56話 冥界の一夜
湯上がりの風は、冥界にしては柔らかかった。
温泉から上がった一行は、神殿の裏庭――“魂の庭”と呼ばれる場所へ向かう。
そこは夜空と地が反転したような光景だった。
地面の代わりに薄い水鏡が広がり、蛍石の光がそのまま足元に映り込む。
上も下も、どこまでも闇と光。
その中心に、静かな灯火がいくつも揺れている。
「わぁ……まるで宇宙を歩いてるみたい」
エレニが小さく息を呑む。
「ここは“星々の影”の庭。魂が安らぐための場所よ」
メリノエがそっと答えた。
マカリアは笑みを浮かべ、光る水面に指を触れる。
「温泉のあと、ここに来るのが私たちの日課なの」
男湯から出てきたリオとジーノもやって来る。
二人とも髪からまだ湯気を立てながら、気恥ずかしそうに合流した。
「そっちはどうだった?」
「最高だったよ。魂まで温まった気がする」
「うん!すっごく分かる!」
マカリアがくすくすと笑い、冥界の静寂に小さな音が響く。
その笑い声に、ハデスとペルセポネも遠くから目を細めていた。
――娘達が冥界に生まれて以来、ここまで明るい声が響いたのは久しい。
しばし沈黙が流れる。
空と地の境が溶けるような静けさの中、エレニがふと呟く。
「……ねぇ、冥界って、怖いところだと思ってた。
でも今日、少し違うって思った」
リオが隣で頷く。
「死の国っていうより……“静かな命の国”って感じですね」
メリノエがゆっくり微笑む。
「それは、嬉しい言葉ね。
死は終わりじゃない。魂が次へ進むための“夜”なのよ」
「“夜”か……じゃあ、いつかまた“朝”が来るんだね」
エレニが上を見上げる。
闇の中、冥界上部で蛍石が静かに瞬く。
「そう。すべての魂に“朝”は訪れる。
その約束があるからこそ、私たちはここで見送るの」
ペルセポネが優しく言った。
風が一筋、魂の庭を渡る。
青白い光がひときわ強く瞬き、誰かの笑い声が遠くで響いた。
エレニはその光景を、胸の奥に刻みつけるように目を閉じた。
――恐怖ではなく、静かな安らぎを携えた“冥界の夜”。
そして、また一つ、彼女の中で「世界のかたち」が少し変わった。
皆がそれぞれの部屋へと戻り、神殿が静寂に包まれたころ。
エレニだけが眠れずにいた。
廊下を抜け、ひとり中庭へ出る。
冥界の空は、夜でもわずかに青い。
それは“生と死の境界の光”――
消えぬ月の代わりに、魂の流れが天に瞬いているのだ。
水鏡のほとりで立ち尽くしていると、背後からやわらかな声がした。
「眠れないのね」
振り返ると、ペルセポネがそこにいた。
薄衣を羽織り、手には灯火の壺。
その光は、まるで優しい花のように淡く揺れていた。
「はい……少し、考え事をしていました」
「ふふ、エレニさんらしいわね」
ペルセポネはそっと隣に立つ。
ふたりの足元を、灯火の光が水面に映していた。
「……ペルセポネ様は、怖くなかったのですか?」
「何が?」
「冥界に来ることです。生まれ育った場所を離れて……」
ペルセポネは微笑んだ。
「ええ、最初は怖かったわ。
けれどね、ハデスが差し出した手は、思ったよりも優しくて温かったの。
あの人は、ただ不器用で、誰よりも“孤独”を知っているのよ」
エレニは黙ってその横顔を見つめる。
ペルセポネの瞳には、冥界の光が静かに映っていた。
「冥界は、死の国ではあるけれど……“終わり”ではないんですね」
「そう。ここは“記憶の庭”なの。
人々の悲しみや想いが、形を変えてこの地に眠っている。
だから、優しくしてあげないといけないの。
