96話 戦いの始まり
翌日、オリンポス会議室――
ヘルメスは、武器商人や防具職人たちから得た情報をもとに、
アレス軍の異変をゼウスへ報告していた。
「兵の配置、物資の流れ……
どれも世界樹を取り囲む形になっています」
「世界樹だと……?」
ゼウスは玉座の肘掛けを強く握る。
「世界樹を狙えば、世界そのものが揺らぐ……
いや、違うな」
一瞬の沈黙の後、低く唸る。
「――レイの力。
そして、エレニの力を恐れているのか……!」
「はい。
奴らの動きから判断するに、
狙いは世界樹と、エレニ本人でしょう」
「なんということだ……」
ゼウスは苦々しく息を吐いた。
「諸悪の根源であるワシではなく、
あの娘を狙うとはな……」
「いかがなさいますか?」
「決まっておろう」
ゼウスは立ち上がり、雷鳴のような声で告げる。
「直ちに世界樹、そしてエレニたちを守れ。
オリンポス軍を展開せよ」
その命により、
オリンポス軍の野営は世界樹周辺へと張られていった。
* * *
同時刻――
アレス軍は、すでに世界樹への侵攻を開始していた。
赤く濁った空の下、
大地は規則正しい振動に軋んでいた。
揃えられた槍、打ち鳴らされる盾。
軍勢の足並みは、戦神の鼓動そのものだった。
最前線。
アレスは馬上から、地上を見下ろしている。
視界に広がるのは――
無傷の家々。
炎を浴びても焦げることなく、
衝撃を受けても崩れない壁。
家の中心に置かれた結界石が、
淡く光り、確かに機能していた。
「……ほう」
アレスは、低く笑った。
「やはりな。
女神の知恵が、すでに行き渡っているか」
兵の一人が、苛立ちを隠さず叫ぶ。
「家が壊れません!
火も、刃も、弾かれます!」
「構わん」
アレスは即座に命じた。
「壊す必要はない。
道を塞げ。囲め。追い立てろ」
命令と同時に、
兵たちは家々を避けるように進軍する。
畑は踏み荒らされ、
井戸は使えぬよう封じられ、
街道は槍で封鎖される。
人々は、無事な家の中から外を見つめ、
逃げ場を失ったまま息を潜めていた。
恐怖だけが、確実に蓄積していく。
「守られているのは“箱”だけだ」
アレスは、冷ややかに呟く。
「中の人間までは、守れまい」
彼の視線は、遥か彼方――
霧の向こうにそびえる、世界樹へ向けられていた。
(世界樹。
そして――エレニ)
歯を食いしばる。
(家を守る力を配り、
世界を守った“つもり”か)
「違う」
アレスの声は、静かだが重い。
「世界を支配するのは、
“守る力”ではなく――
戦を終わらせる力だ」
その言葉と同時に、
軍勢はさらに前へ進む。
家々は無事なまま、
人々の心だけが、じわじわと追い詰められていく。
これは破壊ではない。
征服だ。
そしてこの侵攻が、
世界樹へ至る“最終段階”であることを、
戦神アレスは誰よりも理解していた。
* * *
アカデミーの回廊は、
昼下がりだというのに、不自然なほど静まり返っていた。
結界石の光が、壁の装飾に淡く反射している。
(……邪魔な光)
エニオはフードの奥で目を細めた。
家を守る石。
人間を守るための、女神の細工。
(父上は、こんなものに足止めされるお方じゃない)
取り巻きの一人が、囁くように告げる。
「エニオ様。
妖精――レイは、女神エレニの覚醒に不可欠な存在だそうです」
「鍵、というわけか」
その言葉に、エニオの唇が歪む。
(ふ~ん……。ならば、壊すべきは世界樹でも、結界でもない。
“鍵”だけを抜き取ればいい……。)
「連れてきなさい」
エニオの命令は短かった。
「傷つけないよう。
だが、逃がすな」
取り巻きたちは頷き、影のように散っていく。
ほどなくして――
中庭に、小さな影が現れた。
光を宿した羽。
無警戒な足取り。
レイだ。
「レイ! エレニが呼んでたよ」
取り巻きの一人が、柔らかな声でそう告げる。
「え?」
レイはぱちぱちと瞬きをした。
「ほんと?
さっきまで一緒だったけど……」
「急ぎみたい。
世界樹のことで」
その言葉に、迷いはなかった。
「そっか!
じゃあ行く!」
疑うことを知らない笑顔。
次の瞬間――
地面に描かれた魔法陣が、音もなく光を放った。
「……え?」
レイの足が止まる。
空気が、きしむ。
「なに、これ……?」
羽が、重くなる。
視界が、歪む。
「エレニ――?」
答えは、ない。
代わりに、冷たい金属音が響いた。
――カシャン。
魔力の格子が、四方から組み上がる鳥籠。
逃げ場は、どこにもない。
「っ……なに、これ!?」
レイが両手で叩くと、
魔力が波紋のように揺れただけだった。
その外から、エニオが姿を現す。
「こんにちは、妖精さん」
静かに嘲る声がした。
「君が“鍵”か」
「……あなた、この前の……」
レイは、怯えながらも睨み返す。
「エレニを呼んだの、うそでしょ!」
「嘘だよ」
エニオは、あっさりと認めた。
「だが必要な嘘だ」
鳥籠に手をかけ、言葉を続ける。
「君がいれば、父はもっと強くなれる」
「父……?」
「戦神アレス」
その名を聞いた瞬間、
レイの胸が、嫌な音を立てて鳴った。
「……エレニ、怒るよ」
震える声。
「エレニ、悲しむ……」
「だから?」
エニオは、少しだけ視線を逸らした。
「それが――なに?」
拳を握る。
(父上に、認められたい……。
役に立つと、証明したい)
「父上の世界に、
余計な感情はいらない」
鳥籠が、ふわりと宙に浮く。
レイの姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。
「エレニ――!」
叫び声は、魔力に吸い込まれ、
外には届かなかった。
残されたのは、
淡く光る結界石の静寂だけ。
そしてエニオは、確信していた。
この一手が――
戦局を、確実に動かすことを。




