43話 タルタロス潜入 ― 崩れゆく世界樹の根
メリノエとマカリアを運んだ転移の光が消えると、そこは――淡い灰色の野原だった。
霞のような光が地を這い、遠くでは白い花が風に揺れている。
冥界の中間層、《アスフォデロスの野》。
生前、善でも悪でもなかった者たちが静かに眠る場所だ。
「……ここは、アスフォデロスの野かぁ」
メリノエが目を細める。
空気はひんやりしているのに、どこか懐かしい温度があった。
「さすがに、タルタロスには直接行けないか~」
マカリアが苦笑して肩をすくめる。
「アスフォデロスに来れただけでもラッキーだよ。
私たちは冥界出身だから転移できたけど、他のみんなは冥界の門からじゃないと入れないもの」
「そうだったね……」
メリノエが頷くと、マカリアはすでに前方を見つめていた。
「さ、行こう。早くしないと冥王の検問に引っかかっちゃう」
「ねぇねぇ、その前に“アンダーヴェイル”に寄ってお菓子買えないかな~?」
「また?この前も山ほど買ってたじゃない」
「だってあそこの“闇チョコ”美味しいんだもん!」
「……あんまり食べると太るよ? 冥界でも脂肪は消えないんだからね」
「ひどい~!」
二人の笑い声が、灰色の風の中に溶けていった。
やがて遠くに、黒曜石のような建物が見えてくる。
「あそこ! 三判官の庁舎だよ!」
入口には、長い列を作る亡者たちが静かに並んでいた。
誰も話さず、ただ順番を待つその姿は、まるで時間そのものが止まっているかのようだった。
二人は列の脇を抜け、受付へと進む。
「こんにちは! 私たち、ビフレスト・アカデミーから来ました。
タルタロスに行きたいんですが……」
黒衣の受付官が顔を上げる。
その瞳の奥には、わずかな緊張が走った。
「こんにちは、メリノエ様、マカリア様。……本当にタルタロスへ行かれるのですか?」
「はい。どうしても世界樹の根の最下部まで行かないと」
「アカデミーとペルセポネ様から話は通っております。ですが――」
「どうかしたんですか?」
「……実は、タルタロスで“脱獄”がありまして。
今は厳重警戒中です。かなり危険かもしれません。
――くれぐれもお気をつけください」
「脱獄!?」
二人の声が重なった。
「誰が逃げたんですか?」
「……クロノスです」
その名が落ちた瞬間、空気が凍った。
「クロノスって……あの“時の神”の!?」
マカリアの顔が青ざめる。
「ゼウス様に封印されたはずの……」
メリノエが息を呑む。
「ってことは……この前の“時間のいたずら”、やっぱり……」
「うん。犯人は、クロノスで間違いない」
二人は顔を見合わせ、短く頷いた。
受付官に深く礼をして、通行許可証を受け取る。
「ありがとうございます。……必ず、気をつけます」
扉を出た瞬間、冷たい風が頬を打った。
アスフォデロスの花々がざわめき、どこか遠くで鐘のような音が響く。
「……行こう、マカリア」
「うん。タルタロスの奥に、きっと“答え”がある」
二人の少女は、灰色の野を抜け――冥界最深の闇へと歩みを進めた。
アスフォデロスの野を抜けると、空気が一変した。
空は黒く、地は赤く脈動している。
――そこが、神々の罪人が幽閉される最深牢獄。
「うわぁ……ここ、何度来てもゾクッとするね」
マカリアが肩をすくめる。
彼女の頬に触れる風は、魂を少しずつ削るように冷たい。
「油断しないで。タルタロスの空気は、時間と記憶を蝕む」
メリノエの声は低く、慎重だった。
黒曜石の岩壁が並ぶ一本道――そこを照らすのは、魂の炎だけ。
二人は冥界の守護者であり、同時に――冥王ハデスの娘でもあった。
だが今日は、“娘”ではなく、“探求者”としてここに立っている。
「……クロノスの牢は南棟の最深部だね」
「うん。記録では“時の鎖”で封印されてたはず」
歩を進めるたび、重力が増す。
空間そのものが押し潰すような圧力を帯びていた。
メリノエは息を整え、呪文を唱える。
「――〈冥路を照らす灯よ、我に道を示せ〉」
足元に青白い光の紋章が浮かぶ。
封印区域を進むための“許可の灯”。
「さっすがメリノエ! 冥界の通路魔法、完璧!」
「……おしゃべりしてる暇はないよ」
やがて、巨大な鉄の門が姿を現す。
門はひび割れ、内部から力づくで破られたように歪んでいた。
「これ……クロノスが自力で?」
マカリアが扉に触れた瞬間、微かな残滓が走る。
時間の魔力――そして、もうひとつ。
「……この波動、違う。誰かが干渉してる」
メリノエが目を閉じ、意識を沈める。
やがて、彼女の唇から小さく震える声が漏れた。
「まさか……これ、冥王の波動?」
マカリアの顔が蒼白になる。
「――お父様、なの……?」
「どうして……お父様が……?」
「……わからない。でも、確かに“冥王の痕跡”がある」
「メリノエ、とにかく急ごう! 世界樹の根を確認して、すぐ戻らなきゃ!」
「うん!」
二人は封印の奥へ走った。
そして、世界樹の根――その最先端にたどり着いた時、
二人は息を呑んだ。
根は黒く染まり、半ばから腐食が始まっている。
先端は朽ち、虚空に崩れ落ちていた。
「そんな……」
「ひどい……これじゃ、世界が……枯れちゃう」
メリノエが膝をつく。
マカリアは震える手で根の破片を拾い上げた。
「このままじゃ、世界が滅びちゃう……」
「……お父様にも確認したいけど、今は危険すぎる。
一度アカデミーに戻ろう。報告して、対策を立てないと」
「うん……」
二人は振り返る。
タルタロスの奥、崩れた牢獄の闇の中――
微かに“時の砂”が舞っていた。
それは、まるで誰かがまだこの場所に“いる”かのように。




