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名もなき怪異の夜  作者: 早谷 蒼葉


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第三夜 眠りの大地 前編

第三夜 眠りの大地 前編


 山は夕方になると輪郭が曖昧になる。


 陽はまだ残っている。空は明るい。なのに、木立の中へ一歩踏み込んだ瞬間、音の種類が変わった。


 虫の鳴き声が遠のき、風の擦れる音が薄くなる。代わりに、土の匂いだけが濃くなって、靴裏にまとわりつく。


 陸は山の入口に立ち、あたりを見渡す。神社はあるはずなのに、立派な鳥居も看板もない。ただ、踏み固められた獣道がある。両側の草は、誰かに避けられたように倒れている。人が避け続けた結果だけが、道の形として残っていた。


「……暗くないのに、嫌な感じやな」


 海斗がぼそっと言った。普段の荒い口調が少し落ちている。陸はそれを聞き逃さない。


「夕方だからな。夜よりはマシだ」

「マシって言う時点で終わってるやろ」


 海斗が肩をすくめる。乱暴な口調は相変わらずだが、足運びは慎重だ。陸は少し意外に思う。海斗も、自然に対する敬意は持っているらしい。


 陸は一歩引き、山の気配を拾う。人のものではない視線が、葉の隙間にいくつも滲んでいる。数は数えきれない。


 依頼者がいる以上、遊びじゃない。噂の調査、状況の把握、今回の依頼はそれだけだ。


——山に入った人間が、家に帰ると変わる。暴力的になるか、無気力になるか。


 山は言葉で伝えない。代わりに空気で答える。人間はそれを感じ、対応していくしかない。陸は、山の空気を吸い込みながら、そういうものだと受け止めていた。


 そのとき、背後で枝を踏む音がした。陸は立ち止まり、振り返る。


 そこにいたのは、陸と同年代の男だった。制服ではない。黒っぽい服装で、軽い足取り。表情は薄いのに、目だけが鋭い。山の中でも普段着——それが逆に不自然だった。


「……誰だ」


 陸の問いに、男は肩を揺らして笑った。


「そんなに怖い顔すんなよ、お前の山か?」

 

 軽く笑いながら男は答える。陸は目を細める。男から感じる力の形が見えない。不思議な雰囲気を持つ男だ。


 海斗は面倒くさそうに顎を上げた。


「そんなわけあるか。誰やねん、お前」

「……八十藏やそくらだ」


 男は名乗った。それが本当かどうかは分からない。むしろ本名ではないような気がする。


 八十藏は視線を海斗の背後へ滑らせる。そこで、ほんの一瞬だけ——八十藏の目が楽しそうに光った。


「おまえ……面白いものを背負ってるな」

 

 海斗が眉をひそめる。


「……は? 何言うてんねん」

 

 陸は言葉を飲み込んだ。澪が見えている。そして理解もしている。だが、この段階でそれを語る必要はない。今は探り合いだ。


 八十藏は、山道の奥をちらりと見た。


「下見か。真面目だな、えらいえらい」


 口調は軽いのに、言葉の底が冷たい。敵だと決めつけるほどではない。けれど、味方にしては危うい。判断材料が少なすぎる。


 陸は、もう一度男の気配を測る。人間の輪郭はある。けれど、奥に何かが欠けている。怒りでもなく悲しみでもない、何かがない。まるで、故意に削ぎ落されたような空洞。


「だが、あまりこの土地に首をつっこむなよ」

「……忠告か?」

 

