60話 黒竜ニーズヘッグ
朝の光が、噴水の水面を淡く照らしていた。
前夜の賑やかな試飲会が嘘のように、静かで清々しい空気が広がっている。
「ジーノ、リオ、準備できた?」
呼ばれた二人は並んで立っていた……が、
ジーノの顔は少し青く、リオは目の下にうっすらクマがある。
「……おはよ、エレニ。あー……ちょっと頭がガンガンするんだよな……」
ジーノが額を押さえ、呻いた。
「昨日、“雷の香りがする!”とか言って、何杯も飲んだでしょ……」
エレニがため息をつく。
「いや、俺は二杯目までだったけど……ジーノが“試験的に”とか言って混ぜ始めて……」
リオが小さく続ける。
「えっ、俺だけのせい!?」
「半分はね」
エレニはぴしりと指を立てた。
それでも彼女の口元には小さな笑みが浮かんでいる。
「……まぁ、いいわ。二日酔いのまま転移したら、フヴェルの泉で倒れるからね。
というか、転移中に吐かないでよ……?」
「やめてくれ……冥界より怖い」
ジーノがぼやくと、リオが苦笑した。
「大事な時に、まったく~」
「面目ありません……」
エレニは小さく息を吸い込み、杖を掲げた。
その瞬間、転移陣が青白く光を放つ。
「じゃあ――行こう。“世界の根”が、また動き出す前に」
風が吹き抜ける。魔法陣の光が三人を包み込み、周囲の景色がゆらめいた。
鳥の声も、噴水の音も、遠ざかっていく。
アカデミー校舎の窓から、メティス、アテナ、アイアスが見送っていた。
「行きましたね」
アテナが静かに呟くと、隣でメティス学園長が小さく頷く。
「ええ。――彼女たちなら、きっと大丈夫でしょう」
その声には穏やかな確信と、ほんのわずかな憂いが混じっていた。
アイアスは腕を組み、転移陣が消えていく中庭を見つめる。
「しかし……あの泉には、ニーズヘッグが居ると言われています」
「ええ。それでも、行くと決めたのは――彼女自身の意思です」
メティスの瞳は、遠くを見ているように静かだった。
「まるで……私達が昔そうだったように、ですね」
アテナが微笑む。
「ええ。あの頃は、″知を求める”ことしか知らなかった。
けれど――彼女は違う。
エレニは“知るために、誰かを守りたい”と思っている」
「……強い子です」
「そして、優しすぎる子でもある」
アイアスはうなずき、重い声で続けた。
「ならば、こちらも“守る覚悟”をしておかねばな」
「守る?」
アテナが首を傾げる。
「――あの子たちが、真実に辿り着いたとき。
この学園が、世界に狙われるかもしれん」
窓の外では冬を告げる風が枝を揺らした。
薄い雲の向こう、朝日がゆっくりと昇っていく。
「けれど、それでも進むのですね」
「ええ。知を求める者に、後退の道はない」
メティスの口元に静かな笑みが浮かぶ。
「――あの子たちが戻る場所を、私たちは守りましょう」
アテナとアイアスは同時に頷いた。
学園の鐘が鳴り響く。
新しい朝の音――それは、希望とも、予兆とも言える響きだった。
* * *
エレニたちが次に目を開けたとき――
そこには、再びあのフヴェルの泉が静かに佇んでいた。
「うっぷ……忘れてた、この匂い」
ジーノが硫黄の匂いに口と鼻を塞ぐ。
「しかも、相変わらず蒸し暑い。
二日酔いには、確かにキツイですね……」
「準備していこう」
「門の奥に、黒い竜がいたね」
「うん……今回はケルベロスのようにはいかないと思うんだけど」
「確かに」
「どんな攻撃をしてくるかも、わかりませんね」
「特に、毒と呪いだけは気を付けよう」
「エレニ様、強化魔法と防御魔法をお願いします」
「オッケー!」
エレニが杖を掲げると、泉の縁から吹く風が彼女のローブを揺らした。
光の魔法陣が三人を包み込み、リオとジーノの身体に金色の薄膜がふわりと広がる。
