第六夜 遺した想い
第六夜 遺した想い
夜の十一時。
山中聡子は、スマホを見つめていた。動画を見たり、音楽を聞いたりしていたが、どれも長続きしない。
(おもんない……)
まだ寝るには早く、かといってやることもない。
さすがに、こんな時間に出かけることもできない。部屋を見渡し、何か面白いものがないかと視線を巡らせた、その時だった。
——カツン。
窓ガラスが小さく鳴った。
聡子は顔を上げる。
(ん……空耳?)
——カツン。
二度目の音、聡子は立ち上がった。恐る恐る窓を開けてみる。
「……あ! もしかして、明日香?」
「しー! 聡子、声大きいわ」
友達の吉沢明日香が、マンションのエントランスにいた。
パジャマ姿の明日香が、こちらを見上げて手を振っている。肩までの茶色い髪が、街灯の下で揺れていた。
——いつも通り、笑っている。
「聡子、こっそり出てこれへん? ちょっとだけ、お話しよ?」
いつもの明日香の声。いつものノリ。
「ええよ。ちょっと待っててや」
聡子は返事をしながら——気づいてた。
(明日香って……入院してるやんな)
しかし、その疑問は飲み込むことにした。それよりも明日香と、おしゃべりできる嬉しさの方が勝っていた。
聡子は部屋を出て、玄関に向かう。鍵を静かに開ける。心臓が少し早く打っているのが分かった。
なんとかエントランスまで出た。明日香はベンチに座っている。
「明日香! ひさしぶりやん」
「ひさしぶり。会いたかったでー」
なんだか随分会っていない気がする。聡子はまず、疑問を口にした。
「入院してたやんな? もう退院なん?」
「ううん」
明日香は首を横に振る。
「まだ入院中やで。でも、外出許可もらえたから」
「……そうなんや」
聡子は頷く。でも——引っかかる点がいくつもある。
(こんな時間に外出許可? パジャマのまま?)
でも、明日香の顔色はいい。声も明るい。
「よかった……ずっと気になってたんやで」
「ごめんな。もうすぐ退院できるから」
「ホンマに?」
明日香は笑顔で頷いた。
「ふふ、ホンマに聡子は心配性やな」
いつも通りの笑顔で、聡子の心配は軽く流された。
疑問は残る。でも明日香は元気だった。それだけで十分だ。
その夜、二人は遅くまで語り合った。
昼休みの教室は、いつも通りうるさい。
机を囲んで騒ぐ声、廊下から流れてくる笑い声。窓から入る風は少し暖かくて、眠気を誘う。
海斗は椅子に寄りかかり、ぼんやりしていた。
「なぁ、海斗」
いつの間にか、小林亮太が机の横に来ていた。
「なんや、今ちょっと眠いねん」
「まあまあ。何か仕事になりそうなネタないかなおもて、色々調べてたんやけど」
亮太はこういう話を拾ってくるのが得意だ。見た目に似合わず、フットワークが軽い。
「最近さ、この辺で行方不明になる人、ちょっと多いらしいで」
亮太の声は軽い。噂話を振るような調子だ。
「へぇ……物騒やな」
「やろ? ニュースにもならんレベルやけど、同じ時期に何人もって聞いたら、ちょっと気になるやん?」
海斗は肩をすくめた。
「この辺、夜に出歩くアホも多いしな」
「それもそうやけど」
どこにでもありそうな話だと、海斗は思った。
「そんで?」
「それだけや」
亮太はそれ以上、話を広げなかった。まるで思い出したから言っただけ、という顔だ。
海斗が亮太に、強めのツッコミをいれようとした時だった。
「——あ、海斗!」
教室の入口から、聞き覚えのある声がした。高梨恵が顔を出している。クラスが違うのに、もう何度も来ているから誰も気にしない。
「また来たんか」
「ひど。会いに来ただけやのに」
恵は笑いながら、自然に海斗の机の横まで来た。肩が触れそうな距離。相変わらずだ。
「何話してたん?」
「亮太が、しょうもない噂話してただけや」
「なになに?」
そう言いつつ、恵はあまり興味ない様子だ。少し話しているうちに、恵がふと首を傾げた。
「……そういえばさ」
「ん?」
「最近、友達がちょっと元気なくて」