 陸が言うと、八十藏は笑った。


「忠告? まあ、そうだな」


 そして、何でもないように続ける。


「ここは禁足地きんそくちだ。人の踏み込んでいい場所じゃないんだよ」


 海斗が鼻で笑う。


「そんな大層な名前が付いてるんやな」

「おや、初めて聞いたか?」


 八十藏は軽く肩をすくめた。陸は一歩だけ前に出る。


「そういうお前は、ここで何をしてるんだ」

「散歩」


 八十藏は即答した。人をなめ切った態度にしかみえない。


「俺、山が好きなんだよ。人が来ない場所って落ち着くじゃん」


 その答えが真実ではないと、海斗ですら理解できるだろう。落ち着くという言葉が似合わない目をしている。


 陸は確信する。こいつは何か目的を持ってここに立っている。だが、それを聞き出すことは不可能に近いだろう。


 突然、八十藏は踵を返す。立ち去る際、最後に海斗を見た。


「あんまり、突っ走るなよ……」

「……は?」


 海斗が言い返すより先に、八十藏は続けた。


「お前たちには——まだ早い」


 言い終えると、男は薄暗い木立の中へ溶けるように消えた。残ったのは、夕方の風と、山の静けさだけ。


 海斗が舌打ちする。


「なんやアイツ。むかつくわ」

「……関わらない方がいい」


 陸はそう言いながら、胸の奥に残る違和感を無視できなかった。八十藏の言葉は脅しではない。事実を告げる重みを感じた。


 山がこちらを見ている。夕方なのに、夜の端がすでに触れていた。




 翌日——昼休み。


 海斗は教室で、昨日の山のことを考えていた。


「海斗、知ってる? あの山の話」


 小林亮太が声をひそめて言った。ひそめたわりに目が輝いている。怖い話が好きなやつの顔だ。


「どの山の事やねん」

「あの古い神社の裏にある山やて。肝試し、流行ってんねん」


 海斗は頬杖をつき、目だけで亮太を見る。


「アホやろ」

「いや、ガチやって。あそこに肝試しして帰ってきたやつ、人が変わるらしい」

「変わるって、どんなふうに?」


 亮太はドヤ顔で指を二本立てた。


「暴力的になるか、無気力になるか。ほぼその二択。なんか、極端にスイッチ入るみたいな」


 海斗は舌打ちした。


「ただのイキりやろ」

「それがさ、ちょっと普通じゃないねん。普段は温厚なやつが、急にキレ散らかしたり。逆に、よう喋るやつが何もせんようになったり」


 海斗の脳裏に、夕方の山がよぎる。暗くないのに、嫌な感じがした。


「……誰が行ったんや」

「先輩の連れの連れ? その先輩と彼女って話やな」

「それ……ホンマに存在するやつ?」


 海斗は笑ってしまった。こういう話には具体的な人物が出てこないものだ。


「どうやろ、やっぱ信ぴょう性ない?」亮太もつられて笑った。

「まぁ、けどタイムリーな話題やな……」

「え?」


 海斗は頬杖を外し、椅子を鳴らして立ち上がった。


「……陸に言うとくわ」

「え、何で陸さん?」

「今、ちょっと陸が調べとんねん」


 亮太は急に沈黙した。何やら考え事をしているようだ。


「どないしたんや?」

「前から思とったけど……」

「だから、何や」

「海斗と陸さん、霊能者みたいなことしてへん?」


 海斗は黙ってしまった。特に隠すこともしていなかったが、言いふらすことでもない。ただ、亮太にはいつも情報を提供してもらっている。しかも割と精度が高い。


 一瞬考えた上で結論を出す。


「ええか、言いふらすなよ。俺らは仕事として請け負ってる」

「やっぱり! 実は前から、そうやないかと踏んでたんやわ」

「そうなんか」


 確かに亮太は鋭いところがあるが、少し驚いた。


「俺も実はちょっと視える時がある」

「そうなんか!」さっきよりも驚いた。

「というか、我が御剣学園には、視えるやつ多いで。何でか知らんけど」

「……そんな話、初めて聞いたわ」


 海斗は少し考える。確かに、この学校で怪異の話は聞いたことがない。何か理由があるのかもしれないが分からない。


「けどこの学校、よくある七不思議的な話とか聞かへんよな?」

「そうなんよ、学校内は平和やで。校舎がキレイやからかな」


 そういえば、澪も学校には着いてこない。不思議だとは思うが、海斗は考えるのをやめた。答えは出ない。


「なぁ海斗……俺にも仕事手伝わせてくれへん?」

「……どうした、急に」

「お祓いとかはできへんけど、情報収集の方で」


 海斗は悪くないと思ったが、陸の反応も気になる。しばらく迷っていると、亮太が先に口を開く。


「動機は……お金やろ? 将来のための」

「……そうや。俺らには金がいる」

「なら、損はさせへんで」

「……分かった、頼む。せやけど、危険なことは無しやで」


 亮太はパソコンにも強い。海斗の苦手な部分を埋めてくれる存在になってくれそうだと思った。それに信頼できる理解者は有難い。


「決まりや! 報酬は……もらうで」

「あぁ、ちゃんと払うわ」

 

 思わぬ味方を得た。陸も反対はしないだろうと思う。


(あとで、陸に連絡しとくか……)


