77話 アレスとクロノス
オリンポスを離れたアレスは、
天界から落ちるように地上へ降り、
さらにその奥――光の届かぬ境界の谷へと向かった。
ここは、
過去でも未来でもなく、
世界の理の狭間を流れる時の裂け目。
普通の神は近づくことすらできない。
だが、アレスは迷いなく進む。
彼の歩みに応じて、周囲の時間がひび割れていく。
草は枯れ、石は砕け、空気がざらりと震えた。
「……来るか」
アレスが立ち止まった瞬間――
空間そのものが、音もなく裏返った。
黒い砂のような霧が渦巻き、
裂け目の奥から、ゆっくりと人影が現れる。
――クロノス。
その姿は、老人とも若者ともつかない。
時間という概念が形をとっただけのような、
不気味な存在感があった。
彼が一歩踏み出すと、世界が一秒だけ巻き戻った。
「……ほう。戦の子よ。
お前がここまで来るとは、予想外だ」
クロノスの声は、どの時代から聞こえているのか分からない。
響きが遅れたり、先に来たり、定まらない奇妙な声だった。
アレスはため息をつくように、肩を鳴らす。
「予想外? そんな大層なもんじゃねぇよ。
母さんが裁かれたんでな。……気に食わなかっただけだ」
「ヘラの処罰か。
ゼウスらしい判断だ。
あの男は“切り捨てる時”だけは迷わぬ」
アレスの瞳が鋭く光る。
「……あんた、ゼウスを憎んでるんだろ?
なら、理由は十分だろ」
クロノスは笑った。
「私がゼウスを憎むのは父としてではない。
あれは、時を奪った張本人だからだ。
――私の永遠を喰らったのだよ」
一歩近づく。
その瞬間、アレスの鎧が一瞬だけ錆び、
すぐに元に戻った。
時の加速と逆流。
クロノスの力がほんのわずか触れただけで、変化する。
アレスはそれでも怯まず、踏みとどまる。
「……で。
俺がここに来た理由、分かってんだろ?」
「もちろんだとも」
クロノスは、薄い笑みを浮かべた。
「怒り。
失望。
裏切り。
――お前の心は、今とても戦争に適している」
アレスの拳が震える。
「オリンポスは、俺を武器としてしか見ねぇ。
なら……本物の戦場で暴れた方が、まだマシだろ」
「ならば来るがいい。
戦神アレス。
私の側には、いずれ世界そのものが敵となる戦場がある」
クロノスは、裂け目に手を差し伸べた。
「お前の力を、私に預けろ。
そして取り返すのだ。
――お前たち神族の時代を」
アレスはその手を睨みつける。
ためらいは……なかった。
「いいぜ。
オリンポスに、戦を教えてやる」
アレスがクロノスの手を握った瞬間――
世界がひっくり返ったような轟音が響く。
時が逆巻き、空間が泡のように弾け飛び、
周囲のすべてが、戦争そのものの形へと変貌する。
クロノスが満足げに言う。
「これで良い。
――私の復活は、予想よりずっと早くなる」
アレスは微笑む。
戦場でしか見せない、獰猛な笑み。
「望むところだ。
世界が壊れようが、俺は構わねぇ」
裂け目が閉じ、暗闇がすべてを飲み込む。
こうして――
時の王と戦神の手が結ばれた。
それは、
世界がまだ知らない、第二の終末の始まりだった。




