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名もなき怪異の夜  作者: 早谷 蒼葉


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第二夜 刈り取るもの

第二夜 刈り取るもの


 昼の教室は、夜のことを嘘みたいに薄めてしまう。窓から差し込む光の中で笑い声が跳ねて、黒板の文字がやけに白い。


 海斗は窓際の席で、頬杖をついていた。昨夜の公園の空気が、まだ胸の奥に湿って残っている。眠いわけじゃない。寝ても、あの赤い色が背中に張りついたままのような気がする。


——赤いワンピースの女……澪だ。


 目に見える時も、見えない時もある。けれど、何となく存在は感じる。距離感は……ちゃんとあるような気がする。


 自分の部屋にいる時などは、ほとんど存在を感じない。プライバシーは守ってくれるようだ。


 それにしても……


(なんで、あんな事言ったんやろ……)


 昨日の夜を思い出し、海斗は自分に問いかける。普通、自分から憑りつかれる事を望む人はいない。自分ももちろんそうだ。ただ、昨日はそれでもいいと思った。自分の魂の声を口にしただけだ。


 直感に従ったのだから後悔は無い。それでも疑問は湧いてくる。


 考え事をしていると、声がかかった。


「海斗」


 前の席から、メガネの少年が振り向く。小林亮太。少しぽっちゃりしていて、いつも何かに熱中している。そして、海斗に絡まれても、なぜかビビらない。海斗はそういうところが気に入っていた。


「なんや」


 亮太は声をひそめ、机の上にスマホを伏せた。教科書を立て、周りに聞こえないように話す。


「昨日の公園の噂、また伸びてんねんけど……今日さ、別の話も入ってきた」

「また幽霊自慢か」

「自慢ちゃうって。……夜の田んぼ道。鎌持った爺さんが立ってるらしい」


 海斗の指が止まる。田んぼ道。施設の裏手、再開発が進んでもあそこだけ取り残されたように暗い道がある。


「鎌?」

「うん。錆びた鎌。でな、声かけたら言うねんて」


 亮太は一拍置いてから、真似をした。声色を落とす。


「——帰るか?って」


 教室のざわめきの中で、その一言だけが妙に冷たい。


「帰るって答えたら、すっと消える。……帰らんって答えたら、連れてかれる」

「連れてかれるって、どこに」

「知らん。戻ってきたって話もあるし、朝まで行方不明って話もある。噂がバラバラやねん」


 海斗は鼻で笑った。


「そんなん、またいつものパターンやないか」

「どうやろ……めっちゃ新しいネタやからなー」

「で……そいつは何て呼ばれてるんや?」

鎌爺かまじい

「そのままやな」


 口ではそう言いながら、背中に何か予感のようなものが走る。亮太は別の話を始めたようだが、海斗の耳には入ってこなかった。なぜ、こんなにも気になるのだろうか。


——帰るか。


 その問いは、施設暮らしの海斗と陸に、向けられたと感じたからかもしれない。


 僅かに思考した後、海斗はスマホを取り出し、リダイヤルボタンを押した。




 放課後。


 海斗と陸は、施設の裏手から田んぼ道へ向かった。陸は二つ上で、冷静で無表情。制服ではなく、いつもの黒い上着。足取りは淡々としている。


「亮太の話、気にならんか?」

「俺も噂は聞いた。場所が固定されてる。出現時間もだいたい同じ。……怪異の癖がある」


 陸の言葉には温度がない。しかし、確信みたいなものだけは感じる。そして、それはほとんどの場合正しい。


 田んぼ道は、夜になると別の場所みたいに静まる。遠くで車が走っている音はするのに、ここまで届かない。街灯はまばらで、光の輪の外側は黒い。空気が冷えている。風が稲の切り株を撫でる音が、さらさらと鳴った。


