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潮騒後宮のごはん灯台令嬢 ――悪役扱いの転生令嬢は、地水師として食卓と航路を立て直します――  作者: 乾為天女


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第11話 潮見表と夜食鍋

 翌朝、海風宮の窓はいつもより早く鳴り出した。まだ空が白みきらないうちから、硝子のはめ込まれた細窓が、かた、かた、と規則の乱れた音を立てている。布団の中でその音を聞いた瞬間、クリスティンは潮の具合がよくないのだとわかった。昨夜より風が強い。しかも、南からではなく、外海の冷たいほうから吹きこんでいる。


 寝台から起き上がると、机の端に置いたままの携帯灯が目に入った。丸い硝子の中の火はとうに消えているのに、夜の帰り道の温かさだけが、まだ取っ手に残っている気がする。


 返さなくては。


 そう思って身支度を整え、海風宮へ向かうと、坂の途中からもう海が荒れているのが見えた。朝の港なら本来、漁の小舟や荷を積んだ艀が、潮の呼吸に合わせてゆるやかに上下するはずなのに、今朝は白い飛沫が岸壁へ斜めに叩きつけられている。見張り台の旗も、きれいに翻るというより、引きちぎられそうに暴れていた。


 北棟の帳場へ入ると、いつもの紙の匂いに混じって、湿った風の冷たさが流れこんでいた。机の上には潮位表、補給記録、灯台から回ってきた夜間報告が広げられている。いつもなら几帳面に重ねてある書類が、今日は最初から急いだ手つきで動かされたのだとわかる散らかり方だった。


 クリストフは窓際で、細い定規を潮見表の上へ滑らせていた。濃紺の上着の袖口に、もう小さな潮染みがついている。朝一番で港まで行ってきたのだろう。


 「おはようございます」


 声をかけると、彼は振り向いて、すぐにクリスティンの手もとを見た。


 「携帯灯、持ってきてくださったんですね」


 「はい。ありがとうございました」


 差し出すと、彼は受け取る代わりに、机の端を軽く叩いた。


 「置いておいてください。たぶん、今日も遅くなります」


 さらりと言われて、クリスティンは携帯灯を胸に抱えたまま固まる。


 「たぶん、では困ります。返却記録の欄にどう書けばいいんですか」


 「では、灯台局監査補が業務上の必要を見こして再貸与、と」


 「便利な言い方ですね」


 「こういう日のための便利さです」


 その答え方が少しだけ可笑しくて、クリスティンは肩の力を抜いた。だが、すぐ机の上へ視線を落とす。潮見表に赤い印がいくつも増えていた。


 「何かありましたか」


 クリストフは冗談を引っこめるように、指先で紙の上を示した。


 「南回りの補給船が、岬の手前で足止めです。昨夜のうちに沖待ちへ切り替えたそうですが、夜明けから風向きが変わって、入りどころを失いました。昼の便も、夕方の便も、まとめて後ろへずれます」


 「どのくらい」


 「最短で、夕刻の鐘のあと。悪ければ夜半前です」


 クリスティンは息をのんだ。


 海風宮の献立は、朝に決まればそのまま滑るように各持ち場へ流れていく。上の食卓、女官たちの交代食、見張り番の握り飯、洗濯場の差し入れ、灯台詰所へ回す保存食。ひとつ遅れれば、どこかが必ず冷える。しかも今日は風が強い。温かい物を待つ時間が長いほど、働く手は鈍る。


 「厨房へ行ってきます」


 クリスティンが言うと、クリストフは小さくうなずいた。


 「献立の予定表はもう回っています。変更するなら早いほうがいい」


 「潮の山、次はいつですか」


 「昼過ぎに一度。ですが風がこのままだと、船はそこも使いません。入るなら日が落ちてからです」


 彼の万年筆が、紙の端でかすかに甘い匂いを放った。蜜を含んだインクの香りだ。こんな忙しい朝でも、その匂いを感じ取れる自分に、クリスティンは少しだけ不思議な気分になった。


 帳場を飛び出して厨房へ向かうと、石の廊下の先からすでに騒がしさが聞こえていた。鍋蓋のぶつかる音、薪を運ぶ足音、指示の飛び交う声。その真ん中で、ネルソンが大きな木杓子を片手に、いつになく渋い顔をしている。


