93話 アカデミーの立場
寄宿舎の食堂は、朝の光で満ちていた。
湯気の立つスープの香りと、焼きたての香ばしいパンの匂いが漂い、
静かなざわめきが心地よく響く。
「エレニ、おなかすいた〜!」
「はいはい。席、取ろうね」
レイの手を引いて入ると――
視界の端に、アイアスが立っていた。
(うっ……気まずい……)
エレニが苦笑しながら軽く会釈すると、
アイアスは一瞬だけ目をそらし――
なぜか背筋を伸ばしてから返してきた。
「……おはよう。エレニ」
「お、おはようございます。アイアスさん」
(さん付けになった!? 昨日まで“アイアス”って呼んでたのに……)
少し距離を取りすぎた呼び方に、アイアスの眉がぴくりと動く。
そこへ――
「アイアス! おはよーっ!」
「エレニー! こっちこっち!」
リオとジーノが、空気をぶち壊す勢いで駆け寄ってきた。
「あれ? なんだか二人ともどうかしました?」
「お? もしかして昨晩なんかあったのか?」
「やめてジーノ」
「やめろジーノ」
エレニとアイアスの声が、同時に重なった。
「え?なに? 俺、何か変なこと言った?」
背を向けた、メリノエとマカリアが、絶対聞こえる声量でひそひそ。
「見てメリノエ……あの微妙な距離感……」
「えぇ。“意識し始めた者同士”の距離ね」
「ちょっと青春っぽい〜!」
「マカリア、声が大きい」
エレニの耳が、真っ赤になる。
「ち、ちが……!」
言いかけたその時。
「アイアスーー!!」
レイが、全く迷いなくアイアスの手を掴みに行った。
「れ、レイ?」
「昨日の夜、来てくれたでしょ? レイ、知ってるんだ~!」
周囲:
((( えっ…… )))
アイアスの耳まで真っ赤になる。
「……あー……えっと……それは……」
返事に困り、首元をポリポリとかく。
「アイアス、レイのこと気づかってくれて……ありがとう」
エレニがそっと微笑むと、
アイアスは一瞬だけ息を呑み、
視線を落とし――小さく、でもはっきりつぶやいた。
「……少し、心配になっただけだ」
食堂の空気が、瞬間だけ静かになった。
すぐにマカリアが、嬉しそうに小声で騒ぎ出す。
「きゃー! 今の聞いた!?」
「うん。完全に落ちてるわね」
「メリノエ、真顔で言うのやめて!」
リオが尻尾を揺らしながらニヤニヤ。
「ふーむ……なるほど、そういうことですか。
道理で、いつもよりお茶が甘い。砂糖入れました?」
「入れてません!!」
エレニの抗議に、ジーノは笑いながら肩を叩いた。
「まあまあ。とにかく、一緒に食おうぜ!」
ジーノがレイの手を引っ張り、その様子を見て、
アイアスはエレニのほうへ視線を向け、わずかに柔らかく微笑んだ。
「隣、座るか?」
「……うん」
こうして朝の食堂には、また小さな温かさが広がっていくのだった。
* * *
吐く息は白くかすみ、外では雪虫が冬の到来を知らせるように
ふわり、ふわりと舞っていた。
朝食を終えた生徒たちが食堂から移動してきて、講堂はざわめきに満ちていた。
「エレニ様、説明会が終わったらレダ様とハルマ様の所へ帰省でしたよね?」
「うん。休みも明日までだし……それに、レイが目を覚ましてからまだ顔を見せてないしね」
「いいな~、楽しみ!」
「はしゃぎすぎはダメよ。ちゃんと挨拶すること」
「は~い」
講堂の大窓から差し込む朝の光が、ざわめく空気を静かに照らす。
やがて――講師の気配が満ち、空気が一変した。
人間講師のカテリーナが壇上へ歩み出ると、場は静寂に包まれた。
「静粛に。――これより、アカデミーの“戦時体制”への移行について説明します」
ざわめきが、氷のように凍りつく。
「皆さんも感じているはずです。
神々の間で、いつ戦争が勃発してもおかしくないと判断されました」
小さな悲鳴のようなどよめきが起こる。
エレニはレイの籠を胸に引き寄せ、リオは緊張で背筋を伸ばした。
「アカデミーは“中立”です。
中立であるからこそ、避難者支援、物資補給、魔力通信……。
戦争が起これば最前線以上に頼られるのは、ここです」
カテリーナは、ひと呼吸置いた。
「ですが皆さんは学生です。
戦えと言っているのではありません。
活動はボランティア。自分のできる範囲だけでいい。
家族のいる者は帰省して構いません」
幕がふわりと上がり、光の掲示が浮かぶ。
「世界樹研究学科は魔力監視と環境調査。
薬草学科は回復薬。
魔道具科は結界と補給具。
医術科は治療班。
遺跡研究科は避難路管理。
農業科と漁業科、建築科と芸術科、政治科と商業科――それぞれに役割があります」
そして、講堂の空気がさらに沈む。
「最後に。
神々の講師は、戦場が動けば“戦力”として召集されます。
以降の指揮は、人間と妖精の講師が取りますので、必ず従ってください」
その言葉に、エレニの胸がぎゅっと縮んだ。
(……やっぱり、戦いは避けられないんだ)
講堂は緊張のざわめきで満たされ、重い空気の中、生徒たちが席を立ち始める。
「エレニ」
「ア、アテナ先生」
アテナは、いつもより少しだけ表情を柔らかくしていた。
「戦場へ向かう前に……あなたに伝えておかなくてはならないことがあるの」
「私に?」
「神々は、年に一度のアンブロシア収穫祭で実を口にする。
それが、不老不死の加護になる」
「……不老不死」
「ええ。でもあなたは――オピオタウロスを討ち、その内臓を燃やしたことで
“神を殺す力”を手に入れてしまった」
エレニは息を呑む。
「あの力が……そんな……」
「アレスもクロノスも、あなたを恐れている。
とどめを刺せるのは、あなた一人。
だけど、あなたはアンブロシアを食べていない。
死のリスクは……誰よりも高い」
「……」
「強制はしない。ゼウスも同じ考えよ。
ただ、狙われることだけは忘れないで」
「……わかりました」
その時、アテナは後ろを振り返った。
「メリノエ、ディオ。あなたたちにも話があるわ」
二人は緊張しながらアテナに連れられていく。
残されたエレニの前に――
「エレニ」
声をかけたのは、アイアスだった。
「……聞いたか」
「うん」
「なら……俺が、お前の傍に――」
「だめだよ、アイアス」
エレニは微笑んだ。
その微笑みは、どこか寂しく、どこか覚悟を含んでいた。
「あなたには、パラディンの皆を守る責任がある。
リーダーとして、役目を果たしてほしい」
「しかし――!」
「お願い」
エレニはそっと視線を下げる。
「……みんなを守って」
アイアスは苦しく唇をかむ。
「エレニ様、そろそろお時間です」
「はい。――アイアス」
エレニは、首元からペンダントを外し、
そっと彼の首にかけた。
「これは……!」
「お父様……ゼウスからいただいたもの。
私の守護魔法が込めてあります」
「こんな大事なもの……!」
「返してくれればいいの。
無事に戻ってきたら――ね?」
アイアスは言葉を失ったまま、
深く、静かに頷いた。
「ああ……必ず戻る。約束する」
(本当は、傍にいたい。
それでも、私は選んだ……。
母として、女神として――
この世界を“守る側”に立つことを)
エレニは、涙を堪えながらその覚悟を胸に、歩き出した。




