76話 戦神アレス
エレニとゼウスの短い父娘の時間が終わると、会議室には再び静けさが戻った。
アテナは沈黙を破り、軽く杖を鳴らす。
「――これにて、ヘラ様の裁定および本日の議題は終了とします」
会議室の空気は、ゆっくりと張り詰めた糸を解くかのように柔らいだ。
神々はそれぞれ席を立ち、思い思いの表情で退出していく。
ポセイドンは深く息をつき、渋い顔で肩をすくめる。
ハデスはいつも通りの静けさを取り戻し、黙って立ち上がる。
ゼウスも王の威厳を取り戻しつつ、エレニの傍を離れた。
重い空気をまだ引きずりつつ、
エレニたちも席を立とうとしたその時――
コツ、コツ、と。
まだ、座したままのアレスの爪が机を打つ。
戦神の顔には、いつもの血気盛んな笑みはなかった。
むしろその瞳は、深い闇を宿していた。
アテナが小さく眉を寄せる。
「アレス。まだ何か言いたいことが?」
だがアレスは答えず、
ヘラが消えた場所を見つめ、苛立つように舌打ちする。
「……納得いかねぇな」
「何がですか?」とポセイドン。
アレスはゆっくり振り返り、
その視線は会議室の空気を裂くように鋭くなる。
「“母さん”だけが罰を受けるのかよ。
あれほど追い詰めた原因を作った奴らが、知らん顔で座ってるくせに」
エレニは息を呑む。
アレスが睨んでいたのは――エレニではない。
ゼウスだ。
「オリンポスの秩序? 世界の安定?
笑わせるな。
どれだけ家庭を壊し、神々を振り回してきたと思ってんだ」
ゼウスが雷の気配を纏い、低く唸る。
「……アレス。無礼だぞ」
「無礼? まだ控えてる方だぜ」
その瞬間、アレスの周囲に赤い戦気が立ちのぼる。
熱が弾け、会議室の温度が一気に跳ね上がった。
ハデスが立ち上がる。
「アレス、やめろ」
アレスは笑う――だが、それはひどく乾いた笑いだった。
「エレニが雷を継いだことも面白くねぇ。
“次代の雷”が、母さんを追い詰める材料に使われたようでな」
エレニは息を止めた。
その言葉には、嫉妬と怒りと……何か満たされない感情が混じっていた。
「結局、ゼウスの都合じゃねぇか。
誰が継ごうがいいんだろ?
神の家族なんざ、便利に使えりゃそれでいいだろ」
アイアスが一歩前に出る。
「アレス。……本気か?」
「おうよ」
その瞬間、アレスの姿が赤い残光になり――
次の鼓動の瞬間には、もう会議室から消えていた。
静寂が落ちる。
誰もが悟った。
――アレスは、クロノス側へ行った。
ハデスが低く呟く。
「……戦神が敵に回ったか。最悪の展開だ」
アイアスは唇を引き結ぶ。
「こんなことになるとは……」
エレニは胸の奥に痛みを覚えた。
戦の象徴が時の王に与す――
それは、ただの裏切りではない。
クロノスが力を取り戻す速度が、想定以上に上がる。
世界全体が揺らぎ始める前兆だった。
アテナが冷静な声でまとめる。
「……急ぎましょう。
アレスの離反は、クロノス復活の“鍵”にもなり得る」
ゼウスも目を伏せる。
「神々の戦――これだけは、避けたかったのだが……」
そこで、ヘルメスが前へ出る。
「情報収集ならオレに任せろ。
アレスがどこでクロノスと接触するのか、すぐに突き止めてみせる」
アテナが頷く。
「頼みます、ヘルメス。
そして――アイアス。あなたもすぐに準備を」
アイアスが横で小さくうなずく。
「……ああ。エレニ、行こう」
エレニは拳を握りしめた。
(戦が――始まる)
(アレス、あなたはどうして……)
そして、静まり返った会議室の中心で、
新たな危機の幕が上がろうとしていた。