「よし、これで最低限の防護は完了。あとは……」
リオの頬に淡い血色が戻り、ジーノも
「おお……頭のモヤが晴れた」と感嘆の声を漏らす。
泉の水面が静かに波打ち、青白い光が反射する。
その奥には、淡くゆらめく影――まるで誰かが泉の底から見上げているような感覚が走った。
「……見てる、ね」
リオが低く呟く。
「黒竜、か」
ジーノが剣の柄に手をかける。
「気配が濃い……前回よりも深いところに潜んでる」
「世界樹の循環が乱れてる証拠だね」
エレニの声は落ち着いているが、その瞳は鋭く光っていた。
「リオ、結界の安定を。ジーノは前衛をお願い」
「了解」
「任せろ」
エレニが杖を構えると、泉の底から黒い霧が奔り、巨大な翼を持つ影へと形を変えていく――。
水面が静かに揺れ、青白い光が反射する。
しかし、その穏やかさは長くは続かなかった。
ぽつり、と水面の奥で黒い泡が弾ける。
リオが息を飲む。
「……見ろ、あれは……」
ジーノも剣の柄に手をかけ、泉の奥を睨む。
黒く濁った水の中、影がゆっくりと形を取り始めた。
巨大な翼、鋭い爪、夜の闇を凝縮したような鱗……。
「黒竜……フヴェルの守護者……!」
エレニが杖をしっかり握る。
その瞳は、ただの敵ではないことを告げていた。
黒竜の体は徐々に泉の上に浮かび、低く唸る。
鱗の一枚一枚が夜よりも深い黒で光を吸い込む。
「我の眠りを妨げる者よ……」
翼が大きく広がり、泉の水面が激しく波立つ。
「ここがどこか、我が何者かを知っての所業か?」
黒竜の影が泉の上空で揺れ、その瞳は冷たく光った。
ニーズヘッグの瞳が赤く光り、翼を大きく振りかぶる。
泉の水面に衝撃波が広がり、三人に暗黒の霧が押し寄せる。
「前方、突進してくる!」
ジーノが短剣と剣を握り直し、低く身を構える。
黒竜の爪が水面を蹴り、衝撃波が三人に襲いかかる。
(飛行が速い!!)
「エレニ、魔法陣!」
リオがレイピアを構え、横からの突きで援護の構えを取る。
エレニは杖を掲げ、光の魔法陣を展開。
「防御は私に任せて!」
衝撃波が光の膜に弾かれ、ジーノとリオを直撃から守る。
ジーノは素早く前に飛び込み、短剣で黒竜の翼の隙間を狙う。
「よし、隙を作る!」
刃が鱗にかすかに触れ、黒竜が低く唸る。
「リオ、こっちだ!」
リオのレイピアが翼の根元をかすめ、黒竜の体勢をわずかに崩す。
「私も援護する!」
エレニが杖から雷の矢を泉の上空に放つ。
雷が黒竜の頭上で爆ぜ、翼を押し戻す。
黒竜は怒りに満ちた咆哮をあげ、尾を振り回す。
ジーノは跳び退き、リオは踏ん張って体勢を立て直す。
しかし、光の魔法陣が全てを吸収し、致命傷を防いでいた。
泉や周りの岩場からは、蒸気の飛沫が上がる。
(この暑さでは、長期戦だと体力が持たない……)
「まだ序の口……!」
黒竜の瞳が赤く光る。翼が大きく広がり、泉の水面に黒い影が揺れる。
炎、衝撃波、尾の一撃――すべてが三人を試す攻撃だ。
「ジーノ、左から来る!」
「任せろ!」
リオは距離を取りつつ、レイピアで黒竜の背後を狙う。
「来る!!」
ジーノが前に出ようとした刹那――
黒竜の尾が、弧を描いて一気に振り抜かれた。
「――ッ!」
重い衝撃音が響き、ジーノの身体が横へ吹き飛ぶ。
岩に叩きつけられ、息が詰まる。
「ジーノ!!」
リオが駆け寄ろうとするが、黒い炎が足元から噴きあがった。
「ッ……熱っ……!」
リオは咄嗟にレイピアで受け流したが、炎の余波が腕を焼き、皮膚が赤くただれていく。
「くっ……がっ……!」
腕の感覚が鈍り、剣の重さが倍になったように感じた。
エレニはすぐに仲間の異変に気づき、叫ぶ。
「二人とも下がって!! 防御、展開!」