 「朝の便が遅れるって、あれ本当か」


 クリスティンが扉をくぐるなり、彼はそう言った。


 「本当です。夕刻の鐘より前は厳しいそうです」


 「参ったな……昼はまだどうにかなる。塩鱈も芋もある。問題は夜だ。上の卓に出す青物と、夜番に回す汁の実が、どっちも足りねえ」


 厨房の長机には、使うはずだった献立の札が並んでいた。本日の夕餉。若葉の香草煮、貝の蒸し焼き、春菜の白あえ。どれも、今朝の便で届くはずの品が入って初めて形になる料理ばかりだ。


 その横では、下拵えに回せそうな残り物が肩を寄せ合っていた。少し曲がった人参、外葉を剥いたあとの若菜の芯、割れてしまって正規の皿へ出しにくい茸、昨日の選り分けで残した小さな干魚、だしを取ったあとの昆布の厚い部分。捨てるには惜しいが、晴れの日の献立には乗せにくい顔ぶれだ。


 クリスティンは卓の端へ手を置き、頭の中で持ち場の人数を並べた。上の食卓。帳場の遅番。北門の見張り。夜の洗濯場。港から戻る荷役の者。遅く食べる人ほど、いつも冷えた皿を引き当てる。海が荒れる日はなおさらだ。


 「ネルソンさん。夜だけ献立を別にしませんか」


 「別にって、どっちをだ」


 「上へは、今ある保存食で組める物を先に。遅番と夜番には、鍋です」


 木杓子が、ぴたりと止まった。


 「鍋」


 「はい。干魚でだしを取って、残り野菜を全部入れるんです。潮見表を見ました。補給船が入るなら日が落ちてからです。港で荷下ろしが始まれば、帳場も見張りも食べる時刻がさらに後ろへずれます。だったら最初から、火にかけ続けられる鍋のほうがいい」


 ネルソンは長机の上を見まわした。人参の先、青菜の芯、玉ねぎ半玉、樽に残った麦粒。笑い出しそうで、しかし本気で考えている顔つきになる。


 「悪くねえ。いや、かなりいい。だが女官長筋が許すかどうかだな。余り物の寄せ集めを出したって言われりゃ、面倒になる」


 「余り物の寄せ集めではなく、夜番専用の温鍋です」


 クリスティンはそう言い切った。口に出してから、自分でも少しだけ強い言い方だったと思う。けれど今日は、遠慮している間に汁が冷える日だ。


 「遅番の人たちが食べるころには、たいてい皿の縁まで冷たくなっています。海が荒れている日に、冷えた食事を最後に回すのは、働かせ方として良くありません。夜の持ち場に合わせて、温かいまま出せる物を作るべきです」


 厨房の隅で皮剥きをしていた若い下働きたちが、手だけ動かして耳をこちらへ向けているのがわかった。誰も何も言わない。ただ、聞いている。


 ネルソンが顎をさすった。


 「火にかけっぱなしなら、配膳のずれにも耐えられる。見張り番が先か、帳場が先かでも揉めにくい。よし」


 彼は大声で振り向いた。


 「第二煮炊き場、いちばん大きい鉄鍋を出せ! 割れ茸も芯菜も、捨て置き箱の分まで持ってこい! 干魚は小さく裂いて骨ごと使う!」


 指示が飛んだ途端、厨房が動き出す。薪が抱えられ、桶が走り、まな板の上で包丁が小気味よく鳴り始めた。迷っていた空気が、一気に料理の音へ変わる。


 その勢いの中で、年嵩の配膳係が眉をひそめた。


 「でも、献立札はもう回っておりますよ。上に出す分まで崩したら、あとで何を言われるか」


 クリスティンはその人へ向き直った。


 「上の卓は崩しません。塩鱈の焼き物と芋の煮ころがし、貝の代わりに海藻の和え物で組みなおせます。札は私が書き直します。帳場へも回します」


 「そんな急に書き直して、印は」


 「ヤコブ様に通します」


 その名が出ると、配膳係は口をつぐんだ。怖いからではなく、数字の形になるなら話は別だとわかっている顔だった。


 クリスティンはすぐ帳場へ戻ろうとしたが、その前に棚の片隅で眠っていた黒板札が目に入った。伝言用の小さな板だ。彼女はそれを抱え、白墨をつかむ。


 夕餉変更。上卓配膳は通常より半刻早め。遅番・夜番には第二煮炊き場にて温鍋。配膳開始は第七鐘後、入港の報せにより第八鐘まで延長あり。


 書きつけた文字を見返し、もう一枚には持ち場別の予定を書く。北門、帳場、洗濯場、港荷受け。潮の時刻と見張りの交代に合わせて順番をずらす。前の人生で、出荷の便が遅れた日の臨時表を作ったときと、手の動きがよく似ていた。