急に思い出したような言い方だった。
「元気ない?」
「うん。なんか、前より静かっていうか……」
恵は自分の髪を、指で弄びながら続ける。
「ちょっと痩せて、キレイになったんやけどさ。痩せ方が急すぎて」
海斗は少し気になったが、口を出さない。
「ダイエットちゃうん?」
亮太が軽く言う。
「たぶん、そうやと思うんやけど……」
恵は曖昧に笑った。
「本人は元気って言うし、私の考えすぎかもしれへん」
「羨ましいだけやろ」
「亮太、ひどい」
恵はそう言って、それ以上は深く触れない。海斗は、その会話を黙って聞いていた。これも、どこにでもある話だ。
友達が痩せた、元気がない、ダイエット中——それだけなら。
「まぁ、無理してなかったらええんちゃうか」
「やんな」
恵は納得したように頷く。
「じゃ、またね。放課後は一緒に帰ろ?」
「はいはい」
手を振って去っていく背中を、海斗は一瞬だけ見送った。教室の喧騒に、すぐに意識が戻る。
どこにでもある話。ただ、何が夜に繋がるかは分からない。
海斗はそれ以上、考えるのを止めた。
夜の十時。
聡子は少しでも眠りたい。体が睡眠を欲しがっているのは分かっている。だが寝られない。
昼間はずっと眠かった。授業も部活も、いつも通りなのに。だけど体が重い。このところ毎日だ。
(やっぱり、ちょっと夜遊びしすぎやな……)
あの夜から毎晩のように、明日香と会っている。彼女がやってくるのは、決まって夜の十一時ごろ。その時間が一番、病院を抜けやすいと言っていた。
最初はベンチでおしゃべりをしているだけだった。それが最近は色々な場所へ行くようになった。夜の街を歩くのは、怖いけど楽しい。
(楽しいけど……少しは控えやんとな)
時計を見ると、もうすぐ十一時になる。
(今日も来るかな?)
そう思いながら、ベッドに腰を下ろす。その時だった。
——カツン。
来た——明日香だ。
胸の奥が、きゅっと縮む。聡子は、さっきまで考えていたことを忘れて、そっと窓に近づいた。カーテンを少しだけ開ける。エントランスの明かりの下に、見慣れた人影があった。
「明日香」
思わず、声が漏れる。パジャマ姿の吉沢明日香が、下から手を振っていた。
「聡子ー。起きてる?」
その声を聞いた瞬間、緊張がほどける。
「相変わらず、時間どおりやな」
「そう? ねえ、ちょっとだけ遊ばへん?」
ちょっとだけ……明日香は毎回そうやって言う。同じ言い方で。
(今日も……なんや)
そう思ったのに、嫌じゃない。むしろ、ほっとしている自分に気づいて、聡子は首を傾げた。
「今日も抜け出してきたん? 大丈夫?」
「大丈夫や。ちょっとだけ遊んだら帰るわ」
明日香はいつものように笑っている。その笑顔をみるとダメとは言えなくなる。
聡子は、一瞬だけ迷ってから答えた。
「今日は……ちょっとだけやで」
玄関を抜ける時、昼間の教室の会話が、ふと頭をよぎる。
『聡子、最近痩せたよな?』
『えっ、そう?』
『変な薬やってへんやろな』
(そんな訳ないやん)
あまり足音を立てないように、エントランスへ向かう。
外に出ると、夜の空気がひんやりと肌にまとわりついた。
「明日香、その格好で寒ないの?」
「平気」
明日香はそう言って、聡子の手を取った。
——冷たい。聡子は少し驚いたが、嫌ではなかった。
「今日は、どこへ行くの?」
聡子が聞くと、明日香は少しだけ間を置いてから答えた。
「……静かなところ」
歩いているのに、足音が自分のものか分からなくなる。
「なあ……」
声をかけようとして、言葉が喉で止まった。呼吸が浅い。胸が少し苦しい。
「明日香……」
名前を呼んでも、明日香は振り返らなかった。ただ歩き続ける。街灯の明かりが、ひとつ、またひとつと遠ざかる。
(……戻りたい)
そう思った瞬間、手を握る力が、ほんの少し強くなった。
「大丈夫」
明日香の声が、やけに近く聞こえる。
「置いていかへんから」
その言葉を聞いた瞬間、胸がちくりと痛んだ。
