91話 失いたくない世界
夕食を済ませたエレニたちは、寄宿舎の部屋へ戻ってきた。
「お腹いっぱ~い! でも、美味しかった~!」
レイの小さなお腹はポンポンに丸く膨らんでいて、見ているだけで微笑ましい。
「口に合ったみたいで良かったよ」
「見て見て! レイのお部屋ができてる~!」
マカリアが指さし、メリノエと一緒に窓際の角へ駆け寄る。
そこには、小さなドールハウスのような妖精サイズの部屋があった。
ミニチュアなのに精巧に作られたベッド、クローゼット、ドレッサー、小さな机――
まるで夢の一室だ。
「わぁ……これ、レイのお部屋かぁ」
「かわいい! めっちゃ気に入った!!」
「これから、少しずつレイのものが増えていくね」
「うん!」
「エレニたち、先にお風呂使っていいよー」
「ありがとう。レイ、お風呂入ろう」
「はーい!」
* * *
湯気がふわりと立ち込める浴室には、普通のバスタブの隣に――
なんと妖精サイズの小さなバスタブが置かれていた。
「わっ! 妖精用のお風呂まであるんだ!」
小さな湯船にぷかぷか浸かりながら、レイは嬉しそうにはしゃぐ。
「アカデミー生活、もっと楽しく過ごしてほしいんだけどね……」
「ん?」
エレニがぽつりと呟いた声に、レイは湯の中で首をかしげる。
「もうすぐ、神々の戦争が始まるなんて……」
「前世で、ママと広島の原爆ドームとか見に行ったね」
「そうだね。戦争を経験したことはなかったけど……
あの時見たものは、ずっと胸に残ってる。
前の世界では、土砂崩れでレイもリオも、守ってあげられなかったのに……
この世界では、戦争になるかもしれないなんて……」
「土砂崩れはママのせいじゃないよ。
それに、この戦争だって。
ねぇママ。私、この世界に来れて良かったよ?
妖精になって、ママのそばにいられるのも……
ママの力になれるのも、ぜんぶ嬉しい」
「レイ……」
「戦争は嫌だよ。あったらダメなことだと思う。
でも、前の世界でも戦争はどこかで起きてた。
誰にも止められなかったよね?」
「……そうだね」
「なら、今は“自分たちにできること”をするだけだよ。
生きていればさ、きっといいことあるよ!」
「……うん、そうだね」
「ふーっ、なんか暑くなってきた! のぼせちゃう!」
「そろそろ出ようか」
「うん!」
* * *
浴室から上がると、マカリアが果実ソーダをグラスに注いで待っていてくれた。
「はい、どうぞ!」
「ありがとう!」
「えっ? この飲み物なに?」
「エレニが考えた“果実ソーダ”よ」
「ママが?」
「飲んでみて」
レイはストローをくわえ、ちゅっと飲む。
「……おいしい! これ炭酸だ!」
「よかった、気に入ってくれて」
「この世界って、いろんなことできるんだね」
「魔法もあるしね。メリノエは裁縫が得意なんだよ?」
「そうなの?」
「レイの服なら、小さいしすぐ作れるわ」
「ほんと!?」
そこから、レイとメリノエのファッション談義が始まり、
マカリアは「じゃ、私お風呂いってくるー」と浴室へ消えていった。
エレニは、騒がしくも幸せな部屋を見渡し――
胸の奥でそっと願う。
(……ずっと、この生活が続けばいいのに)
いつの間にか外では小雨が降り、静かすぎるほど穏やかな時間が流れていた。
レイは目を擦りながら、エレニの膝に頭を預ける。
「ママ、妖精の契約……ちゃんとできてた?」
「うん。大丈夫。前世でも、今でも、レイは私の宝物だよ」
エレニはレイの髪を撫でる。
「……ずっと一緒にいていい?」
「もちろん。今度こそ、絶対に」
レイの瞼がゆっくり落ちていき、呼吸が安定する。
その寝顔を見て、エレニはふっと表情を緩める。
(守りたい。この子だけは、誰にも渡さない)
暖炉の火がぱちりと弾け、その音だけが部屋を満たした。
――アイアスは、控えめにノック音をした。
(……こんな時間に会いに来てしまった)
理由は自分でも分かっている。
エレニが“母親の顔”を見せる夜が、なぜか気になって仕方がないのだ。
「入っていいよ」
扉を開けると、レイが眠り、エレニがそばで毛布を整えていた。
「……寝たところ、だったか」
「うん。今日は、いっぱい頑張ったからね」
アイアスは、眠るレイを見るたび胸がざわつく。
それが“愛着”という名の感情だとは、まだ自覚していない。
(あの子を守っている彼女を……守りたいと思うのは、変か?)
言葉にならない思いを押し込めるように、アイアスは話題を変えた。
「……神殿の動きが変だ。アレスが何かを掴んだかもしれない」
「覚醒の件?」
「ああ。お前の力……あれはもう隠せない」
エレニが一瞬だけ伏し目になる。
その横顔に、アイアスはほんの一瞬視線を奪われる。
(……危険になればなるほど、離れられなくなる。俺は、いつから――)
その思考を遮るように、レイが寝返りをうった。
二人は肩を並べてレイの寝顔を見つめる。
(なぜだろう……)
戦場よりもずっと静かなこの時間が、壊れることが――
アイアスには、いちばん怖く感じられた。