恐れではなく、慈しみで包んであげるのよ」
「……すごい。冥界を含めこの世界には、私が知らないところが沢山あります」
「神々も、恐れを抱くのよ。
でもあなたは、それを知ろうとしてくれる。
――だから、私たちもあなたを歓迎するの」
ペルセポネは小さく笑うと、手を伸ばしてエレニの髪を撫でた。
「あなたの瞳は、春の始まりの色ね。
いつか、その光がこの冥界にも春を連れてきてくれる気がするわ」
エレニは頬を赤らめ、うつむいた。
「……そんな、大げさですよ」
「いいえ、真実よ。冥界の春はね、“ひとつの勇気”から始まるの」
夜風が二人の髪を揺らす。
その風の中に、ほんのかすかな桜の香が混じった気がした。
灯火の光がゆっくりと消えゆく。
ペルセポネはその壺を水面に浮かべた。
淡い光が流れ、蛍石の光りの群れへと溶けていく。
「これは、あなたの夢のための灯よ。
どんなに深い闇でも、思い出せば必ずここに帰って来られる」
エレニは小さく頷き、両手を胸に当てた。
「……ありがとうございます、ペルセポネ様」
「さあ、もう遅いわ。
春の娘は、ちゃんと眠らなければならないの」
その言葉に、エレニは微笑んで頭を下げた。
冥界の夜は、静かに、そして優しく二人を包んでいた。
* * *
冥界の空が、わずかに白み始めていた。
それは地上の夜明けとは異なる――
光ではなく、影が静かに薄れていくような“冥府の朝”だった。
神殿の最上階、黒曜の回廊にひとりの影が立つ。
ハデス。
玉座を離れた王は、冥界を見下ろしていた。
眼下には、無数の魂の灯が点々と揺れ、
まるで星々が地に落ちて眠っているかのようだった。
「……静かだな」
その声は、深い闇に吸い込まれる。
冥界の王にとって、静寂は安らぎであり、また罰でもある。
かつて、彼が求めたのは“支配”ではなかった。
秩序と、安らぎ。
だが今、その秩序はヘラの策により、崩れ始めている。
クロノスは解き放たれ、世界樹は枯れかけ、
魂の流れさえも歪みつつある。
彼はゆっくりと目を閉じた。
「……私は、恐れていたのだな」
その呟きは、誰にも聞こえない。
ただ、冥界の風だけが応えるように低く唸った。
愛する者を失う恐れ。
王の座を奪われる恐れ。
そして――“神でありながら無力である”という恐れ。
ハデスは拳を握る。
闇の中、その手に小さな青い光が灯った。
それは、フヴェルの泉の封印に使った魔印――
今もなお、彼の力を縛る鎖だった。
だが、ペルセポネの言葉が、胸の奥に静かに響く。
――「正しいことを、なさってください」
ハデスはゆっくりと掌を開き、その魔印を見つめた。
闇の王の瞳に、わずかな決意の光が宿る。
「……そうだ。冥界の王が、恐れに屈してどうする」
彼は片膝をつき、静かに呪文を紡ぐ。
黒き風が回廊を巡り、魔印が淡い光を放つ。
「――“束縛を解け、我が名において”。」
瞬間、青い鎖が砕け散り、影の中に消えた。
フヴェルの泉に施された封印は解かれた。
冥界の風が一度だけ強く吹き抜ける。
それは、長く沈黙していた王が再び動き出す合図だった。
ハデスは立ち上がり、遠くの地平を見つめた。
そこでは、冥界の薄明かりが静かに広がっていく。
「――ヘラ、そしてクロノス。
この冥界を再び闇に沈めることは、誰にも許さぬ。」
その言葉は誓いとなり、冥界全体に静かに響いた。
暗黒の王は、再び立ち上がる。
ペルセポネの愛と娘たちの信頼を背に――
今度こそ、正しき闇として、世界を守るために。