(嫌や……置いて行かんといて。明日香——)
それだけが、頭の中を埋めていた。
その夜も、二人は一緒に過ごした……
恵がもう一度、相談してきたのは放課後だった。
校舎裏は、人の気配が少ない。風に煽られた落ち葉が、足元で乾いた音を立てる。誰にも聞かれたくない話をするには、いい場所だ。
「……なぁ、海斗」
恵の声は低く、いつもの軽さがない。
「やっぱ、あの子……あかん気する」
海斗は返事をせず、恵を見る。冗談を言う空気じゃないのは、すぐ分かった。
「まだ、様子がおかしいんか?」
「うん。でも今回は、ほんまにヤバい」
恵は、笑わなかった。
「最近な、聡子……昼でもぼーっとしてる。話してても、反応が一拍遅れるんや」
「寝不足ちゃうんか」
亮太は、前と同じように軽く言った。
「それやったら、まだええんやけど」
恵は唇を噛んだ。
「体、触ったら冷たいねん。ずっと」
海斗は、そこで初めて顔を上げた。
「……冷たい?」
「うん。血ぃ通ってへんみたいに……」
恵の顔は真剣そのものだ。
「その聡子って子に、何か聞いてへんのか?」
「最近、ちょっと夜遊びしてるって言ってたけど」
「誰とや?」
「それは教えてくれへん……」
海斗は、小さく息を吐いた。
「……分かった。一度会ってみるか」
途中で陸と合流し、恵の案内で聡子のマンションに向かう。駅から少し離れた場所。十階建ての綺麗なマンション、その二階の一室。カーテン越しに、灯りが漏れている。
陸が隣で言う。
「海斗、無理はするな」
「せぇへん。見るだけや」
まだ決めつけるには早い。だが——嫌な予感だけは、はっきりしていた。
「恵ちゃんは友達なんだろう? なら、その友達ってことで、本人に会わせてもらおう」
陸の提案で、ひとまず恵に交渉してもらい、部屋まで入れてもらえることになった。とにかく本人に会いたい。
聡子の部屋に入った瞬間——ベッドの上に座っている少女を見て、海斗は言葉を失った。
細い……細すぎる。
目は開いているのに、焦点があってない。呼吸はしているはずなのに、生きている気配も薄い。
(これは……アカン)
陸と目を合わせ、頷き合った。これは寝不足という次元でない。
「なぁ、聡子」
恵が名前を呼ぶ。
「……なに?」
聡子の返事が遅れる。
「最近、誰と夜遊びしてんの?」
少し聡子は考えているようだ。それから笑う。その笑顔が、ひどく不自然だった。
「……散歩してるだけ」
「誰と?」
「……友達。恵、その人たち……誰?」
「私の友達」
恵が少し焦ったように言う。
「ねぇ……変な薬とかやってへんよな?」
「恵まで……そんなこと言うの?」
急にスイッチが入ったように、声のトーンが変わる。
「だって、最近の聡子……心配なんやもん」
「みんな、しつこいわ! 同じことばっか言って!」
感情の切り替えが激しい。
「私は……明日香と、一緒におるだけや!」
その瞬間、恵の肩がわずかに跳ねた。海斗は、それを見逃さなかった。
陸と視線を交わす。同じことを考えているのが分かった。
部屋を出た後、四人は無言だった。
「多分——決まりやな」
海斗が言う。
「そうだな」
陸も否定しない。
「恵、亮太。ここから先は、俺らでやる」
『えー』
二人が同時に文句を言う。
「危ないからや」
海斗はきっぱり言った。
「代わりに頼みがある。明日香——その子のこと、調べてくれ」
「吉沢……たしか吉沢明日香、やで」
亮太が表情を引き締める。
「……了解や! 任しとき!」
「私も、昔の友達に当たってみるわ……」
二人きりになると、陸が言った。
「さて、俺たちは、俺たちの出来ることをやろう」
時刻は十一時。
海斗は、空気が変わったのを感じる。
「……来たな」
陸が静かに宣言した。
二階の窓が、静かに開く。聡子だ。パジャマ姿で顔を出している。
しばらくして、聡子がエントランスに降りた瞬間——
「……二人やな」
陸が低く言う。もう一人——いた。
