第12話 洗濯場の井戸と怒る女官たち
夜食鍋の使用分を帳面へ写し終えた翌朝、クリスティンは、乾ききらない髪をひとつに束ねたまま、食糧庫脇の机で眠気と戦っていた。
昨夜の風は去ったはずなのに、海風宮の石壁にはまだ冷えが残っている。指先へ息を吹きかけながら数字をそろえていると、遠くの中庭から、布を裂くより鋭い声が飛んできた。
「ちょっと、これを見なさいよ!」
次の瞬間、足音が回廊を駆けてきた。勢いよく帳場の戸が開き、メロディが顔を出す。いつもは余裕たっぷりに髪を結い上げている彼女が、今日は片袖を肘までまくり、額に細かな汗をにじませていた。
「クリスティン、手を貸して。今すぐ」
「何がありました」
「洗濯場の井戸水がだめ。白布が灰色に濁ったの。怒ってる女官をなだめるのは後でもできるけど、布は待ってくれないわ」
椅子を引く音もそこそこに立ち上がる。説明を聞きながらついていくと、回廊の先から石鹸と湯気と湿った麻布の匂いが押し寄せてきた。その中へ、いつもは混じらない、ざらついた土のような匂いが細く刺さっている。
洗濯場は朝から沸き返っていた。
木桶が並び、湯気の立つ大釜の前で女官たちが腕まくりをしている。その真ん中に、濡れた白布が何枚も広げられていた。雪みたいに白いはずの礼布の端へ、薄い雲をこすりつけたような灰色の筋が走っている。
「一番上の桶だけじゃないのよ」
メロディがしゃがみこんで布端をつまみ上げた。
「二桶目も三桶目も同じ。これ、乾いたらもっと目立つわ。午後の衣装合わせに回す白布まで汚れたら、わたし、笑って済ませない」
その「済ませない」は、だれかを責めるための脅しではなく、絶対にここで止めるという音だった。
洗濯女官のひとりが、赤くなった手を握りしめて言う。
「わたしたちはいつもどおりです。灰汁も量りました。布をこすりすぎてもいません」
「誰もあんたたちを責めるって言ってないでしょう」
メロディはぴしゃりと言い返したが、場の空気はもう尖っている。別の若い女官が桶をのぞきこんで、唇を噛んだ。
「朝いちばんの水だけ変だったんです。いえ、最初は気づかなかったんですけど……底に白い粉みたいなのが」
クリスティンは返事の代わりに、桶の水へ手を差し入れた。指先に細かなざらつきが残る。すくい上げて鼻先へ近づけると、石灰に似た乾いた匂いがした。飲み水用の甕に残っていた水も見せてもらうと、そちらは透明で、匂いも違う。
井戸そのものか、井戸へ入る前か。
胸の奥で、あの細い感覚が目を覚ました。クリスティンは洗濯場の隅にある石組みの井戸へ視線を向ける。朝の光の中で、水脈の糸はいつものように透けて見えた。だが今日は、井戸へ落ちてくる少し前で、その一本が白く濁っている。
「上を見ます」
「上?」
「この井戸へ入る前の流れです。昨日の風で何か剥がれたのかもしれません」
そう言うと、洗濯女官たちの何人かが顔を見合わせた。誰かを問い詰めるより先に、原因を探す言葉が落ちたせいか、怒りの行き場が少し変わる。
メロディはすぐに声を張った。
「聞いたでしょう。桶は止めて、白布は全部別に寄せて。色物と混ぜない。誰か二人、クリスティンと上の水受けまで来て」
返事はほとんど同時に上がった。さっきまで責めるような目をしていた年長の女官まで、もう桶の位置を変えている。仕事が見えると、人は怒鳴るより先に手を動かせるのだと、クリスティンはまたひとつ知った。
洗濯場の裏手には、井戸へ落とす前に水をいったん受ける小さな石槽がある。雨除けの庇の下、細い階段を上った先だ。昨夜の風で飛ばされた葉が張りつき、足元がまだ湿っている。
途中、クリスティンは壁際に白い筋を見つけて立ち止まった。指でこすると、粉が爪先へ残る。乾いた貝殻を砕いたような細かさだ。
「これ……」
後ろからついてきた女官が眉を寄せる。
「昨日、補修役がここを直していました。石の継ぎ目が浮いたとかで」
「いつ?」
「夕方前です。雨になる前に急いで塗りこんでいました」
石槽へ回り込むと、原因はもっとはっきりした。
水受けの縁の一か所だけ、新しい補修材が白く貼られている。だがその下半分が崩れ、まだ固まりきらないまま水へ溶け落ちた跡があった。昨夜の風で吹き込んだ雨と、朝いちばんの取水で流れが強まり、未乾きの補修材が井戸へ落ちたのだろう。
クリスティンは屈みこみ、石槽の端へ指をつけた。ぬるりとはせず、ざらつく。やはり石灰と細砂、それに防水用の樹脂を混ぜた応急材だ。飲み水ならまだしも、白布には最悪だった。
「井戸が悪いんじゃない。ここです」
言い切ると、メロディがすぐ横へ並んだ。
「止められる?」
「完全に固まるまで使わせないのが一番です。でも午前じゅう水が止まると洗濯場が回らない」
頭の中で、必要な手順を順に並べる。まず流れを脇の捨て溝へ逃がす。石槽の粉をさらい、布を張り替え、粗い砂で一度受ける。井戸の水は上澄みだけではだめだから、何桶か汲み上げて捨てる。白布は灰汁洗いをやり直す前に、酢を落とした薄水で粉を浮かせたほうがいい。
