第15話 恋人試験、再び
報告書を飲み込まれた翌朝、海風宮の帳場には、紙を擦る音がいつもより乾いて響いていた。窓の外はよく晴れ、港の海は磨いた銀皿みたいに光っているのに、机の上へ落ちる空気だけが妙に重い。
クリスティンは、昨日のうちに切りそろえた控え紙を三束、きっちり並べた。白い束には食糧庫用、青い束には灯台局用、灰色の束には筆頭女官室用の細糸を結んである。どれがどこへ流れる紙なのか、ぱっと見てわかるようにするためだ。
「糸を色分けに使う発想は悪くないわね」
朝いちばんで帳場へ顔を出したマギーが、束の端を指先で持ち上げた。結び目の固さまで確かめるみたいな手つきだった。
「同じ内容でも、渡る先が違うと戻り方も違いますから」
「戻る前提で作るのは賢い。昨日みたいに沈められて終わり、では困るもの」
言いながら、マギーは灰色の束を自分の腕へ抱えた。
「これは私が預かる。食糧庫や洗濯場からの申し送りも添えなさい。帳簿だけだと、上はすぐに『書類好きの若手の遊び』にしたがるから」
クリスティンは頷いた。物の流れだけでなく、人の困りごとまで並べる。昨日、西回廊で話した「道を増やす」という言葉が、ようやく形を持ちはじめている。
その日の午前は、サビーナが洗濯場の使い走りを終えてから帳場へ寄り、濁りが出た日の布の被害枚数を教えてくれた。昼前にはネルソンが厨房の裏口から顔だけ出して、干魚の欠品が出た日に献立を差し替えた記録を置いていった。ヤコブは相変わらず硬い顔で数字を突き合わせていたが、必要な欄へは黙って印を入れていく。昨日まで別々に散っていた小さな困りごとが、紙の上で少しずつ同じ流れへ寄ってきた。
「空白、減ってきましたね」
昼下がり、クリスティンがそう言うと、ヤコブは羽根ペンを走らせたまま答えた。
「埋まってきた、ではない。今まで見ないふりをされていただけだ」
厳しい言い方なのに、その声には昨日ほどの苛立ちはなかった。数字の列が、今はちゃんとこちらへ向かって話している。そんな実感があるのだろう。
午後になると、海風宮では海開きの下準備が始まった。廊下の欄干には白布が掛けられ、硝子の風鈴が吊られ、女官たちが儀式用の花を抱えて行き交う。衣装係の部屋からは針仕事の音が絶えず、厨房では祝膳の試作で小鍋がいくつも火にかけられていた。
海も空も明るい日ほど、夜の月がくっきり出る。だからだろうか、夕方ごろから、あちこちで妙な噂が口にのぼりはじめた。
「今夜は月が大きいから、恋人試験にはちょうどいいんですって」
「西の渡り廊下は風が強いでしょう。最後まで一緒に歩けたら本物らしいわよ」
「この前は図面箱でごまかしたくせに」
最後のひと言は、帳場へ伝票を取りに来たサビーナが、いかにも何気ない顔で置いていったものだ。何気ないふりが下手すぎて、クリスティンは思わず羽根ペンを取り落としかけた。
「ご、ごまかしたわけじゃありません。あれは資料が重かっただけで……」
「ええ、存じています。とても重そうでしたもの。片手では持てないくらい」
言い終える前に、サビーナは笑いをこらえきれない顔で逃げていった。
その横で、ヤコブが片眉だけ上げる。
「仕事中に浮ついた噂で手を止めるな」
「止めていません」
「顔が止まっている」
反論できず、クリスティンは帳簿へ視線を戻した。数字は見慣れているのに、今日は妙に列が揺れて見える。昨夜の西回廊で決めたことのほうが大事だ。そう言い聞かせても、風の強い渡り廊下と聞くだけで、あのとき図面箱を二人で抱えた感触が手のひらへ戻ってくる。
日が暮れるころ、クリストフが灯台局側の通路から現れた。海風をまとってきたみたいに、肩へ冷たい匂いを連れている。胸元の革手帳と、いつもの甘い万年筆。彼は机の端へ青糸の束が積まれているのを見ると、目を細めた。
「もう灯台局用の控えまで」
「沈められる前に、沈まない場所を増やすことにしました」
「頼もしいですね」
