まず手を洗わせて」と即座に返し、ヤコブは「仮札をもらっても帳簿は減りません」と冷ややかに言い添えた。
けれど、そのどれもが昨日より少しだけ近い。
クリスティンは木札の青い紐を指でなぞった。透明な糸とは違って、これは確かに手で触れられる。だが、あの朝の水脈が見えた瞬間の震えは、きっとこの先も忘れないと思った。
食糧庫付き書記として始まった場所で、いま、自分の役目がもうひとつ増えようとしている。
海風宮の朝は、まだ冷たい。石壁は湿り、帳簿の空白も、港へ向かった麦粉の筋も、そのまま消えたわけではない。けれど、見えるものが増えれば、直せる場所も増える。
ベルント師が壁の修繕手順をぶつぶつ唱えながら歩き去り、マギーが配置換えの指示を飛ばし、ヤコブが既に漏水分の損耗計算へ頭を切り替えている。そのあわただしさの中で、クリスティンは青い紐のついた仮札を胸元へしまった。
令嬢の飾りではなく、まだ名前も重みもこれから覚えるための札だ。
そのことが、少しうれしかった。