 帳場へ戻ると、ヤコブはすでに何冊もの記録帳を開いていた。机の上に置かれた印章の横で、彼はクリスティンの黒板札をひと目見て、眉をしかめる。


 「誰の許可だ」


 「まだいただいていません。ですので今からください」


 「図々しさだけは育ったな」


 言葉は冷たいが、黒板札から目を離さない。クリスティンは間を置かず続けた。


 「今朝の便が遅れます。夜の献立を分けます。上卓は保存の利く物へ組み替え、遅番と夜番には鍋を出します。潮の山と荷受けの時刻を見て、配膳を後ろへずらしました。帳場の受領記録も時刻を書き換えたいんです」


 ヤコブは指先で机を二度叩いた。


 「鍋の中身は」


 「残り野菜、割れ茸、干魚、麦、昆布。塩は控えめにして、船から戻る人用には後入れの塩壺を別に置きます」


 「燃し薪の追加は」


 「第二煮炊き場で一釜にまとめるので、皿ごとの温め直しより少ないはずです」


 「はず、で帳面はつけられん」


 「ですから、つけてください」


 言ってしまってから、少し遅れて心臓が跳ねた。さすがに言い方があったのではないかと思ったが、ヤコブは怒鳴らなかった。代わりに、黒板札の端をひっくり返し、空白に短く数字を書きつける。


 「干魚二樽の半。麦一桶の三分。薪は第三棚から二束まで。これを越えたら別勘定だ」


 それから印章を持ち上げ、書き直した夕餉変更札へ無造作に押した。


 「回してこい。あとで受領数を合わせる。ずれたらお前も厨房もまとめて絞る」


 「はい」


 許可だ。


 黒板札を抱えたまま廊下へ飛び出すと、風がいっそう強くなっていた。北回廊の窓から見える海は、昼前だというのに鉛みたいな色をしている。持ち場へ札を回しながら、クリスティンは何度も配膳時刻を頭の中で組み替えた。洗濯場から戻る女官が先。帳場の遅番はその次。港の荷役が始まったら、見張り番と一緒にまとめて第二煮炊き場へ呼ぶ。椀の数は足りるか。匙は。塩壺は二つ必要か。考えることが多いほど、足が速くなる。


 昼を過ぎても、船の報せは来なかった。


 上の食卓へは、書き換えた札どおりの料理が出た。香草煮の代わりに塩鱈の炙り、春菜の代わりに海藻和え。派手さは落ちたが、皿は整っている。文句が上から落ちてくる気配はまだない。


 問題はそのあとだった。


 第二煮炊き場の大鍋は、もう湯気だけでひとつの天気みたいだった。裂いた干魚から出る濃いだしに、玉ねぎの甘い匂い、若菜の青さ、昆布のやわらかな重みが溶けている。試しに木杓子ですくった汁を舐めると、塩気は穏やかなのに、身体の奥へじんわり落ちる味がした。


 ネルソンが満足そうに鼻を鳴らす。


 「いい。派手じゃねえが、夜の腹にはこれだ」


 「麦、もう少し入れますか」


 「いや、これ以上は重い。帳場の連中は食ってすぐ机に戻るだろ」


 「では見張り番のぶんだけ、あとから別鍋で足します」


 そう話しているところへ、サビーナが駆けこんできた。頬を風で赤くして、息を切らしている。


 「港から報せです! 南回りの船、一隻だけ、今夕の鐘のあとに入れるかもしれないって!」


 「かもしれない、ね」


 ネルソンが眉を上げる。


 「それでも、ないよりずっといいです」


 クリスティンは黒板札の時刻を見直した。第七鐘から開始。第八鐘まで延長。まだそのままでいい。問題は、荷下ろしが始まれば帳場の人間が食堂へ下りてこられなくなることだ。