そう言って笑うのに、彼の声もどこか弾みすぎていた。たぶん、廊下のあちこちで自分も噂を聞かされてきたのだろう。
クリスティンは青糸の束を差し出した。
「今日のぶんです。補給船の到着時刻と、厨房の献立差し替え記録、それから洗濯場の被害枚数も」
「助かります。こちらも北塔の補助灯の使用記録をまとめました。霧の夜の便数も足しておきます」
紙を受け取るとき、指先が一瞬だけ触れた。
たったそれだけで、なぜこんなにも意識してしまうのか、自分でも困る。前の人生では、伝票を受け渡す手なんて毎日見ていたはずなのに。けれど彼の手は、紙を雑に扱わない。万年筆と同じように、相手が持ってきたものごと大切に受け取る。その癖を知ってから、触れる一瞬まで落ち着かなくなった。
その場へ、衣装係の薄青の上着を羽織ったメロディがひょいと現れた。後ろからはサビーナまで顔をのぞかせている。
「よかった、二人ともまだいた」
「いた、じゃありません。いるのが仕事です」
クリスティンが言うと、メロディはまるで聞いていない顔で続けた。
「西の渡り廊下に掛けた祝布、月光の下で色味を見たいの。夜風で結び目が緩むかどうかも確かめたいし」
「衣装係なら、ご自分で確認できるでしょう」
「ひとりではつまらないじゃない。あそこ、今夜は恋人試験の晩なんでしょう?」
クリスティンが息をのむ横で、クリストフが咳払いをした。咳払いのあとで耳だけ少し赤くなるのが、彼は案外わかりやすい。
「私は灯台局の記録を……」
「月の出まで少しでしょう? ついでに風向きも見てきてくださいな。灯台局らしく」
メロディは有無を言わせない手つきで、二人の背を押した。サビーナまで両手を合わせて「よろしくお願いします」と芝居がかった礼をする。まるで最初から、断られる余地など考えていない。
結局、クリスティンとクリストフは、西の渡り廊下へ向かうことになった。後ろでくすくす笑う気配がする。振り返るのは癪なので、クリスティンは前だけを見た。
海風宮の西側は、夜になると人通りが減る。月が出るころには、海へ開いた渡り廊下が白く浮かび上がり、昼間より広く見えることがある。今夜はまさにその色だった。欄干へ掛けられた祝布が淡い光を含み、硝子の風鈴が、鳴るか鳴らないかの小さな音を繰り返している。下では波が石垣を撫で、沖の灯台がひとつずつ、星みたいに瞬いていた。
「……本当に確認だけですからね」
クリスティンが小声で言うと、隣のクリストフが同じくらい小さな声で返した。
「ええ。結び目と風向きと、あと布の色味だけです」
「恋の真偽は」
「管轄外です」
思わず吹き出しそうになって、クリスティンは口元を押さえた。こういうときに冗談を挟めるのがずるい。さっきまで強張っていた肩が、それだけで少しほどける。
渡り廊下の半ばまで来たところで、海から強い風がひとつ吹き上がった。祝布が大きくふくらみ、欄干へ結んであった細紐がぱちんと音を立てる。クリスティンは反射的にそちらへ手を伸ばしたが、磨かれた板床の上で、靴が半歩だけ滑った。
「あ……っ」
次の瞬間、右腕をしっかりつかまれていた。
クリストフの手だった。
引かれるというより、倒れない位置へ戻された感覚に近い。けれど思ったより近くへ身体が寄り、クリスティンは息を詰めた。彼の肩越しに、月を映した海が揺れている。潮の匂いと、紙とインクと、ほんの少しだけ蜂蜜に似た甘い香りが混ざった。
「大丈夫ですか」
「……はい」
答えたのに、腕はすぐには離れなかった。離さないほうが安全だと、たぶん彼は思っている。たったそれだけなのに、腕を包む熱がじわじわ意識へ広がっていく。
風がもう一度吹いた。今度はクリスティンの髪飾りの小珠が揺れただけで、足は滑らない。それでも、彼の手はまだそこにあった。
「この廊下、こんなに滑りましたっけ」
自分でも驚くほど、かすれた声が出た。
クリストフが少しだけ視線を逸らす。
「今日は磨きたてだそうです。海開き前だから」
「それは……恋人試験向きではありませんね」
「試す相手に親切ではないですね」