「捨て溝を開けます。誰か、下の弁を上げられる人を呼んでください。それと、古い濾し布と粗砂、木匙、桶を四つ」
年長の女官が、今度は迷わずうなずいた。
「砂なら裏庭の壺にあります」
「濾し布は、破れかけた晒しでいい?」
「十分です。白布はまだこすらないで、別桶で待ってください」
言葉が次々に返ってくる。メロディが階下へ向かって大声で指示を飛ばし、洗濯女官たちが走る。さっきまで怒りでいっぱいだった場が、今は同じ方向へ熱を持ち始めていた。
ほどなくして、道具が集まった。下弁を上げるために来た補修役の若者は、崩れた継ぎ目を見た瞬間、顔色を変えた。
「乾いたと思ったんです。昨夜、風があそこまで回るとは……」
言い訳は最後まで続かなかった。メロディが冷ややかに見るより早く、クリスティンが手を出したからだ。
「今は責める順番じゃありません。溝を開けてください。固まり残りを先に流します」
若者は弁の棒を握りしめ、無言でうなずいた。
水の向きを変えると、石槽の底から白濁した水がどっと流れ出した。女官たちが木匙で崩れた補修材をさらい、クリスティンは濾し布を二枚重ねて張り直す。砂を入れた受け桶へ水を通すと、最初の一桶は乳みたいに曇った。二桶目で薄まり、三桶目でやっと向こうの石目が見えるようになる。
下の井戸でも、汲み上げた水を何桶か捨てた。縄を引くたび腕がきしむ。白い袖口が濡れ、頬へ張りついた髪がうるさい。それでも、仕事靴ではない滑りやすい靴のことを忘れるくらい、体が先に動いた。
「クリスティン、これでどう」
メロディが差し出した木椀の水は、さっきよりずっと澄んでいた。けれど、光へかざすと、まだ底にわずかな粉が舞っている。
「あと二桶です」
答えると、横で縄を引いていた年長の女官が、ふっと息をもらした。
「細かいところまで見るのね、あなた」
からかいはなかった。汗と湯気にまじった、そのひと言は、ただの確認だった。
「白布は、ごまかすとすぐ出ますから」
クリスティンが言うと、女官は口の端だけで笑った。
「そのとおり」
四桶目の水がようやく透きとおったころ、洗濯場の空気も変わっていた。さっきまで桶のふちを叩いていた若い女官が、今は黙って別桶へ白布を移し、別の者が薄酢水を量っている。メロディは濡れた白布を持ち上げ、筋の入った部分を見極めてから言った。
「まだ助かる。灰汁を落としてから、酢水をひとはしり。すすぎはこの井戸が完全に戻ってから。午後の衣装合わせに間に合わない分は、わたしが順番を入れ替える」
誰も文句を言わなかった。
そのとき、下の階段からヤコブが現れた。騒ぎを聞きつけたらしい。石槽の崩れた縁と、並べられた濁り水の桶を見て、一目で事情を飲みこんだ顔になる。
「補修材の伝票はどこだ」
若い補修役が肩をすくめかけたが、ヤコブの視線に射抜かれて、すぐに工具袋から紙片を出した。
「帳場へ来い。乾き時間を省いたなら、その分まで書き直させる」
そう言ってから、ヤコブはクリスティンの足元に転がっていた空桶を一つ起こした。
「井戸の廃棄分、あとで記録へ入れろ。見なかったことにはしない」
それだけ残して去っていく。相変わらず愛想はない。けれど、責任の線をきっちり引いてくれる人がいるだけで、現場は妙に静かになる。
昼前、洗濯場の井戸はようやく元の透明さを取り戻した。
最初に洗い直した白布を、皆で息を止めるみたいに見守る。水を切り、広げ、光へかざす。灰色の筋はまだわずかに残るものもあるが、午後の衣装合わせへ回せる程度まで戻った。
洗濯場のあちこちで、張っていた肩が一斉に落ちた。
メロディが濡れた手の甲で額をぬぐい、クリスティンへ布端を放ってよこす。
「押さえて」
反射的に受け取って端を引くと、彼女は反対側をぴんと伸ばした。
「最初に怒鳴ったの、訂正しておくわ。あれは布に向かってで、あなたにじゃないから」
「わかっていました」
「ならいい」
言葉は素っ気ないのに、布を広げる手つきはどこかやわらかかった。
その横で、さっきまで強い口調だった年長の女官が、別の娘へ言うのが聞こえた。
「ぼさっとしないの。次の桶を……そうね、クリスティンさんのところへ持っていきなさい」
さん。
その一音が、湯気の中で小さく跳ねた。
クリスティンは顔を上げなかった。上げたら、たぶん少しだけ嬉しい顔をしてしまう。代わりに、濡れた白布の端をしっかり持ち直す。
洗い場の光の下で布が風をはらみ、まっすぐ伸びた。
怒る声ばかりだった朝の洗濯場で、今は桶の水音と、布を絞る手の音と、次に何をするかを確かめ合う声が重なっている。その輪の中へ、自分の名前が自然に混ざったことが、なにより胸に残った。
口先だけでは、白布の灰色は落ちない。
けれど、原因を見つけ、順番を決め、皆で手を動かせば、汚れた朝でも午後へ間に合わせられる。
そのことを、洗濯場の井戸は、冷たい水の透明さで教えてくれた。




