70話 ヘラの玉座
ヘラの処罰が決まるまでの間、レモンはレダの屋敷に残り、
警護を続けることになった。
一方、アカデミーへ戻ったエレニたちは、学園長室へと足を運んでいた。
そこには、アテナ、アルテミス、ストスの姿もあった。
まるで“次の戦い”の幕開けを予感するような、張りつめた空気。
メティス学園長が、静かに口を開く。
「レダ様の容態が回復されたと聞いて、安心しましたよ」
「はい。セレナの件も、無事に終息しました」
「あなたたちの働きは、神々の間でも評判ですよ」
アテナが微笑みながらも、表情の奥にはわずかな影があった。
「ところで――」
アルテミスが巻物を差し出す。
「ゼウス様から、正式に“オリンポス会議”の招集がありました。
議題は……ヘラ様の処遇について、です」
エレニは思わず顔を上げた。
「ヘラ様を、神々が裁くのですか?」
「そうなるでしょうね。ですが……」
アテナが息をつく。
「正直、ヘラ様が素直に従うとは思えません」
「むしろ、また何かを企んでる可能性もありますね」
アイアスの言葉に、室内の空気がわずかに重くなる。
そんな中、ストスがゆっくりと口を開いた。
「――その件について、少し案があります」
全員の視線が、彼に集まる。
「ヘラ様の“玉座”を、新調したいという要望が上がっておりましてね。
その製作を、私が請け負うことにしました」
「先生が?」
リオが目を丸くする。
「もちろん、ただの椅子を作るつもりはありませんよ」
ストスは唇の端を上げ、どこか愉快そうに笑った。
「……まさか、細工を?」
アテナの声が低くなる。
「はい。ヘラ様の魔力を抑制できる仕掛けを組み込みます。
ただし――その効果が発動する保証は、会議当日にならねば分かりません」
「つまり、その時になったら私たちも動く必要がある、と?」
「その通りです」
重苦しい空気の中、アルテミスが腕を組む。
「大胆ね……でも、悪くないかも」
アテナも頷く。
「リスクは高いけれど、それしか方法がないかもしれません」
学園長が静かに立ち上がり、全員を見渡した。
「では――決まりですね。
ストス先生、あなたの計画に我々全員で協力します」
「ありがたいことです。では、最高の“作品”を仕上げてみせましょう」
ストスが帽子を軽く上げ、職人の笑みを浮かべる。
その背に、アテナがぽつりと呟いた。
「ヘラの玉座が、彼女の“牢”になるなんて……皮肉ね」
エレニは無意識に拳を握った。
「これで、ようやく……終わらせられるんですね」
だがその時――
メティス学園長が、微かに眉を寄せた。
「ええ……ですが、忘れないで。
“玉座”とは、神の力の象徴。
壊すことも、奪うことも……簡単ではありませんよ」
室内の明かりがゆらめき、
窓の外の風がざわめく。
学園の地下工房――
数え切れないほどの魔導陣と金属片が、ランプの灯りに照らされていた。
そこは、ストスの聖域――“創造の炉”と呼ばれる場所だった。
エレニとリオは、防護具を身につけて中へ入る。
金属の焼ける匂いと、魔力の奔流が肌を刺した。
「こんな所にも、先生の工房があったのですね……」
「先生の工房は、いつも時空がねじれたような感じですね」
リオが半ば本気で言うと、ストスがふっと笑う。
「ようこそ、地上と冥界の境界へ。さあ――始めようか」
彼の前の作業台には、既に玉座の骨格が組まれていた。
黄金の骨組みに、深紅のクッション。
背もたれには、女王の威厳を象徴するような翼の彫刻。
「ヘラ様の好みは、わかりやすい。
豪奢で、力を誇示し、そして――自分の美しさを映す鏡を好む」