そう言いながらも、彼はやはり手を離さない。いや、離せないのかもしれない。クリスティンはようやく気づいた。惜しいのだ。離れてしまうのが。
その瞬間、胸の奥がひどく静かになった。恥ずかしさで頭がいっぱいになると思っていたのに、実際にあったのはもっと困る種類の確信だった。自分は今、この人に支えられたままでいたいと思っている。
馬鹿みたいだ、と心のどこかで思う。渡り廊下の噂ひとつで浮かれるような年でもない。前の人生を思えば、終電の階段をひとりで駆け下りたことだってある。重い箱を抱えて倉庫を横切ったこともある。腕をつかまれなければ歩けないわけじゃない。
けれど、歩けることと、離したくないことは、同じではないのだ。
「クリスティン嬢」
呼ばれて顔を上げると、クリストフはいつになく困ったような、でも目をそらしきれない顔をしていた。
「……もう、平気そうですか」
問い方がずるい、と彼女は思った。平気だと言えば、この手は離れる。平気ではないと言えば、それはそれで別の意味を持ってしまう。
「たぶん」
「たぶん」
「ええ、たぶんです」
同じ言葉を繰り返したせいで、二人とも少しだけ笑ってしまった。張りつめていた空気が、その笑いでやわらぐ。けれど、やわらいだからこそ、離れる理由も薄くなる。
結局、クリストフがゆっくり手をほどいたのは、祝布の結び目を確かめ終えて、廊下の端にある柱まで来てからだった。指が離れる一瞬、クリスティンは自分でも呆れるくらい、名残惜しさを覚えた。そしてたぶん、彼のほうも同じだった。離したあとの手が、すぐには脇へ戻らず、宙でほんの少し迷ったからだ。
「色味はどうでしたか」
照れ隠しみたいに、クリストフが布のほうを見る。
「月の下だと、昼より白く見えます」
「風は」
「強いです。でも、結び直せば持ちます」
「では、報告はそれで」
「それで」
まともな会話の形をしているのに、どこか全部が上滑りしていた。互いに別のことを考えているのが、声の端に滲んでいる。
戻り道の半ばで、案の定、柱の陰からメロディとサビーナが顔を出した。二人とも見てはいけないものを見た顔ではなく、まんまと期待どおりの場面を見届けた顔をしている。
「お帰りなさいませ。結び目はいかがでした?」
サビーナが言う。
「ほどけやすいので、しっかり支え合わないと危険みたいよ」
メロディが続ける。
クリスティンは何か言い返そうとして、結局うまい言葉が見つからなかった。否定すればするほど、今しがた腕に残った熱が本物になる気がしたからだ。
代わりに、クリストフが静かに答えた。
「風は強かったですが、無事に渡れました」
「まあ」
メロディが細い目をさらに細める。
「それは良い報告ね。恋人試験としては、満点に近いわ」
その言葉に、クリスティンの耳まで熱くなる。隣に立つクリストフも、さすがに何も返せなかった。
帳場へ戻るころには、月はさらに高くなっていた。机の上の青糸と灰糸が、窓から入る光を受けて淡く光る。クリスティンは席についたものの、しばらくは数字が頭へ入ってこなかった。腕に触れていた手の感触が、まだ残っている。
向かい側では、クリストフが灯台局用の控えをまとめていた。普段なら滑るように走る万年筆が、今夜は一度だけ、紙の上で止まる。その止まり方を見て、クリスティンは胸の内側がまた静かに鳴るのを感じた。
冗談の噂だと思っていた。子どもじみた言い伝えだと、笑ってやり過ごせるはずだった。
けれど月の下の渡り廊下で、よろけた腕をつかまれたあの一瞬は、もうただの笑い話では片づかない。仕事の話をしているときの彼のまなざしも、紙を受け取る手つきも、帰る人のために灯りがあると言った夜の声も、全部が一本の流れにつながってしまった。
恋かどうか、まだ名づけるには早いのかもしれない。
それでも、手を離すのが惜しいと思ってしまった気持ちだけは、ごまかしようがなかった。
そしてきっと、それは自分だけではないのだと、クリスティンは知ってしまった。