 そこへ、もうひとり、濡れた外套のままクリストフが現れた。髪の先からしずくを落としながらも、抱えた書類はきっちり油布で守っている。


 「入港は一隻だけです。残りは夜半以降。しかも荷役を急ぎます。北桟橋の帳場は食事を摂る暇がなくなる」


 やはり、と思った。けれど同時に、読みが当たったことへ妙な落ち着きもある。


 「第二煮炊き場へ運び込みます」


 クリスティンはすぐ答えた。


 「帳場に椀だけ並べても冷えます。鍋ごと近い場所へ寄せて、交代で食べてもらったほうが早いです」


 クリストフは一瞬だけ考え、うなずいた。


 「北桟橋の控え室なら風も避けられます。火鉢は二つある」


 「薪の追加が必要になりますね」


 「そこは、私の監査印で通します」


 言いながら、彼は油布の端で万年筆を拭った。蜂蜜のような香りが、湯気と魚だしの匂いにまじる。慌ただしいのに、なぜか落ち着く組み合わせだった。


 日が傾き始めるころ、海風宮の石床にまで風の唸りが伝わるようになった。遠くで鐘が鳴る。第七鐘だ。遅番の女官たちが、半信半疑の顔で第二煮炊き場の前に集まり始める。


 「本当にここで食べていいの」


 「帳場の分まであるのかしら」


 「また最後の人だけ汁しか残らないんじゃないの」


 そんな声が交じる中、クリスティンは黒板札を掲げた。


 「今夜は持ち場ごとに順番を分けています。洗濯場から戻った方が先、そのあと帳場、港、北門です。椀の底まで具がいくように、下からよく混ぜますので、押し合わないでください」


 最後の言葉だけ、少し強めに言う。すると年若い女官が、くすりと笑った。


 「前よりずっと似合うわ、その言い方」


 茶化しではない。働く場所の声として受け取ってくれた響きだった。


 最初の椀を受け取ったのは、洗濯場帰りの小柄な女官だった。指先を湯気へ近づけ、目を丸くする。


 「熱い……!」


 その一言に、まわりの空気が少しやわらいだ。


 次々に椀が渡る。干魚のだしを吸った若菜、ほろほろの玉ねぎ、麦のやさしい重み。皆、最初のひと口を飲むと無言になり、それからようやく肩を落とす。緊張がほどける音まで聞こえそうだった。


 サビーナが椀を抱えたまま、息をついた。


 「夜の持ち場で、こんなに熱いのを食べるの初めてかもしれない」


 「大げさでは」


 クリスティンが言うと、サビーナは首を振る。


 「大げさじゃありません。いつもは、食堂に下りたころには表面に膜が張ってるもの」


 その言葉を、帳場から駆けつけた別の女官も聞いていたらしい。


 「わかるわ。匙が立つくらい冷えてるのよね」


 「今日は立たないわよ」


 誰かがそう返し、小さな笑いが起きた。


 そのころには、厨房から北桟橋の控え室へ、別鍋を運ぶ支度も整っていた。ネルソンが鍋耳を握り、クリストフが火鉢の場所を書きつけ、クリスティンが椀と塩壺の数を確かめる。帳場の書記が自分から鍋運びへ手を貸しに来たのを見て、厨房の下働きが驚いた顔をした。けれど誰も文句は言わない。今夜は、持ち場の境目より先に、風の冷たさが皆に平等だった。


 北桟橋の控え室では、濡れた外套のまま書類を抱えていた男たちが、鍋の湯気を見た途端に顔を上げた。見張り番のひとりが、椀を受け取るなり目をしばたたかせる。


 「この時間に、温かい汁物が来るとは思わなかった」


 「思わせたかったんです」


 クリスティンがそう答えると、男は少し驚いてから、口の端を上げた。


 「では、ありがたく思わされておこう」


 港へ入れた一隻の荷役がようやく動き始めたのは、第八鐘の少し前だった。岸壁から怒声と綱の擦れる音が飛んでくる。控え室で鍋を囲んでいた帳場の書記たちは、椀を空けるとすぐ立ち上がったが、顔色はさっきよりずっとましだった。


 夜も深くなり、最後の鍋底をさらうころ、厨房へ戻ったクリスティンは、ようやく大きく息を吐いた。腕は重く、足の裏はじんじんする。それでも、空っぽになった鉄鍋の底を見ると、妙な達成感がこみ上げてくる。


 「見事なもんだったな」


 ネルソンが木杓子を肩に担いで笑う。


 「鍋ってのは腹だけじゃなく、場もまとめる。今日はそれがよくわかった」


 「ネルソンさんが動いてくださらなかったら、まとまりませんでした」


 「俺は鍋を混ぜただけだ。時刻を混ぜたのはお前さんだろ」


 その言い方に、クリスティンは少し照れて視線を落とした。時刻を混ぜた。たしかに、今夜やったのはそういうことかもしれない。鍋の具だけではなく、人が空腹になる時間と、働かなければならない時間と、船が入れる潮の時間とを、ひとつの鍋のまわりへ寄せたのだ。


