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64話 クロノスの手駒

 上層階――ヘラの間。

 絢爛たる調度と深紅の絨毯が敷かれ、天井近くの窓からは冷たい月光が差し込んでいる。

 その中心に鎮座するのは、王妃ヘラ。

 豪奢な王座に身を沈めた姿は、麗しくも恐ろしく、女王の威厳が室内を支配していた。


 小さな影が慌てた足取りで駆け寄る。

 妖精アルプだ。身を小さく縮め、声を震わせて報告を吐き出す。


「ハデスが、フヴェルの泉の封印を解きました。

 それにより、エレニらが試練を越え、世界樹が浄化を始めています……」


 その一報で、ヘラの表情が氷のように固まる。

 麗しい瞳に刺すような怒りが灯り、室内の空気が一瞬で冷え込んだ。


「なんですって! ハデスめ……この私を裏切るとは、愚かしい」

 ヘラが手にしていたグラスを床に投げつけると、グラスは辺り一面に砕け散った。


「まぁ、落ち着け、ヘラ」

 低くて穏やかな声。動かぬ影から声が流れ出す。

 クロノスだ__輪郭がふっと揺らぎ、時の気配が彼の周囲に纏う。


 ヘラはそちらを向き、氷の笑みを浮かべる。

「あなたは、ただ見ていただけなの? 無為にしておくなんて、情けないわ」


 クロノスはわずかに首を傾げるだけで、含みのある声を返した。

「慌てるな。私が手を出すのはこれからだ。

 私をタルタロスから連れ出した意味が、まだ分からぬかね?」

 その言葉には余裕と計算が滲んでいる。部屋の影が、ひそやかに動いた。


 ヘラの唇が薄く結ばれた。

「ふん。なら、さっさと片づけなさい。あやつらは目障りで吐き気がする」

 

 クロノスは指先で空気をなぞる。

 時の粒がふわりと舞い、微かな砂の音のような残響が残った。

 彼の目は、遠い過去と未来を同時に見ているようだ。


「この前、連れてきたあの娘を覚えているだろう?」

「……ああ、あの娘か」

「そうだ。彼女はエレニの、生まれて来られなかった双子の妹、セレナだ」


 ヘラの瞳がゆっくりと細まる。

「その娘を、どのように扱うつもり?」と尋ねると、クロノスは冷ややかに微笑した。


「レダのところへ送り込めばいい。

 姉と瓜二つの“偽物”を紛れ込ませるのだ。

 娘を信じる母の心を、内側から引き裂く」

 言葉は静かだが、その内容は残酷極まりない。ヘラの唇がゆるりと開く。


「ほう……面白い。娘を信じるが故に、裏切られる。

 絶望と孤独を与えるには最上の手段ね」


 ヘラの瞳の奥は、悪意に満ちていた。


「よかろう。彼女を送れ。あれほど似ていれば、警護の目も欺けるだろう」


 アルプが震えながらセレナ宛ての巻物を受け取る。

「すぐに手配を――」


 クロノスの口元に、淡い笑みが浮かぶ。

「時は我らに味方する。忘れるな、ヘラ。玩ぶのは簡単だ。だが、玩具はいつか牙をむく」


 ヘラはその言葉を、まるで甘い約束事のように受け止めた。

「いいわ。今すぐにでも、あの子をレダの所へ送って。

 私は、ハデスにしっかりと罰を与えなくては……」


 窓辺の月光が、二人の影を長く伸ばす。

 策略と復讐の夜は、すでに静かに動きだしていた。

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