72話 忘却の椅子
冥界の路地裏には、薄い黒霧がまとわりつくように漂っていた。
メリノエとマカリアは並んで駆け抜け、
その霧の効力が徐々に薄れつつあるのを、肌の感覚で悟る。
「……黒霧、限界が近いわ」
「大丈夫。庁舎はもうすぐ……っ!」
二人が路地を曲がった――その瞬間。
「見ィつけたぞォ──ッ!!」
地響きのような足音。
振り返ると、ペイリトオスとテセウスが霧を振り払い、
獣じみた形相で迫ってくる。
マカリアの背がぶるりと震えた。
「くっ……!」
「マカリア、ここよ!」
メリノエが強く手を握り、さらに速度を上げる。
その足取りは人ならぬ冥界の住人特有の軽さだった。
だが、背後の二人もまた人外の怪物だ。
「逃げるなんて失礼だろ……“俺の嫁”がよ」
「花嫁は従順にしてりゃいいんだよなァ?」
粘つくような声が追いすがる。
(怖い……でも――)
握られた手は温かい。
メリノエの小さな手が、力強く自分を支えている。
(負けない……絶対に!)
しかし。
「捕まえたァ……ッ!!」
ペイリトオスが跳躍し、腕を伸ばした。
マカリアの肩に触れる寸前――
「――動くな」
冷気のような一言が、路地裏の空気を一変させた。
影の揺らぎから、漆黒のマントをまとった男がゆっくりと姿を現す。
冥界の死神、タナトス。
「冥界の娘に、勝手に触れるな」
ペイリトオスの腕が硬直する。
「な、なんだテメェ……」
「ハデス様の眷属かよ……!」
タナトスの瞳は氷のように冷ややかだ。
「メリノエ、マカリア……怪我はないな」
メリノエが息をつき、頷く。
マカリアも肩を押さえながら答えた。
「だ、大丈夫……助けてくれて……ありがとう……!」
「追いかけられている様子が、判官庁舎から見えた。
よく逃げ切った。もう安心だ」
優しい声。
二人の身体から緊張がすっと抜けていく。
しかし――。
「おいおい……邪魔すんなよ、じいさん」
テセウスが唇を歪めた。
「俺たちゃぁ神サマの紹介で来てんだ。冥界の女くらい引き渡してもらってだな――」
言い終わる前に、
――ガンッ。
タナトスの杖が地を刺し、黒い影が蛇のように伸びる。
影はテセウスの足を絡め取り、そのまま彼を地面に縫い留めた。
「がッ!? な、動け……!」
「言ったはずだ。冥界の娘に触れるな、と」
静かな声。
しかし底に怒りが満ちていた。
「タナトス、お父様が彼らを神殿へお連れするようにと」
「慈悲深いハデス様が、お前たちを“もてなして”くださるそうだ」
ペイリトオスは舌打ちしたが、笑う。
「だったら初めからそう言えばいいんだよ」
「行くぞテセウス。冥界の歓迎ってやつを受けに、なァ?」
「……チッ」
一行はタナトスに先導され、冥界王の神殿――ネクロマンディオへと向かった。
* * *
石造りの巨大神殿は、静寂そのものが威厳を帯びていた。
黒曜石の柱は夜空のように深く、淡い紋様が脈動している。
「ここが……ハデスの神殿」
「確かに……さすが冥界王、威圧があるな」
メリノエとマカリアは奥へと急ぐ。
「お母さま!」
「メリノエ! マカリア! 無事だったのね……!」
ペルセポネが二人を抱き寄せる。
「本当に怖かったでしょう?」
「ううん……でも、タナトス様が助けてくれたわ」
「お父様から伝言もあるの。“お連れした二人を忘却の椅子でおもてなしするように”って」
ペルセポネの瞳が細くなる。
「……その二人が、あなたたちに手をかけようとしたのね?」
「はい」
「わかりました。すぐに準備しましょう」
侍女たちが一斉に動き出す。
* * *
ネクロマンディオ奥深く――
そこは冥界でも限られた者しか入れない部屋。
忘却の椅子が置かれた、静かなる処罰の空間だった。
中央の椅子は淡い灰色の石でできており、表面の紋様が水のように揺らめく。
見ているだけで心の奥がざわつくような寒気が走る。
「……私の娘たちを傷つけようとした者を、ただ帰すわけにはいきません」
普段の春風のような表情は消え、冥界王妃としての影が宿っていた。
「お母さま……忘却の椅子って、本当に……」
「安心して。あなたたちに害はないわ。でも――」
ペルセポネは柔らかい笑みを浮かべる。
「彼らのような者には、少し“味わって”もらう必要があるの」
やがてタナトスが二人を連れて現れた。
「待たせるな! 神の紹介で来たんだぞ!」
「俺たちを軽んじるな!」
「冥界で“神の紹介”が通ると思うな。ここは地上とは違う」
二人の顔がひきつる。
「どうぞ、こちらの席へ」
「それじゃ、遠慮なく」
二人が座った瞬間、椅子の紋様が淡く輝き、紫の霧が噴き上がる。
「な、なんだ……?」
「頭が……ぼやけ……」
「立ち上がり方……思い出せ……」
「名前も、来た理由も……地上で何を……」
「すべて、冥界の河に沈む」
紫の霧が弾け、二人の表情は幼子のように空っぽになった。
「……これが、忘却の椅子……」
「すごい……本当に全部……」
ペルセポネが娘たちの肩に手を置く。
「怖がらなくていいのよ。
これは罰ではなく、冥界の慈悲。
罪を背負えぬ者には、記憶を“返してあげる”だけ」
「タナトス」
「承知した」
タナトスが放心した二人を引き取り、
「レテの川へ送り、地上へ帰す。もう冥界に害は及ばせまい」
「……本当に、私たちを……?」
「忘れているわ。顔も、声も、悪意すら」
マカリアはそっと息を吐いた。
「……よかった……」
「助けてくれて、ありがとう……お父さま、お母さま」
ペルセポネは二人を強く抱き寄せた。