 そこへ、紙束を抱えたヤコブが現れた。夜更けだというのに背筋は昼と変わらずまっすぐで、疲れが顔へ出ない人だと改めて思う。


 「使用分の記録を出せ」


 ねぎらいの言葉は、ない。やはりない。


 クリスティンは苦笑しそうになるのをこらえ、控えていた札を渡した。干魚、麦、野菜、昆布、薪。持ち場別の椀数。延長した時刻。塩壺追加一。書けるだけ書いた。


 ヤコブはその場で目を走らせ、指先で数字を追う。厨房の湯気の中でも、彼の目だけは紙の上で冷静だった。


 「薪は二束弱、予想どおり。干魚は予定献立をそのまま引くより安い。麦を入れたぶん腹持ちも増す」


 クリスティンは返事を待った。叱られるのか、減点されるのか、それとも別の数字を突きつけられるのか。


 だがヤコブは帳面を閉じただけだった。


 「次からは、鍋を運んだ人数も書け。人手も費用だ」


 それだけ言って、踵を返しかける。


 「あの」


 思わず呼び止めると、彼はいやそうに半身だけ振り向いた。


 「……赤字では、ありませんでしたか」


 ヤコブは、ほんのわずか眉を上げた。


 「食えずに捨てるより、食わせて働かせたほうが安い。当たり前だ」


 それは褒め言葉ではない。たぶん本人にそのつもりもない。けれど、クリスティンの胸には、妙にまっすぐ落ちてきた。


 ヤコブはそのまま去っていった。紙束を抱えた背中は相変わらず愛想がないのに、帳場の扉を閉める直前、厨房の床へ置かれた空の鍋を一度だけ見たのを、クリスティンは見逃さなかった。


 後片づけを終えて外へ出ると、海風宮の裏手の空には、ちぎれた雲のあいだから遅い月がのぞいていた。風はまだ冷たいが、朝ほど刺すようではない。港のほうでは、ようやく入った一隻の補給船の灯りが、波に揺れながらいくつも見えている。


 隣へ出てきたクリストフが、濡れた手袋を外しながら息をついた。


 「読みどおりでしたね」


 「半分は、外れてほしかったです。船がもっと早く入れれば」


 「それでも、海風宮の遅番から文句が出なかったのは大きいですよ」


 「文句が出る暇がなかっただけかもしれません」


 「温かい物を食べているときの顔は、忙しさではごまかせません」


 クリストフはそう言って、港の灯りへ目をやった。


 「北桟橋の書記も、見張り番も、皆ちゃんと息をついていました。ああいう夜は、大事です」


 ああいう夜。


 きらびやかな席ではない。誰かが名を上げる舞台でもない。けれど、風の強い夜に、遅く働く人の手へ温かい椀が渡る。そのために帳場と厨房と港が、ほんの半日でも同じ時刻表で動けた。そういう夜だ。


 クリスティンは携帯灯の取っ手へ触れた。朝、返しそびれたまま、結局また持ち歩いている。


 「また返せませんでした」


 言うと、クリストフは笑った。


 「今日は業務上の必要があったので」


 「便利な言い方ですね」


 「こういう日のための便利さです」


 朝と同じ言葉なのに、今度は少し違って聞こえた。忙しい一日を通り抜けたあとだからだろうか。それとも、灯りを借りたままでも責められない場所が、またひとつ増えた気がしたからだろうか。


 遠くで、荷役の終わりを告げる木槌の音がした。


 明日は使用分の帳面を整理し、夜食鍋を正式な臨時献立として書き残さなければならない。洗濯場からは、次の荒れ日に備えて差し入れ分も欲しいと言われるかもしれない。北桟橋の控え室へ鍋を運ぶ導線も、もっと良くできる。考えることは次から次へと浮かぶ。


 けれど、それが苦しいのではなく、前へ伸びる糸のように思えた。


 海風宮の夜の片隅で、空になった鍋がまだほんのり熱を持っている。その熱が、人の腹だけではなく、持ち場と持ち場のあいだまで少し温めたのだとしたら――今日の働きは、ちゃんと明日へ残る。


 クリスティンは潮の匂いのする風を吸いこみ、港の灯りを見た。


 帰る場所へ灯りが要るように、働き続ける場所にも、あたたかい椀が要るのだ。


 そんな当たり前のことを、自分の手で確かめられた夜だった。



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