50話 レテの川
ケルベロスの部屋を抜けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
冷たい岩の回廊を抜けた先――視界いっぱいに、白い花々が風に揺れている。
どこまでも柔らかな光が漂い、空気は甘く澄んでいた。
薄靄の中で、花弁の一枚一枚が淡い光を反射して輝く。
「……なんだか、冥界っぽくないね」
ジーノが目を瞬かせながら呟く。
「冥界にも花が咲くんですね」
リオが小さく笑った。
「“アスフォデロスの野”だよ。ほら、前にお土産で渡したクッキー、覚えてる?」
「えっ、あの白い花の形の!」
「そう。それ、ここの花がモチーフなの。優しい香りでしょ?」
風がそっと頬を撫で、どこか懐かしい匂いを運んできた。
白い花々の間を、小川が静かに流れている。水面には、散った花びらがゆらゆらと揺れ、青い空の代わりに灰銀の光を映していた。
「……冥界って、こんなに広いんだな」
「地上と同じくらいの広さがあるもの」
メリノエが、どこか得意げに言う。
「マジかよ……」
「それに、ここはほんの一部。冥界には層がたくさんあるんだよ」
「ちょっと休憩しようか」
ジーノが荷物を下ろし、パンの包みを取り出した。
「ほら、いっぱい持ってきたんだ」
「ナイス。お腹すいたところだった!」
笑い合いながら、彼らは川辺に腰を下ろした。
澄んだ水の向こうで、小さな光の粒が舞っている。
よく見ると、それは精霊たちだった。人の形をしているようでしていない、あやふやな輪郭をした存在。彼らは笑い声のような音を立てながら、水面で跳ねている。
「……思ってた冥界と、全然違うなぁ」
「どんなの想像してたの?」
「針の山とか、血の池とか……」
「ひどっ! 何それ!」
「そんな残酷なとこ、聞いたこと無いよ~」
マカリアがあきれたように笑う。
(……全くもって、いらない前世の記憶だった……)
エレニは心の中で苦笑した。
穏やかな時間が流れる。花々の間を抜ける風は優しく、川のせせらぎが心を洗うようだった。
――その時、エレニがふと首をかしげた。
「あれ? ジーノは?」
周りを見回すと、川の向こう岸にジーノの姿が見えた。
彼は精霊たちに囲まれ、何かを差し出されている。
「あ、水をもらってるみたいだよ」
その言葉を聞いた瞬間、マカリアの顔色が真っ青になった。
「だ、ダメっ!! その水、飲んじゃダメーーーー!!!」
彼女の叫びが野原に響くよりも早く――
ジーノは、差し出された水を口に含み、喉を鳴らして飲み干していた。
時間が一瞬止まったような感覚。
「しまった……!」
マカリアが走り出す。
リオが焦りながら問う。「どういうこと!?」
「“レテの川”の水だよ!」マカリアが振り返りざまに叫ぶ。
「死者だけが飲める水なの! 飲むと、記憶を全部失うの!!」
リオの表情が凍る。
「じゃあ、ジーノの記憶が……」
メリノエが静かに頷いた。
マカリアは川辺に膝をつき、ジーノの肩を掴んだ。
「ジーノ! しっかりして!」
けれど、彼の目はどこか焦点が合っていない。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がり、皆を不思議そうに見回した。
「……君たち、だれ? ジーノって……俺のこと?」
その言葉に、風の音すら止んだように感じた。
マカリアの手が震え、口を抑え涙が溢れる。
エレニが唇を噛み、言葉を探すように息を整える。
「……そう。あなたがジーノ。私たちは……あなたの仲間」
彼女の声は震えていたが、どこか優しかった。
「私はエレニ。あなたの幼馴染」
「私はリオ。同じく幼馴染で、アカデミーではルームメイトですよ」
「私はメリノエ。こっちは妹のマカリア。みんな、あなたの友達だから」
ジーノは戸惑いながらも、小さく頷く。
「……ありがとう。でも……頭の中が、真っ白で……」
「大丈夫。思い出せなくても、私たちが覚えてる」
リオが笑って見せる。その笑顔が少しだけ痛々しかった。
さっきまでパンを頬張って笑っていたジーノが、今はまるで別人のように静かだ。
冥界の風が、白い花を揺らす音だけを残して通り過ぎていった。
「……まるで、魂ごと入れ替わったみたいですね」
「記憶を失うって、それくらいのことなんだよ」
エレニが小さく答える。
沈黙の中で、メリノエがふと顔を上げた。
「でも、まだ希望はあるわ。“ムネモシュネ様の泉”を飲めば、記憶は戻るはず」
「場所は?」
「私たちの神殿の左隣にあるの。白いイトスギが目印」
「よかった……。もし何も手段がなかったらと思うと……」
「ね。トラブルがないのが一番だけど」
マカリアが苦笑し、まだ少し涙の残る目でジーノを見つめた。
彼はその視線を受け止めるように、小さく笑う。
「……なんでだろ。初めて会った気がしない」
その一言に、マカリアの肩の力が抜けた。
「それは……きっと、心が覚えてるからだよ」
風が吹き抜け、白い花々がざわめく。
彼らは再び立ち上がり、黒曜石のように光る建物――“三判官の庁舎”へと歩き出した。
静寂の冥界に、五つの影がゆっくりと伸びていく。
その先に、記憶を取り戻す希望と、試練の続きを待つ世界があることを信じて。