「なあ、陸」

「何だ」

「帰るかってさ。なんやと思う?」

「言葉の形を借りてるだけかもな。聞いているのは、今のままでいいかとか、そういうことかもしれない」


 海斗は舌打ちした。


「めんどくさ」いつもの口癖が出た。


「また、お前は……」


 陸は呆れながら、そう言った。


「なぁ、陸……俺の帰る場所はどこなんやろな……」

「あの施設だ」躊躇なく、陸は答える。

「いや、そういう事じゃなくてやな……」

「俺のところだ」


 真顔で言う陸に、海斗は笑ってしまった。


「それ、女に言ったらあかんで」

「何でだ?」


 陸をからかいながら歩を進める。ふと、後ろに気配を感じた——澪だ。


 少し離れた場所に立っている。いつものように、赤いワンピースで静かに。しかし、こんなにはっきりと姿を見せるのは珍しい。陸も気づいて足を止めている。


「どうした? 澪?」

「……」

「ここに……おるんやな?」


 澪から感情を読み取るのは難しい。ただ、何となく伝えたいことは分かるような気がする。とてもコミュニケーションとは言えないが。


 澪の視線は、海斗たちより先の田んぼ道に向けられているようだ。


 そして——澪が一歩、前に出た。赤いワンピースが風もないのに揺れた。


 その時——視線の端に、影が立った。最初は、ただの影。目が慣れるにつれて輪郭が生まれる。


——来た。


 小柄な老人。背中が丸く、顔は影で見えない。右手に、錆びた鎌。刃先が欠けている。鎌は、ぶら下がっているだけなのに、地面を擦る音がする。


 ——シャリ……シャリ……


 海斗は一歩前に出た。怖がると相手が増長すると直感で感じたからだ。お前など恐れていないという意思を示した。


「おい」


 老人は動かない。ただ、こちらを見ている気配だけがある。陸は横で、静かに息を整える。


 老人が口を開いた。


「……帰るか?」


 声は枯れているのに、不思議と聞き取りやすい。風の音が止まったように感じた。


 海斗は笑った。


「帰らん」


 口から出た言葉に、少し驚く。なぜ即答したのか、わからない。帰らない理由なんて、いくらでもある。けれど、今は説明する気もなかった。


 海斗は、ふと違和感を抱く。老人の反応が無い。海斗の返答は無かったかのようだ。


「違う……」


 その言葉と同時に老人が消えた——わけではなく、澪の前に移動している。そして、澪の顔を覗き込むようにしながら言う。


「——おまえだ」

「……」

「そうか……なら」


 老人の問いに澪は答えていない。しかし、意思疎通が出来ているようだった。

 

 老人が、ゆっくり鎌を持ち上げる。澪は動かない。


 連れてかれる——亮太の言葉が頭をよぎった。


 澪は海斗の元にいることを選んだ。なら海斗も澪を——護る。


「逃げろ、澪っ!」海斗は地を蹴った。


 老人は——鎌を、振った。


 海斗の手が一瞬早く到達し、澪を突き飛ばす。陸も動き出したようだったが、海斗の方が速かった。


 しかし——相手も速い。老いぼれの動きじゃない。刃が銀色に輝き、海斗の腕を切りつける。鈍い衝撃と共に、腕に冷たい感覚が走る。


「……っ!」


 血が滲む。深くはない。だが、出血はしている。すばやく傷口の確認をする。


 海斗は腕を手で押さえて、顔を上げた。


 すると——


 突然真っ白な世界の中にいた……世界が白く塗りつぶされたよう。


「な、なんや……ここは?」


 一面真っ白な世界。音も匂いもない世界。上下左右の感覚がおかしくなる。自分が立っているのかも不安になる。


「何が……起こってるんや」


 海斗は動けない。恐怖は感じないが、解決策も思いつかない。


 腕の感覚が薄れていく。指先から、じわじわと存在が溶けていく感覚がある。


(澪は……無事か?)

(あの鎌、意外に切れるやん)

(ジジイ、見とれよ)