並んでいるのに、距離感がおかしい。肩が触れていないのに、離れてもいない。
「歩き方……合ってへんな」
「人間の気配じゃない」
聡子たちは、そのまま夜へ溶けていく。海斗たちも後を追う。
だが、角を曲がった瞬間——
「……消えた」
確かにそこにいたはず。ただもう何も感じない。
「こんな消え方、ありえへんやろ……」
「……あぁ」
このままでは、聡子は——
「次は、もう戻れないぞ」
海斗も、陸と同じ気持ちだった。
体が軽い——
空を飛ぶように、ふわふわしている。だけど、体は震えている。
明日香の手が温かい。さっきまで冷たかったのに。
離したくない。
(置いていかんといて……)
音が遠くなり、街灯の光が滲む。
「大丈夫だよ」
明日香の声だけが近い。
「明日になれば——ずっと一緒」
その言葉を聞いた瞬間、聡子は自分の重さを失った。
翌日の放課後、海斗たちは美作医院に集まった。
「吉沢明日香は、先月すでに亡くなってたで」
亮太が最初に口を開いた。
「……私も、そう聞いたわ。同じ中学に行ってる子が、教えてくれた」
診察室に、沈黙が落ちた。
海斗は何も言わずに、椅子の背にもたれたまま天井を見ている。驚きはない。
「病気なのか?」
陸が短く聞いた。
「はい、そのようですね。入院もしていたと」
陸と話す亮太は、いつもの軽さを消している。
「同じ学校なら情報も入るけど、他校ならあえて伝えないだろうね」
美作も口を開いた。
恵が小さく息を吐く。
「じゃあ、聡子が言ってた明日香は……」
「間違いなく人ではない何か、やな」
海斗が低く言った言葉を、誰も否定しない。
「亡くなったのは、先月の始め。タイミング的にも合ってるわ」
亮太がスマホを操作しながら話す。
「聡子、まだ明日香が死んだって知らへんのやね……」
「知る前に、持っていかれるで」
海斗が言い切ると、恵は目を伏せた。
「限界は近い。だからこそ、今夜決着をつける」
陸が言った。
「海斗、お願い……聡子を、助けて……」
恵の言葉は、最後は掠れて聞こえないほどだった。それを補うように、海斗は力強く答える。
「そのための俺たちや——まかせろ」
「……海斗、一つアイデアがある」
その日、夜の十一時。
再び聡子のマンション、エントランス前。
前日と同じように空気が変化する。そして——闇から人影が浮かび上がった。
明日香と呼ばれるモノが現れる。それは聡子の部屋を見上げた。
その時——
「おい」
人影がゆっくりと振り返り、海斗を見る。その顔に生気は感じない。まるで作り物のようだった。
「聡子は連れて行かせへんで」
「もう遅い……あの子は……私が、連れて行く」
少女の見た目をした何かは、左手を伸ばす。
その先には——聡子がいた。
海斗が瞬きをした瞬間に、聡子と手を繋いでいた。
「ちっ! いつの間に!」
それは、吐き気がするような、気持ちの悪い笑みを浮かべている。
「聡子は二度と——戻らない。無駄だ……」
そう言い残すと、二人は海斗の視界から消えた。昨夜と同じだ。
しかし、海斗は焦らない。ゆっくりと目を瞑り、精神を集中する——
次の瞬間、海斗はどこかの公園に立っていた。そして、目の前には手を繋いだ二人がいる。
「お前! なぜここに……そうか」
表情は読み取れないが、それは明らかに驚いている。
海斗は笑った。
「あぁ、そうや。陸に手伝ってもろてな、聡子と同じ——幽体離脱や」
「それに……後ろの、女……」
「俺のガイドや。これで対等やな」
もう逃さない。
「お前……吉沢明日香とちゃうやろ」
「……」
「図星やな」
海斗がそう告げると、明日香を名乗るそれは輪郭が揺れた。
声が歪む。
そして次の瞬間——
そこに立っていたのは、少女とはほど遠い、人の形を保てなくなった何か。気配は濃く、分厚い。そして悪意だけが遺されていた。
「それが、お前の正体やな?」
「邪魔しやがってぇぇぇぇ! このガキがぁぁ」
海斗は集中する。拳が熱くなるのを感じた。生身の時よりも、遥かに霊力が扱いやすい。
