74話 ヘラ断罪
会議室に張りつめていた空気が、さらに冷たく沈んでいく。
アテナの糾弾は、淡々と――だが逃げ場のない正確さで積み重ねられ、
ついに視線が、円卓の頂点に座るヘラへと集まった。
女神は、まるで氷像のように動かない。
だが、指先だけが微かに震えているのを、エレニは見逃さなかった。
ヘラはそっと息を吸い、黄金の瞳で神々を見渡す。
「……わたくしに落ち度があるというのなら、どうとでも罰せばよい。
ただひとつ言わせていただきます。
わたくしが為した全ては――オリンポスの秩序のため。
ゼウス、あなたが招き入れた“異物”を、放置できなかっただけです」
その視線が、鋭くエレニを刺す。
エレニの胸が少しだけ痛んだ。
――この人は、たとえ歪んだやり方でも、
“神の純血”を守ろうとしたのだ、と。
しかし。
ゼウスがゆっくりと立ち上がる。
「ヘラ。
お前の忠誠も、怒りも……私が一番よく知っている」
低く響く声には雷の気配が宿り、空気が震えた。
「だが――お前は一線を越えた。
娘たちを傷つけ、世界を揺るがし……。
“守るため”という理由では、もはや済まされぬ」
ヘラの瞳がわずかに揺れる。
「……ゼウス。あなたまで、わたくしを裁くのですか?」
「裁くのではない。
責任を取らせるのだ」
その言葉と同時に、会議室の空気がさらに張りつめた。
アテナが厳粛に宣言する。
「ヘラ。あなたに科す処分は――
上層階外縁での幽閉。
時限は定めません。
あなたが、自らの行いの意味を理解するまで」
円卓にざわめきが走る。
ポセイドンが腕を組んで唸った。
「まあ、妥当だろうな。世界樹を危険に晒し、
クロノスまで呼び戻したんだから」
ハデスは静かに目を伏せる。
「幽閉は甘いくらいだ。……だが、ゼウスの面子もある」
だが当のヘラは、怒りも嘆きも見せず――
どこか投げ出したような、薄い微笑を浮かべた。
「よろしいわ。
幽閉でも永劫の眠りでも……あなたが決めるのなら、従いましょう」
そして、エレニに視線を向けた。
「――次代の雷よ。
あなたが生まれた時から、わたくしはずっと“気にくわなかった”のよ」
エレニは言葉を失う。
しかし、ヘラは続けた。
「それでも……あなたが誰よりもゼウスに似ているとだけは、認めますわ」
くす、と笑う。
それは皮肉ではなく――どこか満ち足りた、柔らかい表情だった。
エレニは一歩進み、静かに告げる。
「ヘラ様。
私は、誰かを憎むために、生まれたわけではありません。
レダ様から生まれ、人の手で育つことで――
人の感情も、神々の感情も変わらないと知りました。
ただ、神々の感情は世界に与える影響が大きいです。
まだ未熟な私でも、感情だけで世界を弄ぶことは、
許されないことだと分かっています。
それから……あなたが私を憎んでも……
私にとってはあなたも、母であることに変わりません。
誰もが、心に壁を作り、受け入れることを恐れるなら……
誰からも、受け入れられないのではないでしょうか……?」
アテナが審判の槍を掲げた。
「――ヘラ。
これより、あなたを下界へ送還します」
黄金の光がヘラを包み込む。
消える直前、ヘラは最後にゼウスを見た。
「……本当に、“わたくしのやり方”は間違いだったのかしら?」
「そうだな。
だが……長い時の中で、正し方を見つければいい」
ゼウスの声は静かで、どこか優しさが滲んでいた。
ヘラはふっと微笑む。
「ならば……次に会う時は、あなたの判断を見返してみせますわ」
そう告げ、女神の姿は光に溶けて消えた。
――重苦しい沈黙が、会議室に落ちる。
アテナが息を吸い、結論を告げた。
「ヘラの裁定は以上です。
続いて、この一連の事件の処理と再発防止について――」
会議は再び動き出した。
だがエレニは、胸の奥に残る痛みを抱えたまま、静かに拳を握る。
――これが、神々の“裁き”。
そして、ひとつの時代の終わりだった。