 様々な思考が巡る。まだ僅かしか時間は経過していないはずだが、途方もなく長く感じる。


 しかし、こんな状況の中でも海斗は——ニヤリと笑う。


「ちっ……こういうんは、陸の役目やろ」


 海斗の愚痴が漏れた瞬間、後ろから声が聞こえた。


「海斗! 戻れ!」


 何もない空間から、腕が伸びてくる。そして、強く引かれた。


「陸——待っとったで!」

「あぁ!」


 そして、次の瞬間には、元の景色の中だった……すでに老人の気配は無い。


 海斗は腕を押さえながら、唾を飲み込んだ。弛緩した空気が流れる。


「なんや、今の……」

「どうなっていたんだ?」

「何や、真っ白の世界にいたわ……」


 陸が訝しげに眉を寄せる。


「お前の肉体は、ここにいたぞ」

「……そうなんか?」

「だが意識がなく、切られた腕の方から徐々に消えていってた」

「マジ? 全部消えてたら、どうなってたやろな」


 陸は首を傾けただけで、何も答えなかった。ほんの僅かな時間、お互い無言になる。やがて、陸が口を開く。


「あれは、殺すための動きじゃない」

「じゃあ、何や?」

「魂を……刈ってる」


 その言い方が、妙に心に引っかかった。刈るという言葉は普通なのに、重く感じる。


 ふと、澪の存在を近くに感じた。いつもよりも、かなり距離が近い。澪は海斗の腕を見つめている。


「……何や、心配してんのか?」

「……」

「……大丈夫や」


 なんだか照れくさかったので、ぶっきらぼうな言葉になった。


(やれやれ……調子狂うわ……)


 海斗は女性が苦手だ。それが幽霊だろうと変わらない。戸惑うのも、無理はない。


「とりあえず、治療だな」

「あぁ、センセのとこ行こか」

「あぁ」


 センセと呼ばれた男——美作丞みまさかじょうは医者だ。海斗と陸は、ひとまず美作の診療所へ向かうことにした。


 


 陸は美作病院の入口に立ち、空気を吸い込んだ。施設からも近いこの小さな個人病院は、夜でも診察してくれる。二人にとって都合が良いため、何かあればここに来る。常連と言ってもいい。


 扉を開けると、消毒の匂いと、温かい空気が流れた。受付の奥から、明るい声。


「お、来たね。今日はどうしたんだい? ……って、血が出てるじゃないか!」


 白衣の男——美作が小走りに出てくる。年齢は知らない。若く見えるのに、落ち着いている。笑うと、診療所の空気が柔らかくなったように感じる。


 陸は美作の発する空気感は嫌いではない。何を考えているのか、分からない部分はあるが、透明感のある不思議な雰囲気は居心地が良かった。


 

「どうしたんだい、その腕。海斗のことだから、ケンカやろ」

「ちゃうわ……切れた」


 海斗がぶっきらぼうに言うと、美作は肩をすくめた。


「切れた、って言い方がもう事件だよ。ほら座って。陸も、立ってないで手伝って」


 陸は素直に消毒液とガーゼを取ってくる。ここは美作一人の病院なので、陸は昔からよく手伝いをしていた。美作は慣れた手つきで傷を洗い、止血し、縫うほどでもないと判断してテーピングをする。


「痛い?」

「別に」

「嘘だね。顔が痛いって言ってるよ」


 海斗はそっぽを向いた。美作の前では、海斗は少し大人しくなる。昔から世話になっているからだろう。施設の連中が倒れた時も、怪我した時も、黙って診てくれたこともある。


 美作はガーゼを押さえながら、ふっと視線を落とした。


「これ、刃物で切られた傷だね?」


 海斗の胸が少しだけ跳ねた。陸が代わりに答える。


「やはり分かるんですね……鎌で切られました」

「やっぱりね」


 美作は笑ったが、目は笑っていない。けれど深刻ぶるでもない。ちょうどいい距離で、大人の顔になる。


「警察には……言わない方がいいか」

「助かります」


 美作は包帯を巻きながら、溜息をついた。


「こんな傷、大したことないわ」

「そういう事じゃないんだよ」


 美作に諭されて、海斗は黙り込む。


「例の仕事関係?」

「そうですね。とは言っても最近お金にならない仕事ばかりですが」


 美作は二人がやってる事を知っている。融通もきかせてくれるので、何かあればここに来るのだ。唯一の理解者だと言える。本人に霊能力は無いらしく、何も感じないそうだが、陸たちの事は信じてくれているようだ。