拳に力が凝縮され、黒く輝く。
「夜に還りな——お前一人でな」
迷いはない。海斗は拳を振り抜いた。
決着は一撃でついた。それは声にならない悲鳴をあげ、霧のように散った。あとに残ったのは——聡子だけだった。
静寂に包まれる公園で、聡子は呆然と立ち尽くしている。
「聡子、大丈夫か?」
「ここ……どこ?」
「……夢の中や」
海斗は聡子の手を取った。何の温もりも感じない。
「……家に帰るで」
「私……戻れる、の……」
「心配いらん……目を覚ますだけや」
海斗は澪に手を差し出す。澪がゆっくりと手を取った。
温かい——初めて触れた澪の手は、不思議と温かい。驚いて澪を見ると、顔を逸らされてしまった。
海斗は何も言わず、聡子の手を引いた。
「……さぁ、帰るで」
陸は、聡子の部屋で二人の帰りを待っていた。
「陸……本当に海斗は、今……魂が抜けてるの?」
聡子の点滴を調整しながら、美作が尋ねる。
「その通りです」
美作には視えないだろう。二人から流れ出ている霊力の糸が。海斗は太く、聡子は、もうほとんど視えないほど細い。
「だけど——」
美作が言いかけた時、部屋の空気が変化した。
二人が部屋の入口に現れた。陸は立ち上がった。
「帰って来ましたよ」
「えっ?」
二人は手を繋いでいる。聡子の目はうつろだった。
陸は聡子の隣に並び、軽く背中を叩いた。その瞬間、聡子の霊体は消え、体へと戻った。
ベッドの中で聡子は目を覚ます。焦点が合うまでに、時間がかかる。
「……あれ? いま……私そこに……」
「もう、大丈夫だ」
陸は穏やかに言った。
両親は喜び、聡子に声をかけている。
「しばらくは安静にね。心も身体も」
美作の言葉に、皆安堵の表情を浮かべた。
(さて……)
聡子は美作に任せ、陸は海斗に意識を向けた。
「海斗、戻ったか?」
しばらくすると、坐禅を組んでいた海斗もゆっくりと目を開けた。
「もう、一人でも抜けられるな」
「無茶言うなや……いきなりやらされる、こっちの身にもなれや」
「お前は、いつも期待に応えてくれるからな」
陸の本心だった。
まだ夜は明けない——しかし、聡子は朝を迎えることができる。
翌日、陸たちは再び美作医院に集まった。
陸は窓辺に立ち、外を見ていた。海斗は椅子に座り目を閉じている。
「……聡子は、どうなるん?」
恵が心配そうに聞いた。
「体は戻った。あとは本人次第だ」
陸は振り返らずに答えた。
「あの怪異……結局、何だったんですか?」
亮太が聞く。陸は少し間を置いてから、口を開いた。
「名前のないものだ」
「名前のない……?」
「死者は、人の名前を借りない」
陸は窓の外を見たまま続ける。
「借りるのは——名前が欲しいものだ」
診察室に、静寂が落ちた。
「吉沢明日香という名前を使えば、聡子に近づけた。友達という関係を利用できた。それだけのことだ」
「ほな、明日香は関係ない……?」
恵の声が震えている。
「本物の明日香は、もういない。最初から関係なかった」
陸の言葉は冷たく聞こえただろう。だがそれが事実だ。
「あれは——名前を借りて、人の隙間に入り込んだんや。寂しさや、会いたいって気持ちにな」
海斗が目を開けて言った。
「聡子は、明日香に会いたかった。その気持ちを利用されたんや」
恵は何も言えずに俯いた。
「……でも、聡子は助かったんですよね?」
亮太が確認するように言う。
「あぁ」
陸は頷いた。
「ただ——」
言葉を切る。
「聡子はこれから、本当の明日香の死を知る。それが一番辛いかもしれない」
窓の外では、朝の光が街を照らし始めていた。
「名前を騙るものは消えた。だが、失われたものは戻らない」
陸はそう呟いて、みんなの方に振り向いた。
恵が顔を上げた。
「……ありがとう」
海斗が照れくさそうに、片手を上げて応えた。
明日香が遺した想いは、誰にも分からない。だが、聡子はこれから、それを知ろうとするだろう。
名前を持つ者たちの物語は、まだ続いていく。




