49話 オルトロスの兄弟ケルベロス
冥界の門は、まるで生きているかのように低く唸りを上げていた。
黒曜石のような扉の表面を、青い魔力の稲妻が這う。
その音が空気を震わせ、足元の岩盤までもが微かに鳴動した。
「……やっぱ、ただの門じゃないな」
ジーノが息を呑む。
門の前には――三つの影。
闇よりも黒く、冷たい空気をまといながら、息を潜めるように動かない。
それは犬の形をしていた。だが、その存在感は“獣”を越えていた。
鋭い爪、燃えるような瞳、そして三つ首。
魂そのものを見透かすような気配。
メリノエが静かに杖を掲げ、青白い光を灯す。
その瞬間、三つの頭がゆっくりと動き出した。
ギリギリ、と岩が軋む音が響く。
次の瞬間、冥界の空気が震えた。
三つの瞳が同時に開く。赤、青、そして黄金。
その輝きはまるで、炎と氷と雷の化身のようだった。
「――ケルベロス。」
マカリアが低く呟く。
「冥界の番犬。オルトロスの兄弟であり、父が造りし門の守護者よ」
三つの喉が一斉に唸り、洞窟全体が震えた。
低く、重く、骨の芯まで響く音――まるで大地の咆哮だった。
「……やば、あれ本物?」
「本物だね。たぶん、近づいたら一口で終わるやつ」
エレニが顔を引きつらせながら呟くと、ジーノが笑う。
「マカリア、これペットでしょ? 一応、鎖で繋がれてるし……それなら……」
「ムリムリ! あれ、お父様にしか懐いてないの」
その言葉に、ジーノが「ですよねぇ……」と苦笑した。
だが次の瞬間――
エレニが何かを思い出したように、ぱっと顔を上げた。
「そうだ!」
「えっ、何か妙案でも?」とリオ。
「ケルベロスって、確か……竪琴の音で眠るんじゃなかった?」
「竪琴……?」
「うん……でも今、修理中なんだよね……」
申し訳なさそうな顔をしながらマカリアがつぶやく。
「修理中!?」
エレニは少し考え込み――アイテムバッグをゴソゴソして取り出す。
「それなら……“芥子の実入りハチミツクッキー”!!」
某猫型ロボットのようなテンションで言い放つ。
その場が、一瞬静まり返った。
メリノエとマカリアとジーノが、そろってきょとんとした顔をする。
「……たぶん、そのネタ、わかるの私だけです」
リオが小声でぼそっと呟いた。
エレニは咳払いして誤魔化す。
「こ、これね。ケルベロス、甘いものが好きらしいから……」
「確かに、大好物だよ!」とメリノエが驚いたように言う。
「竪琴といい、よく知ってるね?」
「あー……(やばっ、前世の記憶って言えない)……その、図書館で読んだの!」
「よし、行こう……」
「行こうって、まさか――!」
仲間たちの制止も聞かず、エレニは小袋を取り出した。
中には、金色の粒が散らばった香ばしいクッキー。
「ケルケル~……クッキーだよ~?」
柔らかな声で呼びかけながら、魔力でクッキーをふわりと浮かせる。
それを、ケルベロスの鼻先にゆっくりと近づけていった。
三つの頭が、ぴたりと動きを止める。
赤い瞳がじろりとエレニを見据え、青い瞳がクッキーを追い、
黄金の瞳が、まるで子犬のように鼻を鳴らした。
――クンクン。
鼻をひくつかせ、巨大な頭が近づいてくる。
魔獣の息が熱風のように吹きかかり、髪が揺れた。
「……うわ、近っ」
「エレニ、やっぱ無理なんじゃ……」とリオが小声で言いかけたその瞬間――
ケルベロスの尻尾(竜の頭が付いたそれ)が、ぶんぶんと振れ始めた。
「お、おすわり……!」
思わず叫ぶエレニ。
――ドスンッ。
三つの頭が一斉に揃って座った。
目を丸くする一同。
「伏せ!」
続けざまに言うと、ケルベロスは尻尾を振ったまま、ゆっくりと伏せの姿勢に。
洞窟が振動し、細かい砂が舞い上がった。
「よしよし~」
エレニが魔力でクッキーを下ろすと、三つの頭が仲良くクッキーをパクリと食べた。
――もぐもぐ。
冥界の番犬とは思えないほど、ご機嫌で尻尾をパタパタさせている。
「……なにこれ、かわいいんだけど」
「いや、怖いけど……可愛い……?」
ジーノとマカリアが思わず笑う。
「よし! 今のうちに行こう!」
「ちょ、ちょっと待って、どうやって通るの?」
「クッキーに夢中なうちに!」
エレニがウインクする。
ケルベロスは三つの口をクッキーで塞がれたまま、ご満悦に転がっている。
「戦わずに済んで良かった……」
リオが安堵の息をつく。
「争いに来たわけじゃないし。オルトロスを倒したときも思ったけど、冥界の守りが全部消えたらそれはそれで大変だからね」
「それもそうだな」
メリノエが微笑む。
「ケルベロスは賢い子よ。冥界の秩序を乱さない者を見抜くの。
でも、お父様以外に懐く人がいるなんて思ってもみなかった!」
エレニは、尻尾を振るケルベロスを一瞥してから、冥界の門へと視線を戻した。
黒い扉が、音もなくゆっくりと開いていく。
その奥から吹きつける冷たい風が、頬を撫でた。
(……可愛いけど、また来る時はもう少し多めにクッキー持ってこよ)
そう心の中でつぶやきながら、エレニは一歩を踏み出した。
ケルベロスの三つの瞳が、穏やかに彼女を見送っていた。