ストスはそう言いながら、机の上の宝石をひとつひとつ手に取った。
紫水晶、紅玉、琥珀、オパール……
それらが魔力光を帯び、まるで呼吸するように瞬いている。
「……こんなに綺麗なのに、罠なんですよね」
エレニが呟く。
「美とは、しばしば毒を隠す器でもある。
ヘラ様に相応しい、いわば“鏡の牢”だ」
ストスの声には冷静な皮肉と、わずかな悲哀が滲む。
金属槌が鳴るたび、魔法陣が淡く光を放ち、
宝石のひとつひとつが座面や背もたれに埋め込まれていく。
リオが問う。
「先生、この仕掛け……どうやってヘラ様を拘束するんですか?」
「単純だ。魔力吸収と共鳴封印。
座る者の魔力を玉座自体が吸い上げ、鎖のようにその肉体と魂を繋ぎ止める」
「鎖、というのは比喩ですか?」
「いや――実体化する」
その瞬間、玉座の足元に黒銀の鎖が浮かび上がった。
まるで生きている蛇のように、静かに床を這い、玉座の脚に巻きついていく。
「これが、“束縛の連鎖”」
ストスの声が低く響く。
「ヘラ様が座す時、この鎖は魔力の流れを捕らえ、
彼女の神核を拘束する。どんな神でも、一度吸われれば逃れられん」
「先生……それって……」
「そうだ。半ば、神殺しの技術だ。
だが、この時代では、それが平和を守るための“最後の選択”だろう」
しばし沈黙が落ちる。
「ヘラ様は、嫉妬だけでここまで来たのでしょうか……」
ストスは手を止め、しばしハンマーの音が途絶えた。
火の粉がゆらりと舞い、彼の瞳に赤く映る。
「……嫉妬だけ、か。いや、違うだろうな」
低く、金属の擦れるような声が響いた。
「ヘラ様は、夫の裏切りを何度も見せつけられ、
それでも“妻であること”をやめなかった。
――その執着が、いつしか信仰に変わったんだ」
エレニが息をのむ。
リオは黙って、玉座の輝きを見つめていた。
「でも、それが世界を歪めたんですよね……?」
「そうだ。だが、“愛の形”というものは、往々にして歪む。
ゼウスは自由を愛し、ヘラは束縛を愛した。
ふたりは神だ、しかし互いを理解できなかった。
ならば、人が同じ過ちを繰り返しても、不思議ではない」
ストスの声には、どこか悲哀があった。
彼の手元で、玉座の宝石が微かに脈動し、
まるでその言葉に呼応するように淡い光を放つ。
「……先生」
エレニが、小さく呟く。
「ヘラ様は、本当に罰せられるべきなんでしょうか。
確かに彼女は多くの罪を犯しました。
けれど……あの方もまた、愛されたいだけだったのかもしれません」
ストスはしばし黙り込み、やがて静かに頷いた。
「罰とは、“痛みを教える”ものではない。
“痛みを自覚させる”ことだ。
――この玉座は、彼女の鏡だよ」
「鏡……?」
「そう。己の魔力を吸われ、鎖に繋がれることで、
彼女は初めて、自分が縛ってきた数多の命の重さを知るだろう。
その時、もし彼女が涙を流すことができたなら――
きっと、世界は少しだけ救われる」
エレニは言葉を失った。
ただ、玉座の輝きを見つめながら、
胸の奥で小さく“痛み”を感じていた。
――ヘラのように、誰かを愛しすぎて、間違ってしまうこと。
それは、決して“神だけの罪”ではない。
リオが静かに言葉を継ぐ。
「……先生、もしヘラ様が、その鏡を見ても何も感じなかったら?」
ストスの目が、一瞬だけ暗く光った。
「その時は――鎖が彼女の代わりに泣くだろう」
エレニははっとして、玉座の黒銀の鎖を見た。
光を反射して、まるでそれが“血の涙”のようにきらめいていた。
火花が弾ける。
ストスは再び槌を取り、黙々と叩き始めた。
その音は、祈りの鐘にも似ていた。