光の魔法陣が三重に広がり、黒竜の追撃が弾かれた。
リオは必死に息を整えるが、腕はまだ震えている。
ジーノは脇腹を押さえながら、血を拭うように立ち上がった。
「……大丈夫……じゃ、ねぇな……」
ジーノはいつになく苦しげに笑い、歯を食いしばる。
「無茶しないで!」
エレニが癒しの光を送るも、傷そのものは治しきれない。
それでもジーノは、剣を拾い上げた。
「まだ……やるぞ……! あいつ、動きが読めてきた……!」
リオも震える腕でレイピアを構え、唇を噛む。
「僕だって……役に立つ……!」
二人の覚悟に、エレニの胸が熱くなる。
「……わかった。
絶対、誰もここで倒れない!」
その瞬間――黒竜の瞳に、ほんの僅かに興味と評価の色が宿った。
「小さき者よ……その覚悟、見せてもらう……!」
エレニが杖を頭上に掲げると、
水面に、雷魔法の紋章が眩い光を放ち、三つの魔法陣が頭上に重なる。
回っている魔法陣の歯車がはまり、光が黒竜の頭上を貫く。
泉全体に眩い閃光が走り、蒸気が爆ぜ、空気が焼ける。
――やがて、黒竜は翼を止め、戦いが静まり返る。
「小さき者たちよ……」
黒竜の声には怒りではなく、評価の響きが含まれていた。
翼を広げたまま静止し、三人を見下ろす。
「我が試練に耐え、力を合わせて立ち向かうとは……」
その瞳がやわらかく光り、闇の中に一条の明かりが差し込むようだった。
泉の水面は穏やかになり、黒い霧も静まった。
「そなたたちの覚悟、力、そして心――
すべてを認めよう。お主らの名を申せ」
「私の名は、エレニ。ゼウス様とレダ様の間に生まれた子よ」
「私は、ケット・シーのリオです」
「俺は、ジーノ」
「よかろう……」
黒竜は深く息を吐き、静かに翼をたたむ。
「……我が行いを、恥じるべきかもしれぬな」
その声には、先ほどまでの威圧はなく、どこか渋い困惑が混じっている。
「え……?」
リオが首を傾げ、ジーノも剣を下ろしかけた。
「実は――我、世界樹の根をかじっていた」
ニーズヘッグの言葉に、泉の上の空気が一瞬止まる。
「……かじってた、って?」
エレニが杖を下ろし、眉をひそめる。
「うむ。ヘラに与えられた果実を食べてから、歯がかゆくなったのだ」
黒竜は少し恥ずかしそうに頭を垂れた。
「それで、どうしようもなくて……つい、世界樹の根に手を伸ばしてしまったと」
「……ああ……だから、世界樹が枯れかけていたのか……」
リオが理解を示すように小さく息を吐いた。
「エレニ、竜の歯なんて治せるの?」
ジーノがまだ半信半疑で訊ねる。
「わかんない。でも治癒魔法で試すしかないよ」
エレニは杖を構え、ニーズヘッグの口に向かって淡い光を放った。
――魔法が届くと、黒竜は軽く目を閉じ、歯を見せる。
光の矢が口腔内を巡り、じわりと温かい感覚が広がる。
「おお……!」
ニーズヘッグが驚きの声を上げる。
「すごいぞ!歯のかゆみが……なくなったぞ!」
「よかった! これでもう、世界樹の根をかじったりはしないでね!」
エレニの声に、リオとジーノも安堵の笑みを浮かべる。
「……ふむ、そなたたちの力、そして心も認めよう」
黒竜の瞳が柔らかく光る。
「我が試練は、これにて完了だ。
この先にある泉の神殿へ進め。スクルドはその奥におる」
泉の上空に漂う緊張がふっと解け、三人は互いに小さく頷き合う。
ジーノとリオの怪我も、エレニは癒しの魔法で改めて治療した。
「戦闘中に、癒し魔法って難しいを痛感したわ」
「次の課題ですね」
「さぁ……行こう」
ジーノの声に、エレニとリオも力強く応えた。
泉の水面は再び静かになり、闇の霧も消え去った。
三人は互いに息を整えながら、次の神殿――スクルドがいる場所へ進む決意を固める。




