58話 神々のビール
エレニは、ストス先生の魔道具工房に来ていた。
「先生、いま少しいいですか?」
実験棟の奥で魔導器の調整をしていたストスが、振り返った。
焔色のレンズに反射した光が、金属の壁に柔らかく跳ねる。
「おお、エレニか。ずいぶん忙しいようだな」
「はい。世界樹の調査が始まってから、なかなか落ち着けなくて……」
「無理をするなよ。今回の件はヘラが絡んでいる。お前に余計な重荷を背負わせたくない」
その声には、戦友を気遣うような温かさがあった。
エレニは軽く会釈し、笑みを返す。
「ありがとうございます、ストス先生」
「私は、ヘラからは理不尽な仕打ちしか受けておらん。
何かあれば、全面的に協力するから遠慮なく言いなさい」
「はい。……実は、そのことで少しご相談があって」
「ほう、何だ?」
ストスの瞳が楽しげに細まる。
エレニは胸元から小さなメモを取り出した。
「恐らく近いうちにゼウス様に謁見すると思うんです。そのときに手土産をお持ちしようと思って……」
「手土産? ……ほう、そういえばこの前のお前の“果実ソーダ”は大好評だったな」
「はい。なので、それを応用して――お酒を作ろうかと」
「おおっ、それは面白い!」
ストスが身を乗り出した。
目を丸くし、笑い声が響く。
「ワシも試してみたいぞ!」
「あはは……ストス先生もお酒好きなんですね」
「酒が嫌いな神などおらん! で、どんな酒を作るつもりだ?」
「麦と砂糖、ホップと水を使って……発酵させてお酒にするんです。
果物を使わず、穀物から香りを引き出す方法で」
「ふむ……果実以外で酒を造るとは、興味深い。
穀物の魂を液体に変える……それは錬成に近いな」
ストスは顎に手を当て、棚の奥を探り始めた。
「どれどれ、それなら――この“蒸留壺”を使うといいかもしれん」
彼が取り出したのは、銀色の魔導装置だった。
複雑な管が絡み、淡く蒼い魔力光が脈打っている。
「温度と魔力の流れを細かく制御できる。
香りの精を逃さずに抽出できる優れものだ」
「すごい……これ、先生が作られたんですか?」
「うむ。もとは薬草の精製用だったが、酒にも応用できるだろう。
“神々の蒸留器”――とでも名付けておくか」
エレニは目を輝かせながら装置を受け取った。
「ありがとうございます、先生。完成したら、最初の一杯は先生に」
「おお、それは楽しみだ!」
ストスが朗らかに笑い、作業台に戻る。
窓の外では、夕陽がアカデミーの塔を黄金に染めていた。
その光の中で、二人の影が穏やかに重なる。
――世界の理を巡る戦いのただ中にあっても、
知と創造の火は、静かに燃え続けていた。
* * *
夜のアカデミー。
実験棟の灯りが、静かな闇の中でひとつだけ灯っていた。
エレニは白衣の袖をまくり、銅色の蒸留壺の前に立つ。
ストス先生から借りた〈神々の蒸留器〉は、淡い青光を脈打ちながら呼吸しているようだった。
「よし……温度、魔力流、安定」
手元の魔力制御盤に指を滑らせると、
装置の中で黄金色の液体がゆっくりと泡立ち始める。
麦を砕いた香ばしい匂いが、夜気に広がった。
そこに砂糖の甘い香りと、ホップのほろ苦い芳香が重なる。
蒸気が魔力の光を帯びて立ちのぼり、
まるで小さな星々が浮かぶように、空中で煌めいた。
「……この香り、悪くない」
エレニはメモ帳に走り書きをする。
“初期発酵:安定。魔力値3.2。香気、甘やか。心拍上昇。”
彼女はくすりと笑った。
「ストス先生に見せたら、きっと『神気蒸留』とか言うんだろうな」
そう呟きながら、そっと瓶のひとつを手に取る。
そこには、ほんのわずかに淡い光を帯びた液体――
「……まるで、ゼウス様の祝福みたい」
エレニは、胸の前で手を合わせる。
「ゼウス様、ハデス様、ペルセポネ様……
このお酒が、争いではなく“繋がり”を生むものでありますように」
魔力が共鳴し、瓶の中の光が一瞬、静かに瞬いた。
まるで祈りに応えるように。
ふと窓の外を見れば、夜空に世界樹の影が淡く浮かんでいる。
枝先はまだ白く枯れているけれど――
その根の奥で、何かが少しずつ息を吹き返しているように見えた。
「きっと、大丈夫」
エレニは微笑み、小さく頷く。
試験管を並べ、温度計を確認し、最後の一滴を蒸留壺に注ぐ。
透明な雫が落ちるたび、カン、と澄んだ音が響く。
――音が止むと、部屋の中には静寂が戻った。
だがその沈黙は、完成を告げる静けさだった。
「できた……」
エレニは瓶を掲げた。
光の中に、星々のような微粒子が揺れている。
「“神々のビール”、試作一号――完成」
その声は夜気に溶け、
アカデミーの塔の上を通って、空へと昇っていった。




