67話 雷親子
翌朝。
アカデミーは祝賀の余韻に包まれたまま、久々に穏やかな休日を迎えていた。
生徒たちは思い思いに休息を取り、街へ買い物に出かける者、寄宿舎で寝だめをする者もいた。
だが――エレニ、リオ、アイアスの三人は、静かに神殿の奥へと向かっていた。
オリンポスの上層、黄金の門の前。
門番の聖騎士が深く頭を垂れる。
「アイアス殿。お疲れ様です! エレニ様、ゼウス陛下への謁見、許可が下りております」
「ありがとうございます」
アイアスが一礼すると、聖騎士は扉を開くために魔力を込めた。
重厚な扉が、ゆっくりと音を立てて開いていく。
奥から吹く風には、雷神の力が混じり、肌を刺すような張り詰めた気配を帯びていた。
玉座の間。
天井高く伸びる柱は稲妻の文様で飾られ、壁面には神々の紋章が浮かんでいる。
その中央、王座に腰かけるゼウスが、眉間に皺を寄せていた。
「……エレニか」
その声は低く、しかしどこかに疲労が滲んでいた。
「ゼウス様。お久しぶりです。お変わりありませんでしたか?」
エレニが慎ましく頭を下げる。
「そうだな……。世界樹の件、そなたには随分重荷を背負わせたようだな」
「いえ。私たちは、自分の意志で動いたことです」
ゼウスは小さく頷く。
その横で、リオが緊張気味に背筋を伸ばした。アイアスは静かに周囲を見渡し、状況を探る。
「アテナから報告は受けておる」
ゼウスは額に手を当てた。
「ヘラが……いろいろとやらかしたようだな。
レダに毒を盛り、世界樹が機能しないよう、ハデスに“フヴェルの泉”を封印させた。
さらにクロノスを脱獄させ、ニーズヘッグに果実を与え、世界樹の根を喰わせたと聞く」
「はい……。冥界でハデス様とペルセポネ様にお会いしました。
ハデス様は深く反省しておられました」
「ふむ……」
ゼウスは、白い髭を指で撫でながら、重くため息を吐いた。
「わしのもとにもペルセポネから嘆願書が届いた。
“冥界を離れる気はない、ハデスとの婚姻にも悔いはない”とな。
……あの二人に関して、わしが咎めることは何もないだろう」
ゼウスの声音には、神としてではなく一人の父としての温かさが滲んでいた。
エレニは、胸の奥に小さな安堵を覚えた。
「しかし……」
ゼウスの表情が一変する。
その目に、雷のような光が走った。
「ヘラをこのまま野放しというわけにはいかぬ」
「……」
空気が一瞬、張り詰める。
「オリンポス神を全員集め、この罪について会議を開く」
ゼウスの言葉は静かだが、王命としての重みを持っていた。
アイアスが一歩前に出る。
「陛下。会議に先立ち、我々の方でも調査を続けたいと考えています」
「ふむ」
「ヘラの行動には、単独犯では説明できない不自然な点が多すぎます」
ゼウスの目が鋭くなる。
「……どういうことか?」
「彼女は、クロノスと動いている可能性があります」
アイアスの声は冷静だった。
ゼウスは目を閉じた。
「……なるほど。そなたの言う通りかもしれんな」
「陛下」
エレニも口を開く。
「クロノスの居場所は、まだ掴めていません。けれど、ヘラ様の側に“セレナ”という少女がいました」
「セレナ……」
「はい。私の……もう一人の私。
生まれてこれなかった、双子の妹です」
ゼウスの眉がぴくりと動く。
「生まれてこなかった……もう一人の娘。
……また、愚かな事を」
重く、雷鳴のような声が玉座の間に響いた。
リオが小さく息を呑む。
アイアスは無言のまま、エレニの肩にそっと手を置いた。
「エレニ」
ゼウスの声が、柔らかくなる。
「そなたが耐えてきた痛み、そして試練は、神々の過ちを正す光だ。
しかし、この件は“神の領域”そのものに踏み込むことになる。
そなたは、レダの所に行きセレナの事を確認するのだ。
覚悟を持って行け」
「はい……」
エレニはまっすぐにうなずいた。
その瞳は揺るがず、覚悟に満ちていた。
「あぁ、それからレダの所に行くならあいつを連れていけ」
「あいつ?」
「レモン!レモン!!」
(レモン……?)