「危険なことは避けてよ……」

「わかってます、気を付けます」


 心底心配そうに言われるので、陸も素直に受け入れる。


「しかし、鎌ってまた古風なもので切られたんだね」

「ちょっと油断したわ」

「鎌か……ちょっと思い出したんだけど……」


 美作は治療の手を止めて、窓の外を見ている。何か思い出そうとしているようだった。やがて治療を再開しながら口を開く。


「ずいぶん前に再開発があってさ。近くで土地を追われた人たちがいたんだよ」

「追われた? よくある話ですね……」

「うん。畑も家も、全部整理されてさ。悪いことじゃない。便利になったし、みんな喜んだ。でもね」


 美作はテープを巻き終え、最後に優しく押さえた。


「終わり方ってあるでしょ。ちゃんと終わらないと残るんだよ」


 二人は黙って聞いている。陸は妙に喉が乾いていた。


「その中に一人、毎日、鎌をもって畑仕事をしていた老人がいてね……」


「もう……亡くなったけどね。明渡しの前日に」

「その人、独り身だったんですか?」

「家族はいたらしい。でも、彼の元には戻ってこなかった。……明け渡すまで、ずっと一人だったと思うよ」


 美作は、優しい微笑みを見せながら言った。


「誇りとか、意地とか、後悔とか。言葉にできないこともあるから、言わないまま抱えることになる。それが後悔として残る」


 陸は海斗の腕に巻かれた包帯を見た。体よりも、心の傷の方が痛い時もある。


「さぁ、これで治療は終わりだ。今日はもう遅いから帰りなさい」

「……ありがとうございました」と、陸は礼を伝えた。


 入口まで見送ってくれた美作に別れを告げ、自分たちの施設に向かう。陸の足取りは少し重い。あの老人の背景が見えてきて、少し同情の気持ちが出てきているのだ。そして、それは海斗も同じだと思う。


「鎌……武器ちゃうんか?」


 海斗が言うと、陸は少し考えてから、ぽつりと返す。


「刈るためのものだろう。……帰らない理由を刈り取る」

「迎え、ってことなんか?」

「たぶんな……」

「だから、帰るって答えたやつには、何にもせえへんのか……」


 陸は黙って歩く。


「迎え、か……」


 自らの問いに答えはない。小さく呟いた言葉は、夜に溶けていく。


 診療所を出る頃には、夜がさらに深くなっていた。施設へ戻る道すがら、陸は何も言わない。海斗も黙って歩く。


 今日の夜も、いつもと同じように更けていく……




 翌日——学校。


 亮太が昼休みに寄ってくる。なぜか少し顔色が悪い。


「海斗、聞いてくれ」

「なんや」

「うちの近所の……おじさん。実は一週間前から、行方不明になってたらしい」

「一週間前?」

「うん、鎌爺の噂が広まる前や。でも今になって、もしかしてって……」


 海斗は箸を止めた。


「……ホンマに行方不明なんか?」

「たぶん。まったく連絡取れやんくなったらしいで……」

「ええ大人の話やろ」

「せやけど、奥さんが近所中聞きまわってたからな」

「マジなんやな?」

「うん。でな、元々噂も回ってて……その人、最近、家に帰ること減ってたらしい」


 亮太が言いづらそうに続ける。


「浮気してた、って。家におらんことが増えて、奥さんともギクシャクして……帰りたくないっていうか、帰れん感じやったんちゃうかって」


 海斗は無意識に拳を握った。帰れない理由。説明できない理由。


「これ……鎌爺ちゃうかと思って……」

「……帰るって言えば消える、やったな」

「うん。帰らんって言ったら……連れてかれる」


 亮太の声が震えた。身近な人が怪異に触れたと思えば、恐怖を感じるだろう。亮太の想像力には驚くが、あながち間違ってはなさそうだ。


「亮太、心配すんな。俺にまかせとき」

「えっ、海斗に? どないすんの」

「話付けてきたるわ」




 放課後、海斗と陸は田んぼ道へ向かった。今日は祓いをするつもりだ。と言っても、鎌爺を殴り飛ばす気にはなれなかった。美作の話が、頭の片隅に残っている。


——終わり方。


 答えの出ないまま、海斗は向かう。だが、なるようにしかならないとも考えていた。陸も何も言わない。


 昨日と同じ場所を目指して、二人は歩を進める。いないことを祈るような、迷いがあることを海斗は自覚していた。


 やがて、田んぼ道に到着する。今は何も視えない。しかし、気配は感じる。夜を待つだけだ。


 時間が流れ、夜の帳が下りるころ……影が立つ。鎌爺。昨日と同じ場所。昨日と同じ姿。問いも同じ。


「……帰るか?」


 海斗はため息をつき一歩前へ出た。腕の包帯が妙に白く感じた。


「帰らん、って言ったらどうなる」


 鎌爺は答えない。答えずに、鎌を持ち上げる。海斗は息を吐いた。ここで引いたら、亮太の近所のおじさんの夜と同じになる。帰らない理由は、刈り取られたのに。帰る場所へ戻れたのかどうかも、わからないまま。