 海斗は、僅かな喜びを隠すように窓の外を見た。




 陸は依頼者の家に一人で向かっている。海斗を連れていくと、話がまとまらないことが多い。あいつは嘘をつけないし、正直すぎる。この場には向かない。


 花岡という表札のある家の前に立つ。その玄関から感じる気配が妙に薄かった。生活の匂いが、引いているように感じた。


 インターホンを押す。

 少し遅れて、扉が開いた。出てきたのは年配の女性。手が震えている。


「……また来ていただいて、ありがとうございます」

「状況を聞かせてもらえますか」


 陸が淡々と言うと、女性は何度も頷いた。


「息子が……あの山に肝試しに行ったんです。止めたのに……」

「元々、山の調査だけの依頼でしたね」

「はい……でも、状況が変わってしまって……」


 女性は言葉を探しながら話した。最近山の辺りをうろつく若者が増えたこと、変な噂が広がっていること。そして、今度は花岡さんの息子が遊び感覚で、山に入ってしまったこと。


 息子は帰ってきた。だが、目が違った。言葉が違った、と彼女は言う。


 陸はその場で対処することにした。海斗と別行動をとったことを悔やむが、しかたがない。


「息子さんに会わせてください」

「は、はい……!」


 奥の部屋へ通される。カーテンは閉じ切られ、まだ明るいのに薄暗い。部屋の空気が、外と違って重い。


 そこに男は座っていた。いや……座らされている、というのが正しい。


 明らかにおかしな様子の花岡家の息子。年齢は二十歳前後だろう。だが——輪郭がずれている。男の体に、別の影が重なっている。少し遅れて、同じ動きをなぞるように。


「……なるほど」


 陸は小さく呟く。


「……どうでしょうか?」背後から女性の不安な声。

「大丈夫です」


 陸は短く答え、その男に近づく。男は陸を見ていない。視線がずっと、どこかを彷徨っている。


「……見えているか?」


 返事はない。その代わり、影が僅かに揺れた。


(この程度なら——)


 陸はそう判断し、息を整える。


 陸は男に近づき、そっと手を伸ばす。頭の上、ほんの数センチのところで手を止めた。

 

 触れない。触れると、境界が曖昧になる。陸の手の下で、男に重なる別の何かが浮かび上がる。黒く、重く、粘るように。それは剝がされることを拒んでいる。


「……ここは、お前の場所じゃない」


 低く、はっきりと言う。影が抵抗する。男の表情が歪み、歯を食いしばる。


「……あ……」


 喉から、声にならない音が漏れる。だが陸は動じない。冷静に影の重なりを視る。そして、切り離す。


「……帰れ!」


 声は荒げない。だが強く——命じる。言葉に力を込める。拒絶ではなく、送る意思を。


 影が、びくりと跳ねた。一瞬、抵抗が強まる。だが畳の上に、黒い染みのようなものが滲む。それが、引き剥がされるように、男の足から離れていった。


 男の肩が、大きく上下した。


「……っ、は……!」

 

 息が戻る。顔に血の色が戻る。影は、床に落ちたまま、形を保てずに崩れていく。音もなく、気配だけが薄れていく。

 

 陸は手を下ろした。

 

 数秒の沈黙……男が、ゆっくりと顔を上げる。


「……ここ……家……?」


 その声は、人間のものだった。陸は一歩下がり、頷く。


「家です……戻りましたね」


 男は混乱したように周囲を見回し、やがて俯いた。


「……俺、何か……」

「今は休んでください」

 

 陸はそれ以上、説明しない。説明は後でいい。背後で、女性が息を呑む音がした。


「……治った、んですか……?」

「もう大丈夫ですよ」

「——っ!」


 女性は言葉にならない喜びを示す。これでいい。陸は、それ以上を望まなかった。


「……かのじょ……が、まだ……」

「……何だって?」

「俺の彼女……友達も……山に」


 そこまで言って、男は床に倒れた。ひどく消耗し、気を失ったようだ。


 どうやら問題解決とはいかないようだった。——残り二人。山に置いてきたという、彼女と友達。陸は嫌な予感がして、背中を震わせた。


(……急ぐか)

 

 陸は勢いよく立ち上がった。そして、玄関へ向かう。背中に、女性の安堵と不安が入り混じった気配を感じながら。


 玄関を出ると、今この瞬間、山の空気が変わっていくのを肌で感じた。陸は心の中で海斗の顔を思い浮かべる。難しい話が苦手なやつが、先に山に入っている。


(海斗——キレるなよ)


 二人——彼女と友達。まだ山にいる。どんな状態なのかは分からない。ただ時間が経てば経つほど、救うのは難しくなる。


 陸は逸る気持ちを抑えようともせず、目の前の山を見上げた。



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