「はい!はい!はい!ゼウス様。お呼びでしょうか!!」
現れたのは、ずんぐりむっくりの体に黄金の鎧をまとった中年戦士。
背中に二本の斧を背負い、髪も髭もきらっきらの金色だった。
「こいつはわしの親衛隊長だ。レモンみたいだろ?」
「……確かに、ツヤ感がすごいです」
「お初にお目にかかります、エレニ様。
わたくし親衛隊長、レイモンと申します! 以後、“レモン”とお呼びください!」
(レ、レモンでいいんだ……)
「よ、よろしくお願いします」
「レモンよ、明日エレニたちと同行し、レダの護衛にあたれ」
「御意!!レモン、命に代えてもお守りいたします!!」
大きな声が神殿に響き渡る。
その瞬間、鎧が“ピカーッ”と光り、リオが目を細めた。
「うわ、反射強っ……」
ゼウスは苦笑しつつ、手を上げる。
「さて、話を戻そう――」
「その前に、お父様。今日は手土産を持ってきました!」
「ほう?」
「レモンさん、グラスを」
「かしこまりました!」
黄金の親衛隊長が慎重に注いだのは、雷のように金色に輝く液体だった。
「これは、私がアカデミーで発案した神々の飲み物。
”ゼウスビール”です」
「おお!確かに我が雷のような色だ」
ゼウスは興味深げに金色の液体を見つめる。
泡がきめ細かく立ちのぼり、神殿の光を反射して小さな稲妻のように輝いていた。
「是非、お飲みになってみてください」
ゼウスはにやりと笑い、ゆっくりとグラスを傾けた。
ひとくち……ゴクリ__。
次の瞬間、空気がびりびりと震えた。
「……っ! こ、これは……雷鳴を呑み込んだかのような衝撃!!」
彼の髭がふるふると震え、肩から淡い光が迸る。
エレニとリオは思わず後ずさった。
「わぁっ!? 床焦げてる!」
「陛下、発電は禁止ですよー!」
「はっはっはっ! これぞ神の酒だ!」
ゼウスは愉快そうに笑いながら、もう一口。
その雷気が室内にふわりと満ち、グラスの中の泡がまるで生きているように光を放った。
「エレニ、これはただの飲み物ではないな?」
「はい。ハデス様の冥界麦を使って発酵させ、雷元素の魔石で熟成を促した“雷麦酒”です。
祝賀会でストス先生が、これを応用して“天界シャンパン”を作りました」
「ほう、あの発明狂のストスか。……面白い。
わしの名を冠するにふさわしい。気に入ったぞ!」
ゼウスが高らかに宣言する。
「以後、オリンポスの晩餐には“ゼウスビール”を正式採用だ!
これは、ヴァッカスも顔負けだな!」
「おおぉぉ!!!」
レモンの歓喜で、鎧がピッカピカに光る。
「エレニ様! 神の名を冠する飲料を認可されるなど、前代未聞ですぞ!!」
「ちょ、ちょっとレモンさん、眩しい! 光漏れてます!」
「申し訳ありません! 感極まって発光してしまいました!」
――鎧の隙間からピカピカ光が漏れ、神殿の壁に“LEMON”の文字が反射した。
「……名前が投影されてる」
リオが冷静に突っ込みを入れる。
「さすが雷神の部下だな……光り方まで主君譲りとは」
アイアスがため息混じりに呟く。
エレニは、思わずアイアスと顔を見合わせた。
(……なんか、心強いような、目立つような、うるさいような……)
ゼウスは笑いながら、軽く手を振る。
「さて、冗談はここまでだ。――エレニ」
空気が一変する。
「レダのもとを訪ね、セレナの存在を確かめよ。
もし、彼女がヘラの手によって“別の魂”に改竄されているなら……」
ゼウスの目に、雷の閃光が宿る。
「その魂を浄化し、真なる姿を取り戻すのだ」
「はい」
エレニはまっすぐ頷いた。
「リオ、アイアス。お前たちも同行せよ」
「承知しました」
アイアスは落ち着いた声で応じる。
「彼女の身辺警護、そして現地調査。すべて私の指揮下で行います」
ゼウスは満足げに頷く。
「うむ。……やはり、そなたは信頼できるな、アイアス」
「恐れ入ります」
「それにしても、陛下」
リオが手を挙げる。
「“レモン隊長”は、実戦経験が豊富なのですか?」
「むろんだ!」
レモンが胸を叩く。
「我はタルタロス掃討戦にて、斧を百本投げ、一度も的を外したことがない!」
「すごい!」
エレニが感嘆する。
が、アイアスはすかさず冷静に補足した。
「……ただし、その“的”には味方も含まれていたと記録にありますが」
「ちょ、それ言わないで!」
レモンが頭を抱え、鎧がカランと鳴った。
「はっはっはっ!」
ゼウスが腹を抱えて笑う。
「いいぞいいぞ。お前たちのような若者が、神界を変えていくのだ
オリンポス会議の際は、折って連絡する。
エレニお前も来るように」
雷神の笑い声が響き、金色の光が天井に反射する。
それはまるで――新しい夜明けを告げる光のようだった。
***
謁見を終えると、三人と一人(+レモン)は神殿の外へ出た。
空は高く、雲の隙間から神々しい陽光が降り注ぐ。
「ふぅ……緊張したぁ……」
エレニが肩を回す。
「ゼウス様って、あの圧、すごいよね……」
「慣れだよ。何度か会えば、雷も避けられるようになる」
「そんな修行いらないよ!」
リオが笑う横で、レモンは堂々と歩いていた。
「はっはっは、良い日差しですな!
神々の恩寵が我らを導いておられる!」
「レモンさん、テンション高いなぁ……」
「常に全力、それが親衛隊の心構えです!」
そのやり取りに、アイアスがわずかに口角を上げた。
「……面白いな」
「え?」
「旅は長くなりそうだ。こういう空気も、悪くない」
冷静な声に、どこか柔らかい色が混じる。
エレニはふっと微笑んだ。
「うん。行こう、みんな」
風が吹く。
彼女の髪を撫で、空の光を反射させた。
こうして――
世界樹の試練を越えた三人+レモンは、次なる旅路へと歩み出す。
運命が、再び動き始めるのを感じながら。




