68話 わたしを受け入れて
霧が晴れた森の外れ――。
月光が真っ白な屋敷を照らしていた。
石壁を這う蔦の影が揺れ、どこか胸の奥をざわつかせる。
三人とレモンは、その静寂を破るように歩みを止めた。
「ここが、レダ様のお屋敷……」
エレニは一度だけ息を整え、扉をノックする。
――コン、コン。
窓の奥から、小さな影が顔を覗かせた。妖精フィロラだった。
だが、その表情は見る間に凍りついていく。
「知らせもせずに来たから、驚いたようですね」
リオが囁くと、レモンが鎧を鳴らして肩をすくめた。
「いやぁ、月光反射してますし。目立ちますよ、私」
フィロラがそっと扉を開ける。
その目には怯えと混乱が浮かんでいた。
「フィロラ。久しぶりね」
「……エ、エレニ様? ほんとに、エレニ様……?」
「ええ、本物よ。中に、私に似た人がいるのね?」
フィロラの小さな体が震え、こくこくと頷いた。
「落ち着いて聞いて下さい。
私たちはゼウス様の命でここへ来ました。
この方こそ――本物のエレニ様です」
「じゃあ……中にいるのは……」
「生まれなかった双子の妹、セレナです」
「双子……妹!?」
フィロラは息を呑み、すぐに扉を押し広げた。
「どうか、レダ様を……お守りください……!」
四人は互いに頷き、屋敷の奥へと足を踏み入れる。
寝台の傍、白い寝具の上には弱々しく横たわるレダ。
その横に――。
月光に照らされた“もうひとりのエレニ”が座っていた。
「お母さま、ご気分はいかが?」
柔らかな声。だが、そこにあるのは“温かさ”ではなく、“渇き”だった。
「セレナ……」
「セレナ? 何を言ってるの? 私はエレニよ」
エレニの姿を見て、レダは小さく息を呑む。
「まあ……二人とも……そっくり……」
セレナの顔が一瞬ひきつる。
「お母さま、惑わされないで! この人たちは偽物よ!」
フィロラが口を開きかけたが、アイアスが静かに制した。
「セレナ、落ち着いて」
「やめて! いい加減に呼ばないで!」
その声は鋭く、けれどどこか、泣き出しそうなほど震えていた。
「……あなたは、利用されているの。
本当のあなたを、取り戻して」
「違う! わたしは、あの人に“生まれる理由”をもらったの!」
セレナの瞳に宿るのは狂気ではなく、痛みだった。
「お母さまは、私を望まなかった。
だから私は“胎の奥”で消えた。
光を知らないまま、音も知らないまま……」
「……セレナ」
「でもね、クロノス様は言ったのよ。
“お前は必要とされなかった。だから、奪えばいい”って。
奪えば存在になれるって……!」
声が震え、嗚咽に変わる。
「だから私は、あなたを壊すの。だって、あなたがいる限り――私は、いらない!」
セレナの手が震えながらナイフを取り出し、レダに突きつける。
「セレナ!!」
「来ないで! この人を殺して、あなたも殺す!
そうすれば……私が“エレニ”になれるの!」
「セレナ……」
レダがゆっくりと、涙を浮かべながら立ち上がる。
「あなたのことを忘れたことは、一度もないのよ。
生まれてこられなかったその命も、ずっと抱いていた」
「嘘……。だって私は……いなかったのに……!」
「いたの。ずっと、私の中に」
セレナの瞳が大きく見開かれ、ナイフを持つ手が震える。
「どうして……そんなこと言うの……?
だったら、どうして私を“置いて”生きたの?」
その叫びは、子どものようだった。
誰にも触れられなかった孤独の中で、やっと絞り出した心の声。
「お母さま……わたしは、ただ……見てほしかったの……」
ナイフがカランと落ちる。
レダはそっとセレナを抱きしめた。
「見ているわ。今も、昔も。あなたのことを、愛している」
セレナの体が崩れそうになる。
「……あたたかい……。
こんなに……あたたかいのね……お母さま……」
その瞬間、エレニが一歩前へ進んだ。
「セレナ――あなたは、私の影じゃない。
私たちは、本来ひとつだった」
「……ひとつ?」
「そう。あなたが悲しみを引き受けてくれたから、私は光を見られた。
だから今度は、私があなたの闇を受け止める」
セレナの頬を、一筋の涙が流れた。
「……そんなこと言われたら、消えたくなくなるじゃない……」
「消えるんじゃない。あなたは迷子になっただけ。きっと帰ってくる」
エレニがそっと、セレナの手を取る。
――パリン。
部屋の空気が震え、クロノスの呪いが砕けた。
金色の光がセレナの身体を包み、
まるで長い夢の終わりのように、その輪郭が溶けていく。
「お母さま……ありがとう。
エレニ……ごめんね。きっと、また会えるよね……」
光が散り、暖かな風が残った。
レダはその場に膝をつき、涙をこぼす。
「……セレナ……エレニ……。
二人とも、私の娘よ。生きた娘も、眠った娘も――どちらも愛してる」
外の霧が晴れ、窓の向こうで世界樹の光が瞬く。
まるで、ひとつの魂が帰る道を照らすように。
エレニは静かに胸に手を当てた。
「セレナ……あなたの痛みは、私の中に生き続ける。
だから、もう泣かなくていい」
アイアスは、隠すかのように背を向け、
レモンがすすり泣き、リオが肩をすくめる。
「泣かないでください。鎧が曇りますよ」
「曇ってもいいでしょう……。今日くらいは」
月光の中で、エレニの頬を伝う涙が輝いていた。
それはもう悲しみではなく――再生の証。




