75話 至高神であり、父でもある
会議が再開されても、エレニの耳には言葉が半分も入ってこなかった。
ヘラの姿が消えたあとの”空白”。
胸の奥に残る、言葉にできない痛み。
それが、会議室の冷たい石壁に反響するように重なっていた。
――わたくしはずっと“気にくわなかった”。
あの言葉が、離れない。
自分が憎まれる理由なら、いくらでも思いつく。
だが……血は繋がらずとも、“母と呼んだ相手”から向けられた憎しみは、
想像していたより、ずっと重かった。
そんな中――
「エレニ」
低く、深い声が、頭上から落ちてきた。
顔を上げると、ゼウスが立っていた。
さっきまで会議を主導していた威圧的な神ではない。
肩の力を抜き、どこか不器用な表情をした――父の顔だった。
「……お父様」
ゼウスは周囲に視線を向け、アテナに軽く頷く。
アテナは「行ってあげて」とだけ目で告げ、
議論を続けるため円卓へ戻っていった。
会議場の片隅で、二人きりになる。
ゼウスはしばらく黙ってエレニを見つめていたが――
大きく息を吸い、低い声で言った。
「……つらかったな」
その言葉だけで、エレニの胸がきゅっと締めつけられる。
「別に……私は、慣れてます」
「慣れなくていい」
ゼウスの声が、珍しく強い。
「憎まれたり、責任を押しつけられたり、利用されたり……。
神の血を引く者には、よくある話だ。
だがな――慣れる必要は、どこにもない」
エレニは驚いてゼウスを見上げる。
ゼウスは厳しい父でも、豪胆な王でもなく――
ただ、娘を守りたいだけの一人の父親の顔をしていた。
「ヘラの言葉に、惑わされるな。
あれは、あいつ自身が迷い、追い詰められて出した“弱さ”だ。
お前に向けられた憎しみではない」
「……でも、私のせいで――」
「あれはヘラが自分で選んだ道だ。
エレニ、お前の責任じゃない」
ゼウスはゆっくりと腰を下ろし、エレニと“同じ高さ”で目を合わせた。
いつもは天上を見下ろす王が、今は一人の少女の前に膝をついている。
「お前は、よくやっている。
誰よりもまっすぐで、誰よりも優しくて……。
私は、それを誇りに思う」
エレニの喉がつまった。
「……お父様」
「辛い時は、辛いと言っていい。
怖い時は、怖いと言っていい。
泣きたい時は……泣いていいんだ」
その穏やかな声に、エレニはとうとう耐えきれなくなった。
視界が滲む。
ボロボロと涙がこぼれ、抑えようとしても止まらない。
ゼウスは驚かなかった。
それどころか、ごく自然に娘の頭に大きな手を置き、そっと撫でた。
「よし……よし。全部、流してしまえ」
雷神の手とは思えないほど、優しい仕草だった。
エレニの肩が震える。
声にならない涙が、ずっと堪えていた痛みを洗い流していく。
「私……弱いよ、お父様……。
ヘラ様に憎まれるのも嫌だったし……
でも、助けたい気持ちもあって……
どっちもどうしていいか、わからなくて……」
「弱いのは、悪いことじゃない。
弱さを抱えながら、それでも前へ進もうとするのが“強さ”だ」
ゼウスはエレニの涙を親指で拭った。
「お前は、ちゃんと強い。
私は、神としてだけじゃなく……
父として、お前を誇りに思う」
エレニの瞳に、あたたかな光が少し戻った。
「……ありがとう、お父様」
「うむ」
ゼウスは軽く微笑む。
その笑みは、神々を震わせる雷ではなく――
ただ一人の娘の心を照らす、静かな光だった。
「さあ、戻ろう。
まだお前には守るべき仲間がいる。
そして……お前を支える者たちも、な」
ゼウスが、ゆっくりと立ち上がった。
エレニも涙を拭き、静かに頷いた。
――その背中は、かつてよりずっと、近く感じられた。