「……もう、いいんだ」


 陸が老人に、優しく話しかけている。


「もう……刈らなくてもいいんだ」


 老人の動きが止まる……


 海斗も声をかける。決して、声を荒げたりしない。荒げると、激情に紛れて言葉が嘘になる。


「帰らせたいんやろ。せやけどな、帰るかどうかは——そいつが決める」


 陸が横で、小さく頷いたのが見えた。それを合図にして動く。


 海斗は足元の土を蹴り、間合いを詰めた。鎌の柄を掴む。思っていたより、老人の力は強い。ぐい、と引かれる。

 

 足元がずれる。田んぼ道の闇が、口を開けたみたいに深い。


「こんなことしても、おまえの家族は戻ってこうへんで!」


 海斗は歯を食いしばった。腕の痛みより、老人に浴びせる言葉の方が痛い。


 海斗は踏ん張った。足の裏で土を掴む。重心を落とす。引かれた分だけ、逆に引き返す。


「……なめんなや」


 老人の動きが止まった——


 澪が海斗の背後に立っている。老人と向き合い、無言で見つめあっている。海斗には聞こえないが、二人の間に何かが流れている気がした。


 老人が、初めて迷うように揺れた。


「そうか……そこが……おまえの」


 何かを納得したように老人が呟く。口元が少し微笑んだ気がした。それに合わせて、鎌を持つ手が一瞬緩む。海斗はその隙を見逃さない。


 そして——鎌を折った。


 乾いた音。鋭いものが折れる音じゃない。古い木が、役目を終える音。


 老人の肩が、ゆっくりと落ちた……


「もう、ええんや」海斗は再び告げる。

「……」


 何も言わない。問いもない。ただ、田んぼ道の向こう——かつて家があった方向を見る。そこにはもう、何もない。けれど、老人にとっては帰る理由が残っている方向だ。


「俺が、帰らしたる」

「わしが……帰る」

「あぁ、送ったるわ。信じろ」


 海斗は老人から折れた鎌を受け取った。それを空に投げると、拳を振りかぶった。


「夜に還りな——」


 そして——右腕を振り切った。いつものように。


 古びた鎌が溶けていく。老人がどんな思いを込めていたのかは分からない。しかし、海斗はその執着を消し去ったのだ。


 鎌爺と呼ばれた存在は、もうただの老人の霊だった。その老人は呟く。


「わしは……もう、帰れん……」

「本当に、そうなのか?」陸が問い返す。


「誰にでも帰る場所はある……後ろを見てみろ」

「——あ……あぁ」


 陸が指を差す先。老人の後ろに、女の影と子供のような小さい影が視えた。顔も表情も分からないが、老人は涙を流す。


 海斗は、老人の背中に「家に帰りな——」と声をかけた。


 そして——鎌爺は消えた。


 光もなく、煙もなく。最初からそこにいなかったみたいに。


「逝ったな……」

「あぁ、ジジイも満足やろ」

「これで行方不明者も見つかるはずだ」


 きっと、もう鎌爺と呼ばれる存在は現れない。田んぼ道には、もう何も残っていなかった。


 感謝されるのは悪くない。しかし、人のためではない。海斗は自分が生きている証を示すために闘っている。


「帰る……場所、か」


 海斗は呟いた。あの老人には帰る場所があった。家族がいた。でも、俺には——


「海斗」


陸の声が、思考を遮る。


「帰るぞ」

「——あぁ」


 海斗は心が満たされるのを感じ、その余韻に浸っていた。



 

 陸は帰り道に、ふと足を止めた。海斗は少し前を歩いている。振り返らない。


 陸だけが感じることのできる、ほんの僅かな気配。田んぼの縁に、何かが立っていた。


 その影は、夜の端に溶けていく。まるで、本当に帰るように、優しく滲んでいく。


 陸は小さく息を吐いた。声には出さない。出したら、この夜の静けさが壊れる気がしたから。


 刈り取るものは、存在を刈り取られた。そして帰っていく——かつて、自分が愛した者の元へ。


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