52話 ムネモシュネの泉
冥界の中でも穏やかで明るい空が広がる領域。
地上に比べれば霞がかっているものの、
ここには春のような風が吹いていた。
五人は、三判官の庁舎を後にし、神殿へと続く石畳の道を歩いていた。
遠くには白い建物が並び、緑の丘がゆるやかに続く。
冥界とは思えないほど、柔らかな景色だ。
「……本当に冥界なんですか?」
リオが小声でつぶやくと、マカリアがくすっと笑った。
「ちょっと、冥界に偏見持ちすぎ!
エリュシオン層は“善き魂が眠る場所”なの。
お父様だって、ここにいるときはご機嫌だし、
私たちのお家もここにあるのよ」
「ご機嫌って……神様なのに?」
「神様だって気分はあるのよ~。
特にお父様はワインを出すと笑うから、分かりやすいの」
「えっ、冥界で酔っぱらうのですか?」
「うん、たまにね。人には見せられないけど可愛いのよ」
「……ちょっと見てみたい気がします」
「ダメに決まってるでしょ」
メリノエが軽くジト目を向け、リオは慌てて咳払いをした。
そんな会話をしながら歩いていると、やがて風の向こうに、
白い木々が見えてくる。
群青の空の下、まるで月光を浴びているかのように、
一本のイトスギが輝いていた。
「ほら、あれが目印。ムネモシュネの泉は、あの木の根元にあるの」
「白い……本当に真っ白だ」
「でしょ? 夜になると光るんだよ。迷子防止にも便利なんだから」
「神聖な木を“便利”って言ったの、あなたくらいだと思う……」
「だって実用性大事でしょ?」
マカリアがケロッとしている。メリノエが苦笑した。
神殿の庭園を抜けると、空気が少しひんやりと変わる。
そこには静かな泉があり、水面は鏡のように澄んでいた。
周囲には銀色の花々が咲き、
風が通るたび、微かな鈴の音のような響きが流れる。
「……ここが、ムネモシュネの泉」
メリノエが小声で告げた。
「レテの川が“忘却の水”なら、ムネモシュネは“想起の水”。
過去を、真実を、記憶を取り戻すための泉よ」
「飲めば……俺の記憶、戻るんだよな」
ジーノが泉を見つめながらつぶやく。
「そう。でも、順番を間違えると“全ての記憶”が戻っちゃうから注意ね」
「え、全て?」
「うん。前世とか、黒歴史とか、おねしょした記憶とかも」
「……やめて、その最後の例え」
「つまり、“思い出せばいいことばかりじゃない”ってことよ」
メリノエは肩をすくめ、けれどその表情は少しだけ優しかった。
マカリアがそっと彼の肩に手を置いた。
「唱える時はね、胸の奥で“自分を思い出す”ように願うの。
泉は言葉だけじゃなく、気持ちを聞いてるから」
「気持ちを聞く泉って……すごいな」
「まぁ、聞き上手な泉よ。恋の悩みも聞いてくれるし」
「え、マカリア、それ本当?」
「嘘」
「即答!?」
エレニが吹き出し、泉の水面が小さく波紋を描いた。
その静けさの中で、ジーノは深く息を吸い込む。
胸の奥にまだ残る空白。失われた何かの形を、手探りで探すように。
彼は泉の前に膝をつき、手のひらを水面にそっと伸ばした。
冷たく、しかし心地よい感触が伝わる。
マカリアがジーノに囁く。
「私が言う言葉と同じように、泉に語り掛けて」
そして、二人はゆっくりと口を開く。
「――私は大地と星空の子。喉が渇いた、ムネモシュネの泉よ、
私に、記憶を取り戻す水をください」
言葉が、静寂の中で響いた。
淡く青白い光が泉の水面から立ち上り、銀の波紋がゆっくりと広がっていく。
メリノエとマカリアが目を見合わせる。
風が、白いイトスギの葉を揺らした。
「……始まったわね」
「うん。ちゃんと、届いたみたい」
エレニたちは黙ってその光景を見つめた。
水面から立ちのぼる光は、やがて柔らかな風となってジーノを包み込む。
それはまるで、冥界そのものが彼に「おかえり」と囁いているようだった。